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 アキラに近づいてきたそのメキシカンは、三日月を横に倒したような作り笑いの口元に細く手入れされた髭こそ鎮座しているが、どことなくあどけなさが残る目元からしておそらく彼はまだ未成年なのだろうと流星は思った。ドジャースのキャップを被っているだけでなくユニホームまでもを着ているが、下に穿いているのは股関節までルーズに落とした紺色のワークパンツだった。

 近距離まで寄って来たタイミングで「オーラ!」と握った右手のこぶしをアキラが突然その男に突き出した。何が始まるのかと流星は咄嗟に体を硬直させたが、すると男も「オーラ」と返し、自分のこぶしを軽く当てると「コモエスタス?」と訊いてくる。

 このメキシカンはアキラに何を言っているんだろうかと、その様子を目を丸くして何も言わずに見つめている流星の存在はまるで無いかのように、「ビエン、ビエン!」とアキラが返した。

 そしてすぐにアキラはそれまで握っていた右手のこぶしの人差し指を1本立て、それを目に留めた男が途端にワークパンツのポケットをまさぐり始めたかと思っていたら、一方のアキラも同様にチノパンの尻ポケットに手をやっている。

 そのあと今度は握手をするかのように互いの右手を合わせると、互いがすぐにその手をポケットに収めた。

 そんな2人の背中を、金縁きんぶちの眼鏡越しにチラリと見ながら、腰の曲がった黒人女性が、重みのありそうなオレンジが3つ透けて見えるスーパーマーケットのビニール袋を手にぶら下げて、ステッキを頼りにゆっくりと通り過ぎていく。前を開けて羽織っている老女のダウンパーカーは一見すると茶色のようには見てとれるが、果たしてそれが元々なのか、またはオレンジ色がこすけてしまっているのかは判別できない。

 そんなことを頭に浮かべて、真昼の強い日差しに目を細めながらその老女に気を取られている流星をよそに、

「アディオス、アミーゴ! ハバグッディ!」

 と声をかけるアキラに向かってヒョイとあごを上げて返したメキシカンが、その場から背を向けてリズミカルな歩調で立ち去っていく。

 え!?

 あの男がアキラの前に登場してから立ち去るまで、3分もかかっていない。

「え、ナニいまの! ねぇいまのナニ!?」とアキラの背中に声をかけながらやや興奮ぎみにしている流星は、その場にいた自分がもしやアメリカならではの危険状態と背中合わせなスリルに満ちた貴重ともいえる瞬間を垣間見てしまったのではなかろうかと、大いに鳥肌を立てていた。


 それから2ヶ月ほどが経った頃。

 午前4時になってもまだ流星が起きていたのは、アメリカ全土が1997年のニューイヤーを迎えて気持ちが沸き立っているせいではなかった。

 いや、ただ起きていたどころか、完全に覚醒し興奮状態が続いていた。

 これ……、

 スゴイ……。

 真っ赤になった白目に広きっ放しの瞳孔を黒く浮かばせて、机の上で両手に摘まんだ小さなパッケージを見つめながら流星は回想していた。

 ――――最初は、アキラに連れられて買いに行った2ヶ月前の安物からだった。

 確かアキラはあのとき、あのメキシカンが立ち去った後に、「ナニ? ナニ?」としつこかったボクへ小さなパケージを隠し持っていた手を広げてみせながら、

「あぁこれ? これはさぁ、クラックっつって、ブローの安い版なんだよね」

 と言っていたっけ。

「ブロぉ?」と訊いてみたボクに、

「うん、いわゆるコークコカインさぁ」

 と明るく答えていたけれど、「確かコークって、映画なんかで観たことのある、一種の覚醒剤なんじゃないの?」と恐る恐る言ってはみたものの、マリファナを吸った後のあの最高な想いがまたできるんだったらってチョットだけ吸わせてもらったら、マリファナとは全然ちがった凄さがあった……。

 確かにあのときのボクは、その違いに感激していた……。

 でもこれは……。


 メキシカンの売人と別れたアキラと流星がそのまますぐにタウンハウスに戻ると、アキラが部屋から持ってきた先端が球状になっているガラス管に、白く光るその結晶を球状の穴から慎重に入れてライターの火をつけ、ガラス管の底から炙りだした。

「あのメキ(メキシカンの売人)の存在もクラックの吸い方も、実はケンから教わったのさぁ。最初は教えられた通りに水パイプで吸ってたんだけど、とにかくあれは面倒くさくて」

