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「あ、はい、昨日はありがとうございました。内見しましたところ、ぜひ入居させていただこうと思いますので、来月からよろしくお願いします」

 2人兄弟の次男坊としてこの世に生まれた君島きみじま流星が、地元である世田谷の私立高校を卒業したその年からロサンゼルスのサンタモニカ・カレッジへ留学することになったのは、自身の意志というよりも、大手物流会社の三代目社長である父親の強引な取り決めからだった。

 兄の秀磨しゅうまはすでに東京都内の名門私立大学を卒業し、父親からの経営引き継ぎを前提としたうえで、社会勉強のために営業マンとして取引会社に出向させられている。

 その右手として未来の兄を支えるべく、そして自社の更なるグローバル化という夢を果たすためにも。

 といった建前で、父親は有無も言わせず一方的に流星を海外へ留学させることに決めたのだった。

 だが実のところはこの次男坊が2番目の母親とそりが合わず、父親にとって自分の居心地が悪かったがためにこのロサンゼルスへ追いやられる結果だったということくらい、誰よりも流星自身がよくわかっていた。

 とはいっても、英語は不得意だった流星にとってのアメリカ留学は無謀かつ苦痛でしかなく、当然ながらTOEFL(世界基準の英語テスト)は絶望的な点数だった。よって、まずは新学期の9月からサンタモニカ・カレッジの付属英語コースにフルタイムで通わされることまでもを勝手に決められてしまったが、当の流星は何も意見できなかった。

 ロサンゼルスに到着したその当日こそ、LAX(ロサンゼルス国際空港)の国際線ターミナルへは父親の会社から派遣されている現地駐在員が流星を迎えに来てくれたが、それからはすべて自分でなんとかするしか道はなく、しかしながら命にかかわる住まいだけは、留学エージェントから指定されたホストファミリーのもとでホームステイをすることに元々から決まってはいた。

 そのホームステイ先はカレッジから程近いウエストロサンゼルスでも特に日本人が暮らしやすいとされているソーテル地域とは聞いていたものの、しかし実際は10番フリーウェイ沿いのどちらかと言えばウエストデールの東部といっていいあまり綺麗なエリアではなく、しかもホストファミリーは中国系アジア人で普段の会話は自国語だった。これでは、ホストファミリーとの日常生活を共にすることによって、生きた英会話とアメリカ人の生活様式とを日々体験し学んでいく、といった本来の目的から逸脱いつだつしすぎでホームステイの意味がない。

 さらにエアコンが設置されていない部屋の窓から目に付くのはフリーウェイに沿って放置されているゴミの山とブルーシートの粗末なテントという、おそらくホームレスたちが生活を送っている一般世間から疎外されたスポットのように思われ、そのうえ日に2回提供される約束の食事はファストフード店のハンバーガーセットばかりといった有様だったが、契約した家賃に含まれている食費は実費よりも遥かに高く、子供たち3人を含むホストファミリーの中華料理のような毎日の食費はそれでまかなえているといっても過言ではないように感じてはいたものの、流星はけっしてそれを口に出せぬまま、不条理な毎日を大人しく過ごせざるを得なかった。

 そこで彼なりに頭を絞ってみた結果、日々のメニューを密かに毎回撮影し、自分の父親の会社の弁護士を通してエージェント会社もしくはホストファミリーを詐欺で訴える腹積もりでいると、エージェント会社へ写真つきでファックスを入れてみる作戦を思いついてはみたものの、自分の意気地のなさから計画は一向に進むことなく、結局は父親の会社からエージェントカンパニーにペナルティー代金を支払ってもらい、そうして入居から1ヶ月目にして不本意ながらう這うの体という有様でなんとかその家を出られることに至ったのだった。

 元はといえばホストファミリーから詐欺にあったようなこの自分が、なぜそこまでこそこそと逃げるようにしてあの家を出なければならなかったのか、流星自身はまったく腑に落ちずにいるままだったが、結局は、納得のいく解決策をひとりで遂行する度胸というものがあまりにもなさ過ぎな意気地なしの自分に対する情けなさの方が、経緯を回想する度にいつもまさってしまうのだった。

