10

 エコーパーク・レイク……。

 あんな場所にボクがひとりで行くだなんて、無謀にもほどがあるってものだろう。

 流星は途端に気後れしはじめてきた。

 途方に暮れるとはこのことだ……。

 けど……。

 けど、ぜひ体験してみたい。安物のクラックなんかじゃなくて、本物の……。

 その場に立ちすくんで焦点の合わない視線を宙に漂わせながら、そんなことを考えている流星の背後から、

 「なんだったら、俺も一緒に行ってやろうか?」

 え?

 そう言ってきたのはアキラだった。

「一緒に行ってくれるの?」

 振り向きざまに流星が訊き返す。

「まぁ、いいよ。どうせ暇だし」

「アキラ……くん」

 その瞬間、彼ほど後光を放つ白馬に乗った王子様に見える人はいない、と半分まで空いたワインボトルを右手に持って胸を張るアキラへの感激を露わにした流星は、まるで神にでも祈るかのように瞳を潤ませながら思わず両手を胸の前で握り合わせていた。

 

 これ……。

 日付が変わって土曜の午前4時を過ぎたというのにまったく眠気も起きず、それどころか完全な覚醒状態に全神経が昂り続けていた流星は、その勢いでテキストを前に英語の勉強を休むことなくひたすら続けて止まらない。瞳孔が開いたままなその瞳は爛々とした輝きを放ち、そして白目の部分は真っ赤に充血している。

 流星がはじめて鼻からコカインを吸引したのは、あれから5日後となる金曜の夜のことだった。

 これ……

 スゴイ……。

 それまで異常なほど夢中になって読みあさっていた机の上に広げられているテキストの、その奥に放られたままでいる小さなビニールパッケージの中で、グラニュー糖のように青みがかった白色に反射している粉末へ、流星はいったんその手を止めて目を向けた。

 あれからもう何回吸ったんだろう……。


「売り物なんだよ」というアキラの車に便乗してシルバ―レイクへと向かい、そしてエコーパークのパーキングメーターが立つ路上に停めてから、運転席を降りたアキラの背中を追ってレイク沿いまで歩いて行くと、これといって何をするわけでもなくただタバコをふかして立ち並んでいる怪しげなメキシカンたちを横目にしながら、流星はひとりベンチに座った。

 その背後でアキラが彼らのひとりひとりに声をかけていく。

 それを背中で気にかけながらも何とはなしに湖畔を眺めてみると、おそらくメキシカンであろうと思われるいずれも肥満気味なヒスパニック系の母娘らしい3人が、何が楽しいのかあちらこちらに漂っている足漕ぎスワンを指さしながら笑っている。

 その光景に暫く目を止めていると、あるひとりと話がまとまったのか、ベンチに座る流星の隣にアキラが腰を滑らせてきた。

 と同時に早速どうなったのかと腰を浮かせて上体ごと振り向いてくる流星に、

「あのさぁ、今日はいつものメキがいなくてさぁ、だからモノは保証できないんだけど、ワンパケで200ドルのを180ドルにしてくれるっていうのがいるんだよね、どーするぅ?」

 フゥ―とため息をつくかのように疲れた感じでアキラが肩を落として囁いた。

 それを聞いた途端にキョトンとした表情で「え? どうするって、どうするも何も……」と視線を宙に泳がせたまま独り言のように呟いてから、

「せっかくここまで来たんだし、もう買うしかないでしょう? それにしても、そんなにするんだぁ……」

 アキラに視線を向け直して不服そうに口を尖らせながらも、すでにもう流星は尻ポケットから二つ折りの財布を抜き出している。

 軍資金はコンビニのATMから下ろしてきたばかりのギリギリ200ドルだった。

 流星から手渡された9枚の20ドル札を4つ折りにしてポケットに突っ込むと「じゃぁ具体的にこの金を見せながらもう少しだけ交渉してみるよ」との言葉を残してアキラはまたメキシカンの元へと戻っていく。

 その背中に目をやりながら、流星はそんなアキラを頼もしく思い、そして「いつか自分もひとりで交渉できるようになりたいなぁ……」と無意識に呟いていた。


「こんなに入ってるんだ!」

 帰宅する車内でアキラから渡された白い粉が入ったパッケージに目を丸くして喜んでいる流星に、

「日本じゃワンパケって大体0.2とか0.3グラムとか言われてるけどさ、こっちじゃコークだったら0.5グラムくらい入ってるんだよね」

 だから結局160ドルで買えたのはラッキーな買い物だったよと、アキラは運転しながら大声で胸を張っている。両席ともウインドウを全開にしているせいか、ラジオの周波数を合わせたKISS・FMからのヒップホップが風切音にはばまれて聞こえてこない。

 これで何回くらい吸えるんだろ……。

 高鳴る気持ちを抑えながら、強い陽光に反射して白く輝くパッケージに流星が目を細めていると、シルバーレイクからコリアンタウンを抜けて10番フリーウェイに乗った途端に、2人を乗せた『ミツビシ・エクリプス』は渋滞にはまった。


 その日の午後8時過ぎ、パッケージの中で真っ白に映える粉末を、流星はアキラの部屋のデスクの上できっちりふたつに分けていた。

「えぇ! こんなにもらっていいのかよぉ!」と驚きの目を向けて後頭部を掻きながら恐縮しているアキラに、

「自分は資金提供役で、アキラは現地までの運転手と交渉役だったから、半々なのは当然だよ」

 と、買ってきたパッケージともうひとつのパッケージとを真剣な表情で交互に睨みながら、流星は直接そのまま粉を入れ分けている。

 2人はこの時点でもうすでに、一度だけ白い粉を鼻から吸引していた。

 だからなのか、一点を見つめて夢中になっている流星の両目はまばたくことなく、やや寄り目がちな瞳孔は、大きく開いたままでいた。

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