第8話

 僕の脳は壊れてしまって、馬鹿みたいに無意味に走り出した。あんなに求めた眞由華先輩に思いっきりぶつかって、薄暗い階段を転げながら降りた。一刻も早くこんなところから抜け出したかった。足の裏、太もも、背中、頭、肩、尻。身体中の共通点のない部位が痛かった。夢ではなかった。何かの悪い冗談でもなかった。

 眞由華先輩は僕のことなんか初めから好きじゃなかった。僕の童貞が好きなだけの変態だった。

 勘違いのしようがないじゃないか。童貞が欲しかっただけだってはっきり言われて、あれ以上何を聞けただろう。何を期待できただろう。「お前は勝手に失っただけだ」と宣告されて、すぐに狂わずにいられる程僕は強くなかった。

 急に身体が動かなくなった。暗い道の真ん中に倒れ込む。死ぬ直前くらい息が荒くて、汗が全身の至るところから吹き出ていた。擦り傷に汗が染みてじくじくと痛い。必死にヘアゴムを掴んだが、何も変わらなかった。どれだけ強く握っても、何もかもが少しも収まらなかった。

 僕は眞由華先輩の何が好きだったんだろうか。連絡なんて滅多に返してくれなかったし、デート中は財布を出さなかったし、好きだと言われたことすらもない。あの夜が記憶に残りすぎて、そんなことは気にせずにヘアゴムを集めていた。セックスした日の事以外、僕は何も覚えてなんかいなかった。告白の台詞も、日常も、全て。

 それも初めてのセックスという補正のせいなのかもしれない。僕はずっとセックスに盲目だった。童貞を奪ってくれた元カノ、という属性を追い続けていただけ。眞由華先輩ではなく、その属性に執着していただけなのだ。

 意識が薄れていく中、ぼんやりとゆかりさんのことを思う。唯一僕の味方をしてくれた、薄紫のヘアゴムのことを。

 違う。ゆかりさんはヘアゴムなんかじゃなくて人間だ。どろどろでぐちゃぐちゃでぼろぼろの僕には、その違いすら曖昧になっていた。

「ゆかり……さん」

 左手に力が戻っていくように感じる。利き腕ですらない左手で立ち上がった。全身が痛いまま、僕は足を引きずってひた歩く。

 時間の感覚が無くなっていて、どのくらい歩いたのかも分からなかった。スマホを見ようとポケットを漁ったが、中には財布しか入っていない。スマホも煙草も家の鍵も、恐らくどこかで落としてしまった。

 少しの金と安物の財布、四本のヘアゴムしか僕は持っていなかった。金と薄紫のヘアゴム以外の全てはゴミだったけど、こんなものすら失う惨めな人間になりたくなくて捨てられなかった。

「ゆかりさん」

 血の味がする口でそう呟いて、僕はまた歩く。左手首を握りしめながら、ゆっくりと。

 僕のアホな姿を見たら、きっとゆかりさんはあの営業スマイルで僕を慰めてくれる。おっぱいを触らせてくれて、フェラもしてくれて。もうそれで全部笑い話にすればいいじゃないいか。全部僕の勘違いで、ただの風俗通いの男が誕生しました、と。にゃんこ学園に通い続けた僕は、ゆかりさんのガチ恋になってキモがられましたとさって。

 どのくらい歩いたのだろうか。知らない内に日が昇っていた。見覚えのあるタイルが足元にあって、ゆっくりと顔を上げる。妙に明るい色が目に痛い。知らない内ににゃんこ学園の前まで来ていたみたいだった。足の裏の皮は恐らく剥げてしまっていて、染みるような痛みがあった。

 小汚い、毛玉だらけのシャツを着たデブが僕の横を通り過ぎてにゃんこ学園に入っていく。気持ちの悪いヤツだった。僕がああだったら、きっとゆかりさんは僕にあんな約束はしてくれなかっただろう。