 キッチンのアイランドで興味津々といった眼差しを向けながら見つめる流星に、アキラは続ける。

「ケンは相当なワルだよ。ここでケンとさえ知り合わなかったら、俺だってこんな世界なんかまったく縁がなかったんだから。結果的にそれが良かったのか悪かったのかは分かんないけどね」

「ケンさんがかなりのワルだってことは、もうあの自己紹介で嫌というほど僕の頭に叩き込まれたよ」

 そんなことを話しているうち、次第にパチパチという音が立ちはじめた。

 と同時にそれまで固形だった結晶が溶けだして、どんどん液体へと変わっていく。

「この跳ねるような音からクラックって呼ばれるようになったんだよ」

 得意げな眼差しを流星に向けながらそう言うと、咄嗟にガラス管を口に咥え、液体から発生する煙をアキラは思い切り吸い上げた。その後すぐにそれを手渡された流星も、続いて見よう見まねに吸ってみる。

 グホッ……。

 けっこうキツイ。でもマリファナだって最初はそうだった。だから我慢してより深く吸い込んでみる。

 その隣で流星を見つめるアキラの表情が、目元が次第に力強くなっていく。

 フォー……と煙を吐いた途端、たちまち流星にもそれは訪れた。

 こ、こんなに早くから……ん? なんだ!? この感じ! マリファナとはまた違った、もっと体の底からみなぎる、この感じ!

 なんだか自分がひと回りもふた回りもたくましくなったような錯覚に流星は陥っていた。この世に怖いものは何もないという自信が、腹の底からワラワラと湧きだしてくる。

 こんな世界なんかもあるんだぁ……。

 根っからの小心者を自負している流星にとって、自分がどんなものにも恐れない最強な神経を備えていると感じた経験は生まれて初めてのことだった。

 なんだか自分が他人になったようで、「すげぇ~!」と思わず声にしてしまった流星だったが、それもほんの束の間、それから5分後にはもうその多幸感はすっかり消え失せ、今度はむしろいつもより気分が落ち込み始めてきた。

 それまでの向かうところ敵なしだった気持ちがたったの5分で打って変わって、自分がどんよりと卑屈な地縛霊のようになっていく。

「なんたってワンパケ(1オンスのパッケージ)で10ドルだからさ、安モンのジャンクだもんコレ」

 だから効き方と持続性はイマイチなんだとアキラは言う。

「ケンだったら上質のコークを手に入れられるんだけどね。けどコークはさぁ、一発ハマっちゃったら抜け出せないから、俺はあんまりお勧めしないなぁ」とは言っていたけれど、そもそもキミだってすっかりクラックにハマっちゃってるわけでしょ? とその場で流星は思ったが、思うだけで口には出せない。

 それよりも、今の自分のこの鬱状態をなんとかしたい。なんとかしてほしい。

 けれどまた吸ってしまえば楽になるからって、続けてしまったら本当にハマっちゃうかもしれない。

 だけど……。

 もう一回だけだったらとばかり考えていた流星は、苦し紛れにシャワーを浴びることにした。

 シャワーを浴びてコーラを飲もう。

 なんだか広告のうたい文句のようだけど、とにかく冷えたコーラを一気に飲めば、頭も気持ちも少しはスッキリするだろう。

 けれど流星はどうしても気になっていた。

 ケンだったら上質のコークを手に入れられるってアキラは言っていた。

 クラックみたいな安物でもあれだけハイになれたんだ。ほんの5分やそこらの効き目だったけど、確実にボクは変われた。今までの自分とは違う、何か分厚い扉のようなものが、あの瞬間だけ確実に開かれた。

 だからもっと、もっと長く深い部分から自分を変えてみたい。ビートルズの楽曲のスタイルがどんどん変わっていったように、ボク自身がこれまで知らなかったボクに秘められた感性の扉を開いて、ビートルズと同じのような体感を自分もぜひ経験みたい。

 最初はそんなピュアで些細な好奇心だけからだった。あくまでもそういった自分の内なる変化を体験してみたいだけで、分かってしまえばもう必要としない単なる遊び道具のひとつに過ぎないだろうと流星は高をくくっていた。

 それよりも、今そうしなければ、今その一歩を踏み出せなければ、今後の自分が今までとなんら変わり映えしないまま、相変わらずいつまでもいつまでもつまらない人生をずっと進んでいってしまうだろうといった、将来への不安の方がより恐怖だった。

 ――――おまけに自分は小心者だから、中毒者になってしまうのを人一倍恐れている人間だから、だからボクは絶対に大丈夫。

 冷蔵庫から取り出したコーラをグラスにゆっくりと注いでいる流星は、そんな、何の根拠もないおかしな自信を持っていた。

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