 その後は通っていたカレッジの日本人生徒からアドバイスを受けて日系スーパーの掲示板を元に部屋を探し、そうして何軒かの内見を試みて最後に足を運んだ先が、やはりソーテル地区に近いタウンハウスなのだった。

 その物件は3つのベッドルームと2つのバスルームといった間取りに日本人の留学生が現在のところは3人で暮らしているらしく、そこに自分を加えれば、計4人での共同生活となるということまでは、流星もすでに問い合わせた電話で聞き知っていた。

 その家のオーナーは古くから飲食店を営んでいる日本人で、あくまでも投資目的として購入したために本人はロサンゼルス郊外のガーデナ市に住んでいる。よって平日の午後に希望した部屋の内見相手は、オーナー不在のまま現在の入居人である誰かが代理で務めることになっていた。

 高校を卒業してから4か月という充分な時間があったのにもかかわらず日本で運転免許を取り損なった流星の移動は、必ずいつもビッグブルーというバスだけをつかっている。ここ一帯の地区を網羅しているこのバス会社は、UCLAやサンタモニカ・カレッジに通う学生であれば学生IDカードを提出すると無料で利用できるから経済的でもあった。

 しかし今回の内見は徒歩でも充分だった。というよりも徒歩のほうが面倒はなかった。

 なのに歩く速度がよっぽど人より遅いのか、はたまた知らないうちにどこかで遠回りをしてしまったのか、トーマスマップで探し当てたその場所は、確か住宅街を抜けて徒歩15分ほどで着くはずだったのに、結局流星は20分以上もかかってしまった。

 あぁここかぁ……。

 そうしてやっと辿り着いた目当てのタウンハウスは4軒が並んでつながっており、車道沿いとその奥との2列構造になっていた。

 えぇーっとぉ……。

 つまり8軒がすべて同じ建物で、流星はその道路側の右端にあたる、奥まったドアの前へと向かう。

 約束した時間よりも2分ほど遅れてしまった。

 額を覆っている前髪を一旦かきあげ、浮かんだ汗を手の甲で拭ってから頭を振ってまた元に戻すと、いつもと同じく少しだけ心拍数を上げながら、そのままその手の人差し指で、ドアの横にあるボタンを押す。

 と同時にリンドンと乾いたチャイムの鐘のをドア越しから耳にした流星の心臓が一瞬ドクンと跳ね、続いて鼓動が更に高鳴ってきた。

 すると暫くしてドアスコープが暗くなった。おそらくその向こうでは、誰が来たのかと住人が自分の姿を見つめていることだろう。いま住んでいるホストファミリーの家も同様に、古くからある家はそのほとんどが木製のドアをつかっているのに、このタウンハウスはそれとは違う。ということは、おそらくそれほど古くはないのかもしれない。

 といった特に意味のないことを考えているうち、ガチャリと錠を開ける音を響かせてドアが引かれはじめた。三和士たたきのないアメリカの玄関ドアは、非常事態時に外から蹴り破れるよう外から押して開けるタイプになっているのがほとんどで、この家もドアすれすれに立っていたところで支障はない。

「はぁい」

 気の抜けたそんな返事と同時に開けられたドアの向こうから、

 え? 白髪……?

 と一瞬思ってしまったホワイトアッシュに染められたマッシュルームへアーの男性が姿を見せた。

 髪の毛をこんな色にしてる人って、はじめて見た……。

 なのに髪の色とは裏腹に眉も瞳も真っ黒なその彼は、背は高いが青白くて線が細い。

 サーフィンやビーチバレーが盛んなカリフォルニアの西海岸とは無縁のように思えるが、一方でアニメオタクが集う大きなイベントもここのところダウンタウンで開催され始めているくらいだから、最近はボーダーレスなのかもしれない。まぁそういう自分も、モヤシといっていいのだけれど。

「あ、はじめましてこんにちは。自分、部屋の内見を予約していたものなんですが……」

 まったくもう午後1時に約束したというのに、鷲鼻が特徴的なこの白髪くんはまるでいま起きてきたんじゃないか平日にもかかわらず。とドアの向こうでこちらを見つめる相手に微かな疑惑を抱きながらも、少しばかりかしこまって、まずはそう挨拶してみる。

