3

 元々ひ弱な男の子だった。まわりの子供たちよりも体が小さくて運動神経も悪かったから必然的にいじめの対象になっていた。幼いながらも心が折れそうになったことは何度もあった。

 しかし、そんな幼少期を送っていた流星をいつも励まし、そしていじめに潰されぬよう心を鍛えてくれたのは、同じ男の父親ではなく、産みの母親ただひとりだけだった。

「逃げるのは簡単。だけどそれは一度そうしてしまうと一生自分に付いてくる、やっかいな癖になってしまうものなの」

 だから今からその癖をつけてはならないと母は言った。

 その母親に見守られ支えられながら、やがて流星は自分自身でいじめに決着をつけることとなる。

 反発する暴力ではなく、自身の心の強さで。

 どんないじめに対しても流星は寡黙に耐えた。媚びへつらう行動は一切とらず、表情や感情をもけっして変えずに、ただひたすら我慢し続けたのだ。

 やがて、そうしているうちにリアクションを期待していたいじめっ子たちは面白みに欠ける流星の変わらぬ態度に飽きが来たのか、次第に頻度が減りはじめると、仕舞いにいじめはきっぱり収まった。

 こうして、自らの忍耐によっていじめに決着をつけたその時から、流星は表情や感情を自力で押し殺す技を身に着けたのだった。

 我が子を猫かわいがりに慰めるよりも、今後のためにとあえて立ち向かわせてきた、そんな母親を流星は心の底から尊敬し、そして心の底から愛していた。

 だが15歳になった少年にとって最愛の母親は、あっけなくこの世を去った。

 乳がんだった。

 父親との問題が、その発見を遅らせてしまった。いや、それがストレスとなって更に進行を加速させたに違いなかった。大学病院で検査を受けた時点ではもうすでに、肋骨や肺、肝臓にまで転移してしまっていて、もう手の施しようがない状態だったらしい。おそらくそこに至るまでの母親は、父親にすらもけっして弱音を吐くことなく、全身に広がってしまった痛みを我慢し続けていたことだろうと流星は思う。

 世界中で最も敬愛していた母親を亡くしてしまった流星は、一晩中、声を殺して泣いていた。これ以上ない寂しさと、何もできなかった自分に対する悔しさとが心の中で入り混じり、正座している太ももに何度も何度もこぶしを打ち付けながらひたすら黙って泣いていた。

 そんな反面、仕事こそ優秀でも私生活では問題ばかり起こしてきた父親のことを流星は心の底から軽蔑し、一方の父親も、男としての頼りなさに自分の息子ながら流星にはつくづく辟易していた。

 そんななか、自分の妻が死んでからわずかその半年後に、父親はいきなり勝手に再婚した。

 いや、再婚していた。

 流星はその存在を知らずにいたが、兄には事前に紹介していたらしい。流星は蚊帳の外だった。流星はそれだけ母親の死を深く悲しんでいた。だから父親は再婚を嫌うであろう次男には伏せていたのだ。

 母より13歳も若かった。

 そしてやはり流星は継母を受け入れられなかった。しかしだからといって特に嫌っているわけでもなかった。彼にとっての継母の存在は、その辺にいるただのオバサンのひとりにすぎなかった。

 かたやその継母に対しても実の母親のような物腰を崩さない兄の秀磨しゅうまは、自分と違ってうまくやって生きてきたと思う。すべてにおいて利口に立ち振る舞っていたし、父親にはけっして逆らうことなく、自分が物心ついた頃にはもう優等生で、弟の目から見ても非の打ちどころがない人だとつくづく感じていた。その弟にも優しいし頭脳明晰、大人たちへの対応もしっかりしていて、自分でも決して血のつながった4歳違いの兄弟だとは到底思えなかった。

 そんなコンプレックスを抱きながら育ってきた流星は、至って普通の大人しい少年だった。特に可もなく不可もなく、教室にいても存在感はなく、同じ学級の生徒であればぎりぎり、けれど学年規模になるとおそらく誰も自分の存在には気づかれぬまま、もちろん名前なんか誰も知らずに卒業まで至ったんだろうなと、流星自身も自覚している。このアメリカ留学だって日本で別れを惜しんでくれたのは、自分にとって唯一の友達と言っていい田村裕司だけだった。

