9
同じタウンハウスに住んでおきながらケンとはなかなか会えずにいた12月に入って最初の水曜日。
サンタモニカカレッジから帰ってきた流星が、クリスマスのリースが飾られた玄関ドアを押し開けて背負っていたバックパックを下しながら、なんとなくリビングルームの奥に視線を向けてみると、キッチンのアイランドに寄りかかっているアキラがいつものワインボトルを直接ラッパ飲みしているその向こうに、冷蔵庫から何かを取り出しているたくましい逆三角形の背中が、まるでスポットライトでも浴びているかのように浮き上がって見えた。
ケンがいるっ!
その途端、これがチャンスとばかりに慌ててプーマを脱ぎ捨て、自分が床に置いたバックパックに自分でつまずきながらも、小走りのような早歩きで2人の元へと向かっていった流星は、その風圧で広めの額が露出しているのも気づいていない。
そんな切羽詰まったかのような殺気に満ちた様相でズンズンと向かってくるルームメイトの姿に気づき「よぉ、おかえりー」と声をかけてきたアキラへは見向きもせずに、「ただいま」とだけをぞんざいに返しながら尚も近づいていくと、冷蔵庫からエビスビールのロング缶と残り物のピザひと切れとを両手に持って振り返ったケンに 久しぶりの挨拶もこれまでどうしていたかを訊ねるでもなく、いきなり、
「ねぇケン、いまコークって持ってる? アキラから聞いたんだけど、ケンは上質なものが手に入るんだってね!」
まるで実の兄におねだりでもしているかのような上目遣いで、流星は媚びるかのようにそう声をかけた。
ワインボトルに口を当てながらそれを耳にした情報源のアキラがギョッと驚いたかのように、流星に向かって目を見開いたまま固まっている。
「コーク?」
一方のケンは、プシュッとビール缶のプルトップを引き開けながら流星の唐突な申し入れにその一言だけを発すると、なにを考えているのか、開けた缶の口に視線を落としたままでいる。
それから間もなくしてビールをひとくち喉元に流してから「フゥ―」と大きく息を吐いた後、まるでそこに流星は存在していないかのように、固まったままのアキラに向かってケンは言う。
「冷えたピザってよぉ、レンジでチンしたら、後から後から生地が硬くなっちゃってよぉ、まったく食えたもんじゃねぇよな」
その様子を目にして自分はどうしていいのかわからず愕然としている流星に、
「なに、試してみたいってか」
とだけ答えると、相変わらず視線を向けることなく、ケンは冷えたままのピザにかじりついた。
その隣でわざとらしく大げさに眉を寄せた顔を流星に向けながら、ここでやっとワインボトルを口から離して「えぇ~、知らねぇぞぉ~オレェ~」とアキラが声を上げている。
知らねぇぞって、元々のきっかけはキミだったんじゃん……。
そう言いたかったが流星は言えない。それどころか、むしろ逆にアキラに対して今は恩義を感じてさえもいる。
しかしそのアキラに続いて、それまで咀嚼していたピザをビールでゴクリと流し込んでから、にべもなくケンは言った。
「まぁ、まだやめとけや」
え?
やめとけって……いま言った?
思いもよらないその一言に呆気にとられた流星は、あっさりと断ってきたケンに向かって右足を一歩踏み出しながら、
「え、どうしてボクはダメなの?」
首を傾げた自分のあごに人差し指を立てた流星が、言われていることがまったく納得できませんといったふうに口を尖らせている。
いつもこうだ。
途端に流星はそう思う。
子供の頃から、兄貴は良くてもボクはダメ。
母親だけが味方だった。いつもボクを庇ってくれた。
けどその母親ももういない。いまのあのオバサンなんて日本でぜんぜん役立たずだった。
「ねぇどうしてボクはダメな……」
そんな流星の訴えを遮ってケンは言う。
「まだこっちに来たばっかだろぅ、おまえ絶対ハマるって。そしたらこの先どうなるかわかんねぇぞ。コッチで自由になれたからって、あんま調子に乗って暴走してんじゃねぇよ」
そうして再びピザを乱暴に食いちぎると、口を開けたままクチャクチャと下品な音を立てはじめた。
「けど……」
その口元に見るでもなく視線をやりながら、口を尖らせたままの流星がそこから言葉を続けようとしたそのとき、
「いいじゃん。だってカエデが熱くそう希望してるんだからさ、俺たちには関係ないことじゃん。本人がどうなろうとさ」
ここでアキラが割り込んでケンにそんな言葉を投げてから、綺麗に整えられた細い両眉を思い切り上げて、「なぁカエデく~ん」と無理やりパッチリさせた瞳を流星に向けてくる。
その顔にチラリと横目をやりながら流星は思い出していた。
「日本と違ってさ、あくまでも他人は他人だから。周りに頼らないで自分のオシリは自分で拭くのが、ここアメリカの掟だからね」
確かにアキラはこのボクにそう言ったことがあった。
「じゃあさ、ケンがどこで買っているのかだけでも教えてよ。それだったら、ボクが勝手に手に入れて吸ったってことになるでしょ? しかもこのボクが本当にひとりで買いに行けるのかも、ボク自身が不安でまだわからないしさぁ」
口の中に残ったピザをビールで流し込んでいるケンに、交渉というよりも「だったらいいでょ? ねぇ?」と流星がねだりにねだってやっと渋々教えてもらうことに成功したその仕入れ場所とは、
エ、エコーパーク・レイク……?
その瞬間から流星の顔色が変わった。
「エコーパークって確か、ダウンタウンよりもっと北じゃなかったっけ?」
しかも、確か……、
「あの一帯って、もっともギャングの多い危険地帯だと聞いたような……」
不慣れな交通機関の利用は勿論のこと、それを遥かに上回る不安と恐怖が、言葉にした途端にみるみる流星の胸の中で膨らんでいく。
「そうだよ。ギャング同士の抗争なんかもあってさ、いつだったかレイクの清掃で水を吸い上げてみたら、ドザエモンがいくつか上がってきたってさ」
アキラが自慢げにそう言ってワインボトルを空にした。
「だからこそな、違法ドラッグが手に入りやすいってことなわけよ」
死体の話を聞いて一段と表情を曇らせている流星に、ケンが薄く笑みを浮かべながらそう返すと、最後に残った幅の広いピザの耳を二つに折って豪快に口の中へと押し込んでいる。
その声を耳にしながら眉間にしわを寄せてうつむいたまま、真一文字に口をきつく結んで固まっている流星は、ケンがやめておけと言ったもうひとつの理由が、いまここでやっと理解できたような気がし始めていた。
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