「はい? あっ、あぁはいはい、どぉもどぉも。まぁどうぞ」

 それとも大家さんがアポの予定を伝え忘れたのだろうか、この人はいま知ったかのような焦った反応をみせている。

「じゃぁお邪魔します。あ、靴はここで脱いだほうがいいですよね」

 爽やかにそう言いながら、流星が玄関口でプーマの紐を解こうとしてしゃがみ込むと、ドアの向こうはすぐにフローリングのリビングルームが広がり、右の壁に沿って2階への階段が目に映った。その視線を足元に落として紐を解いてから室内に入り、ピンク色のビーチサンダルやローカットの白いコンバースに加えて、現在の日本では異常なまでに取引価格が高騰しているナイキのエアーマックスがなんかが四方八方に散乱しているスペースで、やや急ぎ気味に靴を脱ぐ。

「ま、テキトーにどーぞ」

「え、あ、はい」

 へぇー……。

 お言葉に甘えてまず見渡してみると、リビングルームは広くて30畳くらいある。左の壁沿いにデンと置かれた30インチくらいはあるだろう最新式なフラットテレビの真正面に、3人がけの茶色いスエードのようなカウチと呼ばれているソファー、そしてその前に置かれたコーヒーテーブルと呼ばれている木製テーブルの両サイドを囲うように、同じく茶色いスエードのような一人掛けのソファーが向かい合っている。その奥ではダイニングテーブルとそれを取り巻く6つのダイニングチェアーが目に留まり、大理石のような天板のアイランドがある10畳くらいのキッチンには、両開きの大きな冷蔵庫がドンと鎮座しているといった、アメリカではごく一般的といえる典型的なレイアウト。

 イイじゃんイイじゃん……。

 途端に胸の奥が弾みだした流星だったが、ただひとつ気になるのは、そのダイニングテーブルとアイランドのそれぞれに、テイクアウトして食べ残した乳白色のプラスチックボックスや、半分残ったピザがひからびている平たい紙箱が蓋を開けたまま放置され、ポテトチップスの空き袋や蓋のないコーラ類の大きなペットボトルやスーパーとかレストランとかのチラシ類やなんやかんやが、ぞんざいに散らかったままでいるといったカオスな状況に陥っている光景だった。

 特に自分が綺麗好きという訳でもないけど、これはあまりにも……。

 汚ないなぁと眉をひそめながら、とりあえず流星はそのキッチンへ向かって奥へと進んでみる。

 そして小さく驚いた。

 まずは3人がけの茶色いスエードのようなカウチを通り抜けようとした、その時だった。

「うわっ!」

 なんとそこには、日本で大流行中の『たまごっち』に見入っている女の子が、仰向けに寝転んでいるではないか。そしてその脇にはゲームボーイが今にも床へ落ちそうな状態で無造作に転がってもいる。

 な、なんなんだ……。

 何の気配も感じずに、しかもカウチが大きくて、彼女の存在に今までまったく気づかなかった。だがその子もその子で、客が来たというのに無反応なのはどういうしつけを親から受けてきたのだろうか。

 そんな余計なお節介までもを頭に浮かばせながらの流星が、驚きの声が思わず出てしまったのを誤魔化すかのように「こ、こんにちは」と続けて挨拶してみると、

「え? あ、どーも」

 とだけで愛想のかけらもない。

 まるでハリウッド映画に出てくるオリエンタルな女性を彷彿とさせる異常なほど真っ黒なおかっぱストレートヘアーと、真っ赤なタンクトップと同じく真っ赤なスェットパンツ、アイドル系の可愛さが漂う小顔はたまごっちに向けられたままで、こちらをチラリと見もしない。高校生に見えなくもないが、おそらく20歳くらいなのだろう。なかなか手に入らないと言われている希少な白いたまごっちを持つ小鹿のようにか細い左の腕には、英語が並ぶ黒いタトゥー。カウチの背もたれにはばまれてわからないけれど、右腕にもなにか文字が入っているかもしれない。