 ようするに、同窓会で「誰だっけ?」と言われてしまうタイプの代表選手が、この僕だ。

「ボクの名前は母親がつけてくれたそうなんだ」

 そんな流星もただひとつだけ、兄よりも勝っていることがある。それは背の高さだった。身長179センチの流星に対して、兄は166センチ。13センチだけの優越感。

「それにしても『るきあ』なんて読み方、いくらなんでも凝りすぎだろ」

 その流星よりもコブシひとつ背の高い金髪オールバックに自己紹介をした途端に笑われた。

「うん、せめて『りゅうせい』くらいにしてくれたらよかったんだけどね」

 けれど流星は、それまで自分の名前が好きだった。なぜなら、彼が最も愛する母親がつけてくれたのだから。

 そんな流星の名を笑った金髪オールバックの本名はヒサシだという。人の名前を笑っておいて、そう言う自分だって見かけと違って何の変哲もない平坦な名前なんじゃん、と流星は心の奥で毒づいていると、

「地元の小金井じゃマッドって呼ばれてたんだ。けどこの国でマッドなんて単語を出して呼ばれたらヤベェだろ」

 だから自分はケンと呼んでくれと分厚い胸を張りながら、金髪オールバックは自分の鼻先に右手の親指を立ててみせる。いったい歳はいくつなんだろう。

「ほら、北斗の拳の、ケンシロウよぅ」

 ケン……シロウ……。

 そういわれてみれば、どことなく雰囲気が似ていなくもない。金髪のロン毛をオールバックにした、年齢不詳のケンシロウ。

「しかもケンって名前はアメリカ人にもいるからな」とも言ってくるそんな彼は、地元ではかなりの有名人だったらしい。悪い意味で。

「俺んとこの実家は建設機械っつーか、ユンボとかベルトコンベアなんかをゼネコンにレンタルしている事業をやっててよ。そこのドラ息子、すなわちこのオレが親のスネかじるだけかじった挙句にな……」

 道路交通法違反にはじまって恐喝と薬物乱用、一般人を巻き込んでの大乱闘に、果ては銃刀法違反と殺人未遂容疑とが重なって、ついに手錠をはめられそうになったところで、

「このLAに逃げてきたってわけなのだよ、ルキアくん」

 と実にあっけらかんとした表情で、いたずらっ子のように上目遣いで微笑みながら、ケンは咥えたタバコに火をつけている。

 犯罪のオンパレードじゃん……。

 この人どこまでワルなんだと流星は呆れながらも、「これからボクはルキアじゃなくて、カエデって呼んでよ」とひとつ断ってから、

「ビザは? どうしてるの」

 と気になったことを訊いてみる。

 そんないきなりの唐突すぎる質問に、咥えたタバコを口から離して「はぁ?」と眉根を寄せてから、 

「それはもちろんF1(学生ビザ)に決まってるだろぉ。当然じゃん。この俺でもとれるビザなんてそれだけだって。けど最初から学校なんか行ってねぇから、もうI‐20(アイ・トゥエンティ―・在学証明書)はとっくに切れたし、今はまぁ、モグリってとこだな」

 続けてケンは「だからな、もしいま帰国したらよ、向こう3年は再入国できないってことよ」と返してから、

「それにしてもカエデって、あのスラムダンクの流川るかわかえでのことか。俺もあいつは好きだったな。けどよぉ、ルキアもカエデもたいして変わんなくねぇか?」

 続けて流星に冷笑を浴びながら、再びタバコを咥えて思い切り吸いこんでいる。

 モグリ……。

「けどI‐94はD/Fなんでしょ? だったらまた他の学校でI‐20を……」

 ん……?

 茶化してくるケンとは裏腹に真剣な表情で真面目にそう提案しながらも、細いタバコの煙から漂ってくる独特な匂いが鼻について、流星にはそれがビザより気になりだした。

 その一方で、そんな話なんかもういいだろうといった素振りを見せながら、ケンは煙を尚も一気に吸いこんだ。

 んん?

 クセのある匂いが流星の鼻をついて離れない。

 シナモンが焦げたような独特なこの青臭い匂いって……もしかして?

 鼻先を宙に向けながらそんな勘ぐりを頭の中で巡らせている流星がよくよく観察してみると、ケンは吸った煙を更にもっと肺の奥へ奥へと沈め込んでから、しばらく呼吸を止めているようにうかがえる。 

 やっぱり……。

 タバコじゃないな。

 それまでケンの口元に向けていたその視線を彼の手元に移すと同時に、ここで流星は確信した。

 それって……。

「ねぇそれって」

「ルキア……いや……カエデも……吸う?」

 深く吸いこんだ煙をゆっくりと吐き出しながらも、一気に煙を出し切ってしまわぬようやや抑え気味に口を開いて、

 クサ。

 と答えながら、ケンは親指と人差し指で持った細い紙巻を流星に差し出してくる。

「クサ?」

 え?

