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 こ、これって本当に、本当にこんなことになっちゃうんだぁ!

 きっかけは、ケンが残していったもう僅かなクスリたちがどこかにまだ隠されていないか、流星がリカと荷物を徹底的にひっくり返していた、その時だった。

 ケンが深夜に外出するときにだけ決まって羽織っていたライダースのレザージャケットを、数ある衣類の中から引っ張り出してみた流星は、大小いくつもあるポケットのジッパーを次々と開けて中をまさぐってみたところで何もなかった結果に大きな溜息をつきながら、続いて内ポケットへ投げやりに手を突っ込んでみると、透明な液体が入ったオーデコロンのサンプルのような細くて小さなガラス管と、切り取り線が正方形状に細かく入った切手シートを更に縮小したような手のひらサイズのペーパーが、まるで押し込まれたかのように隠れていた。

「ん? なんだこれ」

 さっそく掴み出して、隣でしゃがみ込みながら小物たちを物色しているリカの後頭部を見下ろす。

 「え?」とリカが長い髪をひっつめた頭をゆっくりと持ち上げて流星の手元に視線を向けたその瞬間、彼女の瞳が驚いたようにパッと見開き、なにやら怖気づいた様子をどことなく醸し出しながら、

「あぁ、それってもしかして、ブロッターかも……」

 と、まるで触れてはいけない秘密を打ち明けるかのような湿気を含んだ口調で囁いてくる。

「ブロッタァ?」

「え、知らない? その紙に、LSDを染み込ませてあるんだって。で、そっちがその原液」

「え? LSDィ……? って、あのLSDのこと?」

「あのって、意味わかんないけど、とにかくアシッドだと思う」

 幻覚剤の一種、リゼルグ酸ジエチルアミド。

 それを一般ではLSDまたはアシッドと呼び、それを染み込ませた小さな紙の破片をペーパーアシッドというらしいことは流星も何となく知ってはいたが、この界隈でブロッター(吸い取り紙)と呼ばれているとは初耳だった。

 しかしそれ以上に、ザ・ビートルズの最高傑作ともサイケデリックの象徴ともいわれたアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド』の3曲目に収録されている『ルーシー・インザ・スカイ・ウイズ・ダイヤモンズ』を作詞作曲したジョンレノンが、その頭文字から『L・S・D』を仄めかしたものであるという伝説は、世界中のファンには当然知っていなければならない常識として広まっている。そのことから、ここのところコカインの過剰摂取によって少しばかり容姿や性格が変わってしまったとはいえ、現在も熱狂的なファンである流星にとって、この魅力的な謎に包まれた小さな切手シートには、強烈過ぎるほどの大きな興味を抱かせた。

 これが、それかぁ……。

 L……S……D……。

 今すぐにでも試してみたい……。

 でも果たしてこれが本当に、あのLSDなんだろうか。

 だからといって、本当にこれがLSDなのかを確認しようにも、何の手立ても今の流星には考えつかない。

「けど、なんでケンなんかが、こんなモノを持ってたんだ?」

 苦し紛れに何となくリカにまたそう訊ねてみる。

「え? それは……ケンはねぇ、はじめてと会ったとき、これキメてブッ飛んじゃってたんだってば。けどそれはもう誰かに売ろうとしていたんだと思う。だって、それから何回か試してたけど、さすがにこれはヤバイ、ってかなり後悔してたみたいだから」

「じゃぁ本当にLSDなんだ」

「うん、そうだと思う。このちっちゃなのを舌の先に乗せてた」

 それを聞いて、流星はがぜん試してみたくなってきた。

 スマイルマークのような焼き印が押された小片しょうへんを、切手シートから引きちぎってみる。

「こんなにちっちゃくていいのかよ」

 ちぎったそれは、人差し指の先に置いてもまだまだ充分にスペースが余るほど小さい。

 確かジョンレノンとジョージハリスンが最初にLSDを体験したのは、ライリーという歯科医師から招待された食後のコーヒーで角砂糖に仕込まれていたのがきっかけだったと、何かで読んだことがある。だがこれは、角砂糖の一面よりもまだ小さい。

「うん、けどケンはむしろハサミでこれの半分に切って使ってた」

「え?」

 これの、さらに半分……?

 そんな小ささで自分がキマるとは到底思えない。

 このままでいいだろ……。

 と流星は早速そのまま極小な切片を舌先に乗せてみる。

 味は何もしない。

 しかも、暫くは何も起こらなかった。

 なんだか自分がマヌケに思えてきた。舌の上に得体の知れない小さな紙きれを乗せたまま、何もせずにジッと押し黙っているだなんて、傍から見たらさぞ滑稽こっけいな男に思うだろう。

 これって本当にあのLSDなんだろうか? と流星は次第に疑り始めてさえもいた。

 ところが、それから30分も経った頃だった。

 心臓の鼓動がどんどん高鳴ってきたと同時に、体の隅から隅までにとどまらず眼の奥までもがいきなり熱くなったかと思うと、突然、見上げていた天井が飴玉のようにグニャリと丸まり、慌てて視線を落としてみても、部屋中が同じくグニャリといびつに変形して、みるみるうちに自分がその蚊取り線香のような渦巻の奥へ奥へと吸い込まれていく。

 目に映るそのすべてが虹色のペロペロキャンディーのように色彩豊かで華やかだが、しかしその視界の中にリカはいない。声を出してリカを呼んだつもりでも、はたして声になっているのかさえわからない。

 とにかくカラフルな幻想の世界が流星を包み込んで離さない。

 遥か彼方に小さく見える窓からの家々が真っ赤に燃え、その中を真っ白なハトが不死鳥のように炎の尾羽を引きながら、天へと向かってグングンと羽ばたいていく。

「ワォ!」

 これって本当だったんだ……。

 本当に、こんなことになっちゃうんだ!

 よく聞くトリップって、こういう世界だったのかぁ!

 流星は口に含んだ小片に脅威を覚えていた。

 少なくともコークなんかじゃ、こんな体験なんてできなかった。

 すごい……。 

 いったい自分が立っているのか座っているのかすらわからない。

 というよりも、空中を飛んでいる次元を通り越して、物理的な身体などもう存在してはいなかった。

 自分が神に近づいていく魂だけになっている。

 これこそが、サイケデリックというやつなんだ……。

 とろりと溶けた脳みそが大気圏を超え、そして宇宙へ宇宙へと吸い込まれていく。

 今だったら世界中の誰とでも宇宙から交信できる。

 今のオレは、神のチカラによって宇宙へと導かれている。

 流星の魂は身体から離脱し、リカをひとり置き去りにして、遥か宇宙の彼方にまで猛スピードで飛んでいった。

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