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「アキラはさぁー、どうしてこっちに来たのぉー?」

 カレッジから帰宅したその日の夕方、リビングルームのソファに埋もれて相変わらず1ドル99セントという格安なワインを直接ボトルのまま飲んでいるアキラに、それまで声を張り上げて交わしていた世間話の流れから、キッチンで電子レンジに入れた冷凍ラザニアの解凍を待っている流星が、何のこだわりもなくごく自然にレンジの中を覗き込みながらふとそう訊ねてみた。

 だが少し待っても返答がないのでリビングルームへ視線を移すと、当のアキラはどうしたことか、苦虫でも噛んだかのような表情をしながら、

「だって日本にいるとさ、とにかく息苦しいじゃん?」

 こちらも見ずにそう言って、ワインのボトルを再び咥えようとしている。

「え? 息苦しいって……例えばどんな?」

 ただ頭に浮かんだ純粋な疑問を流星はそのままそう口にしてみただけだったが、

「まぁそれは追々ってことで……」

 しかし一体なにが気に障ったのか、お茶をにごすそんなひと言だけでワインボトルをテーブルに置いたまま、アキラは自分の部屋へと引っ込んでしまった。

 え……?

 ボクなにか機嫌を損ねることでも言ったかなぁ……。

 どうしたんだよアイツと口元を尖らせながらスウェットパーカーの袖を引っ張って右手を覆い、レンジを開けて熱くなったラザニアを取り出すと、冷蔵庫から抜き出した緑茶のペットボトルとを両手にしながら、ゆっくりと慎重に階段を上がって自分の部屋へと流星も戻った。明日までに始末しておかなければならない宿題が、机の上で今か今かと手ぐすね引いて待っている。

 部屋に戻った流星は、日本から持ってきたウォークマンのカセットテープをビートルズのアルバム「リボルバー」から「ビートルズ・フォーセール」に入れ替えてヘッドフォンを耳に当てると、余っていた割り箸でラザニアを突きながらテキストブックを開いた。

 録音編集が複雑でややサイケデリック感の強い「リボルバー」は曲にのめり込みすぎて勉強に集中できないが、1964年当時のクリスマスに間に合うようにと前倒しで発売された「フォーセール」だったら、急ピッチで制作したせいか手間がかかっていない分曲目も演奏もスカスカで、勉強中でも比較的聴き流すことが出来る。

 前奏もなくいきなりジョンレノンが歌いだす一曲目の『ノーリプライ』がヘッドフォンの中ではじまった。

 流星は子供の頃からビートルズの大ファンだった。イギリスで発売されたオリジナルアルバムはすべて持っている。英語はからっきし苦手な流星だったが、それがことビートルズの曲となると、そのほとんどを彼は歌詞も見ずに英語で歌える。

 しかしながら、もしもテストでそれらの歌詞を英語で書き込めと出題されても、耳で覚えた流星には単語のスペルまでは分からない。

 本心をいえば、どうせ留学をさせられるんだったらイギリスの方が良かった。

 留学中に暇を見つけては、ビートルズが生まれ育ったリバプールやペニーレーンやストロベリーフィールズやアビィロードなんかを積極的に散策して、現地の生の空気を実際に自分でも吸ってみたかった。

 だが父親は、息子の英語の発音がイギリス訛りになってしまうことを拒んでいると公言してはいたけれど、海外だったら本当はどこでもよかったくせに、せっかくロサンゼルスに自分の会社の支社があるわけだから、もしも息子に何かあった場合は現地の駐在員に丸投げできると踏んだのだろうと、流星はいまでも完全にいぶかしく思っている。

 ビートルズを聴き流しながら右手に箸を持ってラザニアを口へと運び、左手で辞書のページをめくってテキストブックと睨めっこを繰り返しているうちに、廊下を歩く振動が足元から伝わってきた。どうやら残りの2人が帰ってきたようだ。

 だからきっと向かいの部屋に、ケンと……。

 ケンと……。

 あぁまだあのコの名前を聞いてなかったんだっけ……。

 女性に奥手の流星は、なかなかあの黒髪の女の子に直接名前を訊くことが出来ないままでいる。

 明日にでもアキラに訊いてみよう。

 そんなことを考えているうちに耳の奥でビートルズのアルバムが終わった。


「学校も行かないでさぁ、キャバクラっつーの? ダウンタウンのおねえちゃんクラブでバイトしてんだよ」

 こともなげにアキラはそう答えると、冷蔵庫のドアを開けて中を覗き込む。

 え……?

 それは翌日の夕方のことだった。

「え、けどマズイんじゃないの? 彼女も学生なんでしょ?」

 身長はともかくとして、日本でここのところ注目され始めているアイドルに顔が似ていなくもないとの第一印象から、心の中で勝手に『アムロちゃん』と命名していた謎の女の子は実は何という名前なのかからの流れで、ついでに彼女は日ごろ何をしているのかも訊ねてみた流星は、冷蔵庫の中を覗き込んでいるままなアキラの尻に向かって、いかにも不安げに、自分でも情けなく思ってしまうほどのか細い声で、そんな意見を投げ返してみる。

 窓の外はもう真っ暗で、リビングルームが大きな窓に反射している。

「まぁ、バレなきゃいいんじゃん? だってそもそもがさぁ、おねえちゃんクラブ自体がぁー、この国では違法なわけだし」

 流星に尻を向けたまま、そこだけやけに力の籠めて「おねえちゃんクラブ自体がぁー」と言ってくるアキラにとっては完全に他人事として、あの娘がどうなろうと我関せずの様子を見せている。