 クサって……やっぱりマリファナってこと?

「へ?」

 いきなり『クサ』を差し出された流星は間抜けな反応を見せながら一瞬たじろんだ。

 この人は、犯罪を犯すにいいだけ犯した挙句に国外逃亡をしておきながら、初対面の相手の前でも、平気でマリファナを吸ってるって……。

 これといって悪びれる様子もなく、まるで食後の一服かのように、ケンは人前でごく普通にマリファナを吸っている。

 いったいどういう神経をしているんだろう……。

 どこまでもどこまでも、この人ってワルなんだ。

「あ、じゃぁオレもひと口、いい?」

 まん丸に目を見開いたまま唖然とした表情でケンに見入っているその背後から、アキラのそんな声がして流星はハッと我に返った。

「なに愕然としてるんだよぉ。ハハ、おまえもしや、クサ吸ったことないなぁ?」

 半分に減った細い紙巻をケンから摘まみ取りながらアキラが笑う。

「あるわけないでしょうー! 違法なんだからぁー!」

 かたやムキになって訴えてくる流星に、

「はぁ? こんなもんLAにいたら誰だって普通に吸ってるってぇー。しっかし、まだまだ青いのぉ~カエデくんはぁ~! ハハ」

 呆れたような顔を向けてアキラはそう返してくる。

 そんな2人の会話を耳にしたケンが、たいして可笑しいセリフでもないのにケラケラと体を折ってまでして笑いだした。

 きっともう飛んでいるんだろう。

 そう考えながら細めた目つきでその様子を凝視ぎょうししている流星に気づいたアキラが、

「吸ってみる?」

 と、ひと口吸って平たくつぶれた細い紙巻を向けてきた。

「え…?」

 どうしよう……。

 それは流星にとってまさに恐怖だった。生まれてからこのかた法を犯した経験なんか一度だってない。そもそも法を犯せるだけの度胸もない。

 だけどここは日本と違ってアメリカなんだ。自分はもうこれをきっかけしにて自由に生まれ変われるんだ。これがその記念すべき最初の一歩なんだ。こんなことでいちいち怖がってどうするんだ。もうこれからは意気地なしでビビり屋のルキアではない、いつも強気なあのカエデのように僕は生きていくんだ!

 暫くのあいだクドクドとそんなことを考えた挙句にようやく思い切って「うん!」と答えようとしたその時、

がもらうー」

 それまで押し黙ったまま激辛ドリトスを次から次へと止むことなく口に運んでいた背の低い謎の女の子が、それを横からあっさりといとも簡単に奪い取ってしまった。

「あ……」

 まじか……。

 もうかなり短くなった小さな紙巻を、尖らせた唇でその子は一気に吸っている。そんな姿を目にしながら唖然としている流星に、「横取りされてやんのォ~!」と2人が指をさしながらヒーヒー苦しそうに身をよじらせ、むせ返りながら尚も笑いが止まらない。それは収まるどころか、まるでその笑いが新たな笑いを呼んでいるかのように、どんどん笑いの渦が広く大きくなっていく。

 その一方で、せっかく清水の舞台から飛び降りるつもりで思い切って挑もうとしたというのに、結局は吸いたかったものも吸えず、かつ笑いのターゲットとなってしまって自尊心を大いに傷つけられた流星が、途端にへそを曲げたかのような態度で「じゃぁ、もう少し片づけがあるから」との言葉を残すと、オレンジ色の街灯の光が玄関の窓からほのかに差し込むだけの暗い階段をさっさと上って、自分の部屋へと消えていく。

 その背中に再び指をさして腹を抱え、さらに身もだえしながら尚も2人は笑い転げている。

 なんだよ、初対面だっていうのに平気でブッ飛びやがってさ……。

 2階の廊下を伝って自室に向かいながらそう口を尖らせる流星は、実のところ、初対面にも関わらず相手の目の前で露骨に違法を犯した挙句に笑っているケンに対して、大きなやっかみを覚えると同時に、ささやかな憧れをも抱いていた。

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