18

 たとえ夏の真っ盛りであろうとセミの鳴く声ひとつなく、蚊に刺される心配も夜の街灯に群がる虫の姿もないまま、毎日がただただ規則正しく闇雲に流れていく。

『ケン二世』こと山元やまもと健児けんじが翌8月21日からウエストロサンゼルスのタウンハウスに入居して、早1週間が経っていた。サンタモニカ・カレッジの新学期はもうすぐそこまで来ている。

 先週の入居時に『ゴウ』こと君島きみしま流星るきあをアキラから紹介された健児は、その見た目に最初こそ恐れおののいたものの、さすがにルームメイトというだけの関係であるから自分が虐められる訳でもないと、その後に感じた流星の見た目にそぐわぬ温厚な人当りと、日々の観察によって自分なりの確信を得てからは、ごく自然体でこれまで接することが出来ている。

 続いて紹介されたリカとはそれから話しかけたことも話しかけられたことも無く、よって未だに言葉を交わしてはいない。といっても、そもそも日本に暮らしてきたこれまでだって、とにかく異性から積極的に声をかけられたこともなければ、こちらから積極的に声をかけてみようと試みる機会すらまったくなかった。だからそれはこれまで通り至ってごく当たり前のことなのだと、健児はここに来ても異性と親しくできない自分を仕方なく思っている。

 アキラとは内見した時点でもう顔が知れているから、何ら緊張することもなく、ロサンゼルスでの生活について色々と聞きたいことにも親切に応じてもらっている。それどころか、なぜだかアキラに対しては、妙な親近感さえ覚えていた。

 ただこの1週間で驚いたことがひとつだけあった。

 それは、部屋の片づけも大体終わってコーラを取りにキッチンへと向かった時だった。

 真夏の西日が天窓から照りつける階段を降りようとした時点で煙の臭いが鼻を突き、しかしそれが何なのかが最初は分からずにいた健児が、頭を傾げながら階段を降り切ってリビングルームの奥へと振り向いた、その時だった。

 え!? みんなでタ……タバコを吸っているだなんて……。

 まさか、アキラさんまで……。

 ここ、禁煙じゃなかったんだ……。

 タバコを吸うどころか酒も飲めない健児にとって、それはまったくの誤算だった。

 それどころか、「ようお疲れぇ~、ケンもどう?」とそのアキラに勧められて眉間に皺を寄せながら3人に近づいたところで、やっとそれに気が付いた。

 え! それって、もしかして!

 声に出さずとも分かったのだろう、目を丸くしているその顔に、アキラが笑みを浮かべて明るく言った。

「そう、クサ」

「え? ク、クサ? ですか……」

 クサって、そんな……。

 マリファナをこんなおおっぴろげに吸っちゃって、いいんだろうか……。

 健児はそこで西日に光る頬の汗もそのままに、思わず2歩ほど後退した。かなり動揺している自分の様子がこの3人の目にありありと映っているだろうことは自分でも分かっていたが、それを隠せる余裕など小指の先にもなかった。

 本当は逃げ出したかった。こんな人たちとは一緒に住めないとも一瞬思った。親しくしていたアキラにも裏切られたような気がして少しだけ失望した。

 だがそこで、プレスが効いたピチピチなチノパンの左ポケットからハンカチを抜き出しながら、健児は冷静に考えてみる。

 あくまでもこの人たちはルームメイトという関係だけであって、身内でもなければ友達でも何でもないわけだし、僕はまっすぐ部屋に引っ込んで、ただひたすら勉強とアニメに浸って毎日を過ごしてさえいればいいだけじゃないか。

