20

 もうダメかもしれない……。

 アキラは自室でただひとり、火で炙ったガラス管を口に咥えては煙を吸い上げ、そして肺の奥深くまで沈めた煙を完全に吐き終わらないうちから、またイラつきながらガラス管を咥えては煙を吸ってを、何度も何度も繰り返している。

 メキシコ人から買っている安物のクラックの手を借りて自分の脳内が覚醒すれば覚醒するほど、その恐怖は尚も神経の隅々にまで伸びていく。

 オレもう、ダメかも……。

 オレもう、ダメかも……。

 オレもう、ダメかも……。

 オレもう、ダメ……。

 ヴワァァアアア~!

 気が付くと、自分の口から飛び出した叫び声が、自分の耳に響いていた。

 そのうめき声さえ恐怖に感じ、思わずデスクの椅子からベッドに身を投げると、両手に握っていたガラス管とライターとを床に放って屈みこんだまま、ホワイトアッシュに染められた自分の髪の毛を乱暴に掻きむしる。

 日本に戻ったところで、いったいこのオレは……。

 このオレは、何がどうなるっていうんだよぉ!

 またあんな思いをしなくちゃならないクソ日本に、このオレが……。

 けど、自分が裁判に負けるのは確実だし……。

 そうなったら、慰謝料なんて到底払えやしないし……。

 とにかく、こんなことがあのオヤジにバレたら……。

 考えれば考えるほど気持ちは沈み、強く閉じたはずの瞼から、涙がどんどん垂れだしてくる。

 果たして自分は、瞼を強く閉じているのかすらも、もうわからなくなっていた。

 絶望だぁーっ!

 そう思うと居ても立っても居られずに、ガラス管を拾いあげてデスクに向かい、再び乳色の結晶を管に入れてベッドへ戻ると、ライターの火で管の底をまた炙り、次第に揺らぎ出る薄紫の煙を吸い続けた。

 もしも今これを止めたら、リバウンドによる激しいウツが確実に自分を襲ってくるだろう。

 裁判の前に果たして自分が日本へ逃げられるのかさえわからない。 

 だが、たとえそれが叶ったところで、いったいこのオレは日本でどうなってしまうのか、自分で自分を分かっているのか?

 それはもう破滅するしか考えられないじゃん!

 そんな恐怖を抑えようと吸った煙が更なる恐怖を煽り、それを止めたら止めたで違う恐怖が倍になって襲ってくる。

 覚醒している脳内で闇雲に想定しただけの不確定な未来にすらも、アキラは何の根拠もなくひたすら恐れおののいていた。

 クッソ! もうどうでにでもなれ! 帰国するくらいなら死んだほうがマシだ!

 吸っていたガラス管をまた放り投げ、アキラは頭を掻きむしる。

 そんなタイミングだった。

 コン……コン……と、部屋のドアを誰かが控えめにノックしてくる。

 ん?

 掻きむしっていた両手を止めて、思わずドアへ向かって顔を上げた。

 もしかして、さっそく……。

 目を丸くして口を半開きにしたままのその顔から、途端に血の気が引いてくる。

 ま、まさか、よ、呼び出し……?

 ポ、ポリスが、もう……?

 いや違うだろう。まだ裁判すら始まってはいないんだから。

 そう考えると混乱しながらも少し気が楽になったのか、暴走し過ぎな自分の被害妄想さに辟易し、クックッと声に出して苦笑した。

 そして、瞳孔がまだ開き切ったままのアキラが、座っているベッドから冷静に「はい」と答えてみる。

 2秒ほどの沈黙があった。

 その2秒の空白がアキラにとっては長時間に思え、思わずベッドから立ち上がっていた。

 すると、ドアの向こうから「あのぉ……ちょっとだけいいですか……」と、やっと聞き取れる程度のくぐもった声が、かろうじてアキラの耳元にまで届いてきた。

 なんだぁ、ケンだったのかぁ……。

 ケンが今、ドアの向こうに立っている。

 改めてそう思ったその瞬間だった。自分の心臓がドクンとひとつ跳ねたのを、アキラは覚醒したままの脳内で感じとっていた。

 慌てて歩き出すとデスクの引き出しを開け、ガラス管と乳色の塊がいくつか残った小さなパッケージとをぞんざいに突っ込むと、何かを摘まみ上げてポケットに忍ばせながらドアへと向かう。