 タトゥーなんか入れてること、彼女のご両親は知ってるんだろうか……。

 でもまぁいいか、ここはアメリカだから。と己の感情を抑えつつ、ホワイトアッシュに自分の部屋を見せてほしいと頼んでみる。

 すると毛足の長めなカーペットが敷き詰められた階段を気だるそうに上がって2階へと案内された流星が、「ここだよ」と左奥のドアを開けてもらって中に入ると、

 おぉ……。

 そこはバスルームつきのマスターベッドルームだった。

 マスターベッドって……そんなことまで書いてあったっけなぁ……。

 そう考えながら見渡すと、窓は小さめだが日当たりは良く、ざっと20畳はあるだろうフローリングの広いスペースには、クイーンサイズのベッドとデスクとチェアー、それにスタンドライトが各コーナーに3本も備えられている。

 おそらく実家の居間より広い。

「この部屋は自分だけが使っていいの?」

 ひとりで暮らすにはあまりにも充分すぎて、そんな間抜けな質問が思わず口から漏れてしまった。

「そりゃそうだよ。だって相部屋だなんて言ってなかったっしょ? 大家も」

「うんまぁ……」

 決めた。

 もうここに決めた。

「確かこの家に住んでいるのは3人って聞いていたけど、現在はあの女の子と2人だけで?」

「ううん違うよ、もうひとり男がいて3人。下にいる子はそいつの彼女」

「え? じゃあここは、スリーベッドにスリーバスってこと?」

「いいや、ここはスリーベッドのツーハーフバス。つまり俺たちはひとつのバスルームをシェアしてるの」

「え? あの女の子も?」

 なんだか悪い気がした。

 自分だけはバスルームを独占できることになる。他の3人はひとつを代わる代わる使っているというのに。

「でもトイレはあとふたつあるわけだから不便ないよ。そのぶん家賃だってこの部屋より安いし」

 聞くとこの部屋だけが200ドル高い。日本円にして大体20000円弱くらいの違いがある。でもまぁそれは仕方ないことだし、食費は別としてホームステイの家賃よりも100ドル安い。

 第一、ロケーションが格段にいい。

 完全に決めた。

 リビングやキッチンの共有スペースが乱れているのは少しだけ気になるものの、それもじきに慣れるだろう。なんだったら自分が掃除すればいい。とにかく今のホストファミリーはリビングを使わせてくれてなんかいないし、キッチンだって冷蔵庫の一部と電子レンジだけしか使ってはいけないから、全部を使えるだけでもありがたい。

 よし決定。

「じゃぁここに決めようと思うので、オーナーさんに連絡を入れておきます。これからよろしくお願いします」

「あ、そう。んじゃ、これからよろしくー」

 そうしてそれから大家に入居希望の連絡を入れると、身分証明のためのパスポートと実家の電話番号、そしてデポジットと前家賃分とを合わせた2か月分のチェックを用意して、再びタウンハウスの前で待ち合わせすることになった。

 しかしここで早速トラブル発生。

 ホストファミリーが本来のペナルティーは課さないものの、「1ヶ月という滞在日数の短さゆえにデポジットの返金はできかねる」と言ってきたのだ。

 そのデポジットを今度の部屋の分に補填しようと思っていただけに、到底そんなことは承諾できない。まずはエージェント会社に電話を入れた。がしかし、その頼みの綱も「そういわれましてもねぇ、滞在が1ヶ月じゃあねぇ」と渋い返答。

 そこで流星は、エージェント会社やホストファミリーを名指しで留学生支援団体に訴える旨を、自分からではなく空港まで迎えに来てくれた現地駐在員の口から代わりに伝えてもらい、やっとこの件も無事に解決したことはした。だがその日から転居するまでに提供された食事は以前までのハンバーガーどころではなくなり、薄くて小さなパンケーキ2枚とファミレスで無料のリアルバターと呼ばれるマーガリン、そしてバナナ1本だけになってしまった。

 もちろん流星は何も言えぬままこっそりパンケーキを外に捨てていた。そうすればホームレスや野良猫なんかが拾って食べるだろうからその方がいいと、ホストファミリーのごみ箱へ捨てられる度胸も勇気もない自分を苦しい言い訳でごまかしていた。

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