 大切にしているフィギアも日本からすべて持ってきた。あのコたちに囲まれてさえいれば、僕はこれからも安心して暮らしていける。

 だから、この人たちとは深くかかわらなければいいだけのことなんだ。

「あ、ボ、ボクは大丈夫です。あのぉ、コーラだけ冷蔵庫から取らせてもらえれば」

 健児は自分なりにそう明るく答えたつもりで、ハンカチを手に顔じゅうの汗を拭いつつ、丸い体を尚も丸めながら、3人が囲んで立つアイランドをコソコソと通り抜けて冷蔵庫のドアを開け、自分用のコーラを1本抜き出すと、そのまま何事もなかったかのような面持ちで、リビングルームから音もたてずに思い切り階段を駆け上がって行った。

「ちょっと刺激が強すぎたかなぁ……?」

 そんな新ルームメイトに視線を向けるでもなく、深く吸い込んだ煙を吐き出しながら、アキラが流星に向かって首を傾げている。

「けどオレも最初、みんなでクサをキメてた光景を見た時にはビビったよ。しかもあのケンがいきなりここにいて、これから自分は大丈夫なんだろうかって、さすがにその時はけっこう不安に思ったし。ハハ」

 と最後のひと口を吸い終えた流星がそう笑った。

 とにかく脳ミソがこそばくて、「まぁいずれはバレることなんだから、コソコソしててもしょうがないしな」といった何でもないアキラの返答にも、ついつい流星は笑ってしまう。

「それよかさぁ、どうするぅ? もうまずくなぁい?」

 分かっていながらつい吸って、いつものようにダウナーに陥ってしまっているリカが暗い表情を見せながら、流星が着ているTシャツの裾を脇からグイグイと引っ張ってくる。

「え、どうするって……」

 先代のケン一世が残していったクスリたちも、もうそろそろ底をつきそうなのだ。リカが目を吊り上げていたのにもかかわらず、流星が連日にわたって乱用したせいで思いのほか減りが早かった。

 だからといって、アキラの仕入れ元で手に入れるのはもうレベルが違い過ぎて、流星にとっては考えものだった。

 そこで、

が知ってるケンがひとりで買いに行ってたとこ、行ってみる?」

 アキラだけには聞かれまいとするかのように、流星の耳元にリカがそっと囁いた。

 だが当のアキラはそこにいる。リカの頭はおかしくなっていた。

「え? ケンが仕入れてた場所って知ってんの? リカがぁ?」

 と聞いた瞬間アキラは目を丸くしたが、それが自分で可笑しかったのか、不意に声をあげて笑いだす。そうなったらもうアキラの笑いは止まらない。くの字に曲げた腹を抱えたまま、ヒーヒーと身悶えまでしてみせる。日はとっくに暮れていたが、瞳孔が開いたままの3人は部屋の暗さに気づいていない。

「え? の話、アキラに聞こえてたの? チッ……。でもさぁ、こっからちょっと遠いんだよね、そこって」

 聞くとその売人はサンペドロにいるという。

 確かにサンペドロは、ロサンゼルス港からの密輸などで多くの売人が裏社会に蔓延はびこり治安が悪いと流星も耳にしていた。だがそこはたとえフリーウェイを飛ばしても、このタウンハウスからだと10番フリーウェイを東に行って110番に乗り換えたりで、軽く一時間以上はかかるだろう。

 そのうえせっかく現地に辿り着いたとしても、果たしてその当人と接触できるかの保証はない。

 だったらアキラのテリトリーを使った方が確実に手に入る。たとえ質が落ちようと、手元にまったく無いよりはまだマシだと、流星は覚醒している脳内でそう判断した。

 とにかく残りは少ないながら、この分だと1ヶ月以上はまだ持ちこたえることだろう。その間に他を探してみてもいい。

「そうだ……」

 情報仕入れに、しばらくぶりに来月からカレッジにでも行ってみようか。

 けど学生証が部屋のどこにあるのかがもう分からない。しかもそのカレッジから何やら封書が届いていたはず……。

 もしかして……。

 意図せず口にしてしまっていたのか、「え? 何が『そうだ』なんだよゴウ」と聞いてくるアキラを無視して、流星は呼吸を荒くしながら唐突に階段を駆け上がって行った。

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