 今ではもう、入店するのに一切の緊張がなかった。僕はすっかりこの店に慣れて、案外風俗というのが怖くないところだと分かっていた。

「いらっしゃいませ」

 怠そうな目をしたスタッフが一瞬こっちを見て、すぐに前を向き直した。今の僕は少しボロボロだが、このくらいの客なら結構よくいるのかもしれない。そういう意味でも、ここはやっぱり僕に残された最後の場所だ。

「六十分で、ゆかりさんを」

 少し奮発して、いつもより長いコースを選択した。話したいことがたくさんあった。笑って欲しいことがたくさんあった。ヘアゴムでは誤魔化せなくなった僕の全てを、射精で壊して欲しかった。

「ゆかり。……あー。辞めましたよ、ゆかりは」

「……え?」

「ゆかりはウチを辞めましたよ」

 今まで感じていなかった身体中の痛みが急に鮮明になる。アドレナリンで抑え込まれていた罪悪感、虚無感、絶望感、そういう最悪達もどっと僕を塗り潰していく。

 スタッフは変わらず死んだ顔で「フリーにします?」と言う。どう考えてもそれどころではないことを自分で言ったのに、こいつは平気な顔をしていた。

「待って、下さい。辞めるワケないじゃないですか、ゆかりさんが。数時間前までここで働いてたんですよ? 僕が失敗したら、慰めてくれるって言ったんです。来たらサービスしてくれるって。ゆかりさんが僕を裏切るわけないじゃないですか」

「辞めた理由はお話しできませんが、ゆかりは辞めましたので」

「そんなわけない! 僕に残った最後のものなのに。約束したのに。消えるわけないやんか。……お願いだから、つまらんこと言わないで下さい」

 勢いで言っただけの言葉は続きが出てこなくて、スタッフを睨むことしか出来なかった。僕より身長の低いスタッフはそれでも全く動じなくて、見下したような冷たい目でこっちを睨み返している。

「申し訳ないんですけどね、風俗ってそんなモンですから。なんの告知もなく辞めてくのが普通。お客さんみたいなおかしい人も来ますからね。……すいませんけど、出ていって貰えます?」

 そう言って出入り口を指差すスタッフは、心の底から面倒臭そうにそう言い捨てる。

 必死に左手首を握る。何も変わらなかった。全身の痛みも、最悪の感情達も、この状況も。全部そのままだった。頭の中では、ゆかりさんが本当にいなくなってしまったことが理解出来てしまった。

「すいません、でした」

 もう屁理屈すら言えなくて、深々と頭を上げた。舌打ちが浴びせられる。惨めに真下を向いたまま、にゃんこ学園から出た。今まで見送ってくれたゆかりさんは当然居なくて、泣きそうになった。


 どこに向かうわけでもなく、ただ歩いた。もう僕が向かう場所なんてない。愛さんと話したアカウントも、瑠奈や家族の住む地元も、眞由華先輩の住むマンションも、ゆかりさんがいつも居たにゃんこ学園も。全てが僕の居場所じゃなくなっていた。

 歩を進める度に溢れてくる罪悪感と不安に耐えられなくて、倒れ込むように塗装の剥がれたベンチに座る。これからどうすればいいのか、一つも分からなかった。

 吐き気のようにせり上がってくる感情を、意味もなくヘアゴムを握って我慢した。今まで抑え込んできた反動なのか、爆発的に膨張していく感情で身体が馬鹿みたいに熱くなっていく。そうやって蹲っていると人生で一番の勢いで勃起した。

 鉄のように固くなったチンコを撫でる。ゆかりさんの言っていた通り、抑えていた悪感情は精子になって溜まっているらしかった。勃起しすぎて痛いと思ったのは初めてだ。

 チンコはもっと固く大きくなっていって、射精しないと死んでしまうのではないかと思うくらいだった。上手く動かない身体に鞭を打ち、公衆トイレに入る。

 公衆トイレ内には個室しかなかった。空いている個室に入り、ゆっくりとズボンを下ろす。誰とセックスしている時よりも大きく勃起したチンコはまだ固くなり続けていて、焦燥と共にチンコを握った。

