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 全世界を震撼させた『同時多発テロ事件』による衝撃も次第に落ち着きを取り戻し始めた年末の午後。

 おそらくクリスマスシーズンのバケーションをとったのであろう家族らが他州から訪れているのか、久しぶりに多くの観光客で活気づいているサンタモニカの、そのなかでもひときわ賑わっているサードプロムナードに設置されたベンチに深く腰を下ろしたまま、まるで何かに憑りつかれたかのように同じ台詞せりふを何度も何度も口の奥でボソボソと繰り返しながら、青年とも初老ともとれるホームレスらしき東洋人の男が焦点の合っていない視線を膝元へ落としたまま、呆けた表情で固まっている。

 華やかな店舗が連なるファッションストリートの中央でひとりたたずむその男性は、前屈みになって両膝に肘を置き、両手を組んでいるその指先が微かに震えて止まらない。

 そのすぐ脇を、両親の背中について歩く白人の少年が通り過ぎたその途端、眉間のしわを思い切り寄せながら「ワァオ! ヒィズ・ソー・スティンキー!」と大げさに鼻を摘まんでも、その男はなんら動揺することもなく貧乏ゆすりを続けながら、呪文のようにただただ小さな呟きを繰り返すだけで、一向にやめる気配を見せずにいた。


 ケンが突然帰国してしまってから5か月が経った、1998年7月。

 いつもながら晴れ渡った真っ青な空からの強い紫外線を垂直に浴びながら、9月から始まる新学期に備えてあらかじめ部屋を借りておきたいという新留学生が、カレッジの下見も兼ねて日本から部屋の内見にやって来た。

 3月からルームメイトの募集をかけたというアメリカでは中途半端な時期が悪かったのか、受けた問い合わせはこれまでにたったの4件だけだったが、話が具体化したのは実はこれが初めてだった。

 当日、チャイムのボタンがあるのに気づかなかったのか、約束した時間きっかりにドアノッカーをガチガチと鳴らされて、なんとも不快極まりない独特な響きに目を丸くしながら玄関のドアを開けてみると、タウンハウスの前の車道に横付されている、おそらくレンタカーであろうコンパクトな白いフォードが本人の頭を飛び越えてまず目に入ったのは、対応に出たアキラよりもその身長が頭ひとつ低いせいだった。

「あのぉ、本日内見の約束をした……」

「あぁ、はいはい。まぁどーぞどーぞ」

 最初から分かっておきながらまるで今そう言われて気づいたかのように答えるアキラに促されて、脱いだ靴をドアの向こうに置いたままいそいそと室内へ入ってきた、愛知県出身という小柄でちょっと太めのその彼は、地元の高校を卒業後に専門学校へ通っていたが1年で辞め、その後に勤め始めた会社も先月いっぱいで辞めて現在に至っているという20歳とのことで、同じ歳の流星るきあと同じくサンタモニカ・カレッジへ2年間通ってから「UCLAへ編入するのがまずは第一目標なんです」と、照れ隠しなのか丸い体をもっと丸めて、黒く艶やかなマッシュルームヘアーの後頭部をゴシゴシと掻きながら、目を伏せたまま作り笑顔を浮かべている。

 そのあまりにも陰に籠もった雰囲気を漂わせている彼の様子にいぶかしげな視線を向けながら、アキラは秘かに鼻白んだ。

 ひょっとしてこの人、オタクなのかなぁ……。

 この日はアキラがひとりで対応した。流星もリカも姿を見せていないのは、3人でマリファナを吸っている前日に、「2人がいると、まず決まるものも決まらないから」というアキラからの指摘を受けたからだった。

 その時流星はハッと気づいた。

 そう言われてみれば、自分がここを内見したあの時も、確かにケンはいなかった。

 おそらくあの日もアキラに言われたのだろう、「ケンがいると決まるものも決まらないから」と。

 オールバックの金髪ヘアーに両腕のタトゥー、そして振り向けば鼻にピアスのあのケンが、もしもあの時この場にいたら、きっとビビって入居を考えたことだろう。

 けれどあの日は確か、リカはカウチに寝そべっていたはず……。

 ということは、もしかするとその時点で既にもう、2人の間に小さな溝が入り始めていたのかもしれない。

 流星はアキラの段取りを聞き流しながら、細く剃った赤い眉をひそめていた。

 当のリカは、何も考えていないかのように無表情のまま、どこを見るでもなく吸った煙を深く吸い込んいる。自分が居てはいけないというアキラの仕切りに対して、おもしろく思っていないのだろう。

 しかしそうした甲斐があったのか、その新留学生は、リビングルームやキッチンと自分が使う部屋とを大層気に入り、これからオーナーへ連絡を入れた後にガーデナへ取り急ぎデポジットを払いに行くと即決してくれ、この瞬間から新たなルームメイトが加わることとなった。

「ヤマモトケンジといいます。来月の下旬から宜しくお願いします」

「ケンジくんかぁ~、じゃぁウチではケンって呼んでいいよね!」

 ケンが去ってまたケンが来たと、アキラは自分のジョークを心の奥で笑っていた。

 そして「俺アキラ、これから宜しくぅ~」と2人が握手を交わしたその瞬間、

 あぁ……。

 うっすらと汗で湿ったしっとりと柔らかな新ルームメイトの右手を握ったアキラの体に、彼が持つ独特な何かが走った。

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