23
今度は自分がその小片をどうしても試してみたかった。
あの時のゴゥは、ケンよりも大きな幸福感に満たされているような、
だけど今は、そんな自分の浅はか過ぎた動機を大いに後悔している。
とてつもなく気持ちが悪くて嘔吐を催すも、もう体内には吐き出す物など何もなくなっていた。
流星が怒気を含んだ何かを叫びながら、腕を組んだまま部屋中をせわしなく歩き回っている。
若干の湿気を含んで西向きの窓を開けても風はなく、次第に蒸し暑くなってきた午後の2時。この時間は、アキラもケンもまだ帰宅してはいない。
アキラは昨日、帰宅してから頻繁に電話をかけまくっていた。いったい何があったのだろうかと流星は昨夜こそ訝しんだが、今はそれどころではない。
「
ヒステリックに歩き回る流星の腕を掴まえて、リカは涙を流しながら狂ったように同じ台詞を繰り返す。流星がこの家を内見に訪れた最初の頃こそクールに思えた第一印象など、今はもう微塵のかけらすらなくなっていた。
彼女のトレードマークともいえるオリエンタルを強調したアイラインも、今やもう涙に流されてパンダ目となっているが、更にそれを強調するかのような目の下のクマと、腰上まである真っ黒なストレートヘアーとが相まって、まるでオカルト映画に出てくるような不気味さを流星に漂わせてくる。
「もう
スロッピージョー(SLOPPY JOE)とは、牛ひき肉と玉ねぎとを混ぜ合わせてトマトペーストなどで煮込んだ一種のミートソースのようなドロドロとした具材をハンバーガーのバンズに挟んだ、アメリカでは子供たちに人気のサンドイッチの名称で、リカはまだひき肉の入っていないそのソースの缶詰を頻繁に買ってきては、そのままインスタントのマッシュポテトと混ぜ合わせたものを毎日の主食としていた。
「ぅるっせーなぁ! 落ち着けよっ! なぁリカぁ! なぁ!」
興奮しながらそう返してくる流星の方がよほど落ち着きなく、必死になって腕に捕まってくるリカの両手を乱暴に振りほどいて頭を掻きむしりながら、相変わらずヒステリックに部屋中をぐるぐると歩き回っているが、本人はまったくそれに気づいていない。
流星の頭の中は、この言葉だけで埋まっていた。
スロッピー・マッシュド・ポテト。
直訳すれば、ドロドロしただらしないマッシュポテト。
今のリカにはお似合いだと、流星は足を止めることなく思わず不気味な笑みをフフッと浮かべた。
それでもまだ流星自身にしてみれば、起き掛けにコカインを吸引しただけで、最低限なりにも理性はぎりぎり保てているつもりだった。
だが、脳ミソがスロッピーマッシュドポテトになっているリカはもう、これまでとは違ってまともな相手ではない。
今のリカに対しては、この自分もLSDを服用しなければ、けっして正気なんかでいられない。
いや、LSDのチカラで正気でなくならなければ、今のリカとは一緒になんかいられない。
そんなこじつけともとれる自分なりの理屈を心中でこねながら、ベッドサイドに放り出されたままの切手シートから焼き印が押された小片を引きちぎると、流星は自分の舌の上にそれを乗せた。
全開にしている窓から焦げた煙の臭いが漂ってくるのは、おそらくこの時期恒例の山火事が、隣のマリブ地区あたりで発生しているからだろう。
臭いの先に視線を向けてみると、空一面が灰色の煙に覆われている。
と考えていたら、突然その空が赤々と燃えだした。炎に包まれているわけではない、空自体が全面的に燃えだしたのだ。
流星は焦り、たじろぎ、腰の力が抜けて尻もちをついた。
前回よりもトリップが早い。
吸引したコカインの作用が、まだいくらか体内に残っているせいなのかもしれない。
うぅ……。
次第にリカの存在が薄れていく。
はずだった。
ところが前回のトリップとはまったく違い、多幸感に包まれてリカの存在が薄れるどころか、そのリカが今は自分を殺そうとしている気がしてならなくなってきた。
自分を助けてくれないオマエなんか死ねばいいと、リカが何かを持ってこちらに向かってくる。
このままだとオレは殺されるっ!
「来るなっ!」
何も持たずに唖然としてその場に立ちすくんでいるリカに向かって、流星は目を剥いている。
「どうしちゃったのゴゥ……」
自分がパニックに陥っていたせいで流星がLSDを口に含んだことなど、ポカンと口を半開きにしているリカには気づいていない。
「来るなって言ってんだろっ!」
「ちょっとぉ……」
リカは一歩も動いていない。
流星は恐怖におののいたように目を剥いたまま、デスクの方へと後ずさりしていく。
「どうしたのぉ」
「うるせえ!」
叫びながらデスクの奥に並んだシューボックスのひとつを開けると、流星は乱暴に手を突っ込んで何かを抜き出した。
えっ!?
「そ、それって……」
今度はリカが目を剥いている。
目を剥いたその先にあるものは、
「うるせぇって言ってんだろっ! 口をきくなっ!」
流星の左手に握られた、小さな拳銃だった。
実は、先代のケンが以前から隠し持っていた『ベレッタ』を、持ち主が帰国してからリカが護身用として秘かに自分のシューボックスの中にしまい込んでいた。流星はそれに気づいていたのだ。
だが、はたしてマガジンに装弾されているのかまでは、ふたりとも確認してはいない。その銃の安全装置を事前に解除していたかどうかも、今のリカには記憶がない。それ以前に安全装置が備わっていることをゴゥは知っているのだろうか。
いずれにせよ、今はただひたすら、安全装置がかかっていることを祈るしかない。
今度はリカが恐れおののいている。
や、やめてよね……。
「ゴゥ……」
恐れたリカが落ち着かせようと相手を呼んだその声が、「
その瞬間だった。
「パン!」と乾いた破裂音が聞こえたかと思うと、たちまちキーンと甲高い耳鳴りが流星を襲った。
と同時に、目の前にいたはずのリカの姿がなくなっていた。
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