 必死に、天を仰ぎながら擦り続けた。眞由華先輩とのセックス、ゆかりさんの手コキ、愛さんとのセックス、瑠奈とのセックス。人生で一番のエロを思い出しながらオナニーしているのに、一向に気持ちよくはならなかった。焦りが募る。早くイって楽になりたかった。こんなの、初めてのセックスより酷い。イったフリなんて自分には通用しないのだから。

 汗が止まらない。全身が熱かった。もう何をすればいいのか分からなくて、無意味に手を動かし続けた。チンコが破裂しないか心配で手元を見る。BPM一二〇で動く手首には、ヘアゴムが揺れていた。

 びく、と身体が震える。ほんの少し身体に快感が走った。……ヘアゴムに、興奮した。ヘアゴムにチンコが反応したのだ。

 目が乾く程にヘアゴムを見つめながらチンコを擦る。確かにヘアゴムはエロいと思っていたが、オカズになるほどだとは想像もしなかった。

 ちょっとは気持ちよさを感じるようになったが、それでも絶頂には程遠かった。焦燥と不安でいっぱいの頭にゆかりさんの言葉が浮かんでくる。……オナニーじゃ駄目だ。そうして考えている間にも勃起は止まらず、息が上手く出来なくなる。

 オナニーじゃ駄目だとゆかりさんは言っていた。今すぐにセックスがしたかったけど、相手なんかいない。赤の他人をレイプなんかしたら本当に犯罪者だ。でもセックスをしないと感情が爆発して死んでしまう。二律背反が焦りと不安を加速させる。全力で走った時よりよっぽど息が荒くなっていく。

 一時的にでも感情を逃したくてヘアゴムを見ながら必死にチンコを擦る。ヘアゴムを見れば見るほど、今まで重ねてきたセックスを思い出してより気持ちよくなっていった。ヘアゴムにセックスを感じるに連れ、やがてヘアゴム自体がセックスなのではないかと思う。

 ヘアゴムはエロいし、いつだってセックスの側にあった。ちゃんと穴もある。……じゃあ、こんなのセックスと変わらないやん。

 左手からヘアゴムを外していく。リボンの付いたピンクのヘアゴムを、パールの付いた水色のヘアゴムを、飾らない薄紫のヘアゴムを右手の中に収める。そのまま三本のヘアゴムをチンコに通した。強く、強くチンコを握って擦る。感じたことのない快感が僕を襲う。それはセックスだった。誰かの膣を思い出す。熱い膣だった。手が止まらない。僕は今セックスをしていた。セックスとヘアゴムが結びつく。僕とセックスは共にあった。ずっと。ヘアゴムはセックスだった。

 右手からボロボロの茶色いヘアゴムを取る。僕の原初であるそれは、他のどんなヘアゴムよりも艶めかしかった。

 チンコに最後のヘアゴムを通す。ぐちゅり、とカウパーの音が鳴った。強く握った手の中が膨れ上がった。脳が震える。身体中が一瞬爆発したように熱くなり、一気に全てがチンコに集まっていく。

 大きい声が出てしまっているのが分かった。どんどん声は大きくなって、絶叫に近くなる。

 無意識に手が早くなっていく。身体中が熱い。全てがどうでもよかった。今この瞬間、僕がセックス出来ていることだけが幸せだった。

 破裂音が全身に響いた。身体が震える。足がピンと張り、熱がチンコから放出されていた。四本のヘアゴムはどろどろになっていて、こういうのもエロいなと思う。

 全身に塩が染みるような、じんわりとした痛みが心地いい。外がざわざわとしている。何かがあったらしい。

 どんどん、と扉を叩く音がする。無粋だと思った。もっと、もっと余韻に浸らせて欲しい。

 事後の空気を台無しにされたようだった。ヘアゴムを撫でる。今度は静かな場所でしようね、と囁いた。

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ヘアゴムの穴 山田大変身 @hairtie

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