 そしてひとまず呼吸を整えてから、ドアを開けずにアキラは聞いた。

「どうしたの?」

「あぁ、いらっしゃると思ったんで……」と少しばかりトーンが上がった健児の声が、目の前の木板を通して聞こえてくる。

「あのぉ、ボク、こっちの運転免許を取ろうと考えているんですけど、手順がイマイチわからなくって……。なので、アキラさんならきっと知っているだろうから、できたら教えてもらおうと思って……」

 おそらくドアの向こうでニヤケながら下を向き、意味もなく後頭部を掻いている健児の姿が想像できた。

「なんだぁ、そんなことかぁ。ちょっと待ってねぇ……」と明るく答えながら慌ててアキラは換気のために窓を開け、そうして再びドアへと近づいて引き開けてみると、想像どおりのニヤケ顔で体を丸くしながらうつむいている、ミルクような甘い体臭を微かに漂わせた健児を招き入れた。

「そこ座んなよ」と、それまで自分が塞ぎ込んでいたベッドを顎で示しながら、アキラはデスクの椅子に腰を下ろす。

「なに、勉強の方は、はかどってんの?」

「べ、勉強ですか……? はい……ってか、ん~、どうだろぅ……思っていたよりもカレッジが大変で……」

 アキラの問い掛けに謙虚というよりも卑屈な雰囲気を醸し出しながら、健児はアキラに視線も向けぬまま、相も変わらず自分の後頭部をせわしなく撫ぜまわしている。

「まぁそう焦らずにさ、まだ来たばっかじゃん? 学校だってそのうち慣れてくるよ」

 自分なりの明るい笑顔でそう励ましながら、アキラは椅子から立ち上がり、そしておもむろに健児の隣に腰を下ろすと、

「なにせさ、俺たち留学生ってさ、ある意味ででもあるんだからさ。まぁ気軽にさ」

 そうして健児の丸まった肩に右手を回し、ポンポンと軽く叩いてやりながら、気づかれないよう左手でポケットから何かを抜き出して口に入れ、

「日本じゃ恥ずかしくって出来なかったことだって、この国じゃあ平気でやれるんだからさ、お互いに楽しもうよ。ね!」

 その手で健児の顔を自分に向けると、

 え!?

 「あの! ちょっ!」と目を剥く健児の唇に、いきなり自分の唇を押し付けた。

 ングッ!

 健児はいったい自分の身に何が起こったのか一瞬こそ分からなかった。

 だが、それが理解できたところでアキラが怖くて、抵抗できずにされるがままでいる。

 それを察したアキラは、そのまま両手で健児の顔を固定させ、そして自分の舌を相手の中に無理やり押し入れると、口に含んでいたピンクの錠剤を唾液と一緒に流し入れた。

 ンググ……。

 それは、以前のレイブでトモからもらった、エクスタシーことMDMAだった。

 性格が変わってしまった流星には使わせぬよう、アキラはこれまでエクスタシーを「いつかの為に」と隠し持っていた。そしてそれを使う日が、ここでついに訪れたのだ。

 健児の喉仏が上下する。

 最初こそ力なく抵抗する素振りを見せていたが、次第にトロンととろけるような表情に変わりながら脱力していく健児は、どうやらエクスタシーを飲み込んだようだ。

 そこでアキラは、待ちかねたように唇をゆっくり離してベッドから立ち上がると、ややおびえながらも頬をピンクに染めているぽっちゃりとした健児の目の前で、

「さぁ、楽しもうよ」

 と怪しく微笑みながら、穿いているジーンズをゆっくりと下ろし始めるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る