「でもいいの? 捕まっちゃったら強制送還されるんじゃないの?」

 そこで体がぴたりと止まり、冷蔵庫から体を起こすと振り返ってアキラは言った。

「日本と違ってさぁ、あくまでも他人は他人だから。周りに頼らないで自分のオシリは自分で拭くのが、ここアメリカで生活していくためのおきてなんだから、カエデも人のことなんか気にかけてないでさ、自分のことだけ考えてりゃいいと思うよ」

 両手にスパムとコーラを持ちながらそう語っているアキラに目線を向けたままではいるものの、

 そんなもんなのかなぁ……。

 流星はそこがどうも心に引っかかって、その姿を視界に捉えてはいなかった。

 確かにこのロサンゼルスで、しかもこのタウンハウスで知り合った人間同士は、それまでまったくアカの他人だった。それはただ単に自分の生活環境を保障するためにこのタウンハウスを選択しただけであって、互いに何らかの繋がりがあったわけでもなく、ここに共存するそれぞれの志もこれまでの人生も、生活習慣も出身地も通学先も、そしてこの地にいる目的すらも、何もかもがまったく関わり合いのない関係でしかないことくらいは、流星も充分に分かっているつもりではいる。

「カエデの前にここにいたヤツもさぁ、何かあるたびに『どうしたらいい?』とか『どうすんの?こういうの』とかイチイチ俺らに訊いてくるんだよ。いや、訊いてくるっていうより、頼りたいっていうの? 日本だったらなんでも至れり尽くせりだから知恵がまわらないんだろうなぁきっと。けど自分が選択してアメリカに来たんだからさぁ、俺らには関係ないことだったら人に頼らないで、まずは自分で調べたりして自力で解決しろってーのなぁ。じゃないとさぁ、アメリカに住む醍醐味が半減しちゃうと思わない?」

 それが自分の身は自分で守らなければならないここアメリカという国なのだと、開けた缶を逆さに振って中のスパムを抜き出しながら、アキラは鼻の穴を思い切り広げている。

 アメリカに住む、醍醐味。

「まぁねぇ……」

 自分のことは自分で守るのがこの国の常識だとはよく聞いていたけど……。

 聞いてはいたけれど、でもせっかくの日本人同士なんだから、お互いに助け合えないものなのかなと、流星は無意識のうちに小さく首を傾げていた。

「っで、そういうヤツに限ってさ、いざ頼られた相手がちょっとでも間違ったアドバイスなんかしちゃったもんならもぉ大変。自分を棚に上げてそいつのせいでこうなったんだって、絶対に責任を擦り付けてくるんだよ。甘ったれんじゃねぇっつーの! やってらんねーよな!」

 宙を見つめながら考えに更けている流星を無視してアキラがそんな力説を終えると、

「……あそうそう、そんなことよりもさ、昨日ケンから分けてもらったんだけど、今日はやってみるぅ?」

 それまでとは一転して表情を和らげながら、親指と人差し指をオーケーサインのように丸くして、タバコを吸うようなジェスチャーで口の端へ寄せたり遠ざけたりしてみせる。

 その途端に、それまで何を見るでもないその視線をアキラへ向け直して「え? それってもしかして……」と目を丸くしている流星に、

「そう、クサ」

 まるで「冷蔵庫に牛乳が買ってあるから飲む?」くらいな軽い返事を、アキラはひょうひょうと言ってくる。

「だってカエデは吸いそびれちゃったもんな、こないださ」

 だからリベンジで一緒に吸おうぜとアキラはニッと笑顔を見せながら、ウインクするようにパチリと片目をつぶってみせた後、「ちょっと待ってて、いま持ってくるから」と、元々は書斎のために設計されたようなリビングルームの奥にある自分の部屋へと速足で向かっていった。

 かたや、違法行為の突然の誘いを耳にした途端に心臓の鼓動がいきなり高鳴りだした流星は、これといって喉が乾いているわけではないのに冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、キャップを開けてボトルの半分ほどまでゴクゴクと喉を鳴らしながら一気に飲みこんでいた。

 自分はこれから犯罪を犯すのだ。

 思えば、日本にいた頃の自分は優等生だった兄貴の引き立て役的な存在でしかなかった。

 冠婚葬祭なんかで親族が集まると、いつも兄貴だけがチヤホヤされていて、自分は『秀磨しゅうまちゃんの弟』としか扱ってもらえなかった。

 家は決して金銭的に困っていないはずなのに、洋服はもちろん、何にかもが兄貴の『おさがり』で、自分のために買ってもらったのは下着と文具とスニーカーくらいなものだった。穿き古されて回ってきたジーンズの丈が短かったり、さんざん乗り尽くされてからもらった自転車のサドルが低すぎだったりしたことぐらいで、全てにおいて兄貴は自分よりも勝っていた。しかも、自分が家族と一緒に過ごした思い出や、自分が父親から学んだ社会的知識は、当然兄貴にもあったけれど、逆に、兄貴が両親と一緒に過ごした思い出や、兄貴が父親から学んだ経営哲学は、自分にはほとんど記憶にないといっていい。

 でもこれからの体験は、さすがの兄貴だって持ってはいないはずだろう。

 流星は天井から照らしてくるダウンライトの光に黙って目をやりながら、兄の知らない世界をこれから迎える自分に異常な興奮を覚えていた。


 ―――― アメリカに来たボクは、これをきっかけにすっかり生まれ変わるんだ!

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