第7話

 電車に数十分揺られ、あの日から来ていなかった地に立つ。記憶にこびり付いたコンビニの前を通り過ぎた。眞由華先輩とお酒を買ったコンビニだ。あの日から何も変わっていない景色の中で、僕だけが変わらずそこに居た。

 早いとは言えないペースで歩く。心臓はその倍くらいのスピードで動いていて、ヘアゴムから手が離せなかった。

 時刻は夜の十時。あの日、眞由華先輩の家に行った時間もこのくらいの時間だった。そんな細かいことまで覚えている自分が気持ち悪い。

 点滅する街灯を目印に右へと曲がる。この曲がり角で「もう付き合って一週間ってさ、早いよね」と言われたことを思い出す。確か「そうですね」ってすかすかの返答をしたと思う。眞由華先輩の笑顔が懐かしかった。

 しばらく真っ直ぐ歩くと、三階建てのマンションが目に入った。眞由華先輩の住むマンションだ。あの日に童貞を捨てた場所にしてはみすぼらしく見える。

 目線を下げる。暗くて色味は分かり難かったけど、そこには確かに四本のヘアゴムが存在していた。

 リボンの付いたピンクのヘアゴム。パールのようなものが付いた水色のヘアゴム。どこか安心感のある薄紫のヘアゴム。左腕に付いている三本のヘアゴムは女性経験を証明してくれる。そのために背負った業はまだまだ振り切れそうにないけど、眞由華先輩へのセックスで少しずつ償えればいい。

 右手首を握る手を離す。冷たい空気が染みた。そこには変わらず薄茶色のヘアゴムがある。ずっと近くで僕を見続けて、ずっと僕を縛り続けたもの。眞由華先輩のくれたヘアゴム。

 マンションの階段は以前と変わらず薄暗かった。重い足で階段を上っていく。前に来た時は片手に酒の入ったエコバック、片手に眞由華先輩の手があった。その時間が終わることなんて考えもしなかった。

 三階に辿り着く頃には息が荒くなっていた。エレベーターくらい付ければええのに、と心の中で悪態を吐く。三階の一番奥が眞由華先輩の部屋だ。荒い息を整えることもせず前に進む。吹き抜けになっている通路からは遠くなんて見えなくて、窮屈に思えた。

 一歩踏み出すごとに自分の足音が大きくなっているように感じる。聴覚が過敏になっていた。無意識の内に右手首を握る。今となっては、このヘアゴム無しで生きることなどあり得ないことだった。

 汚れた白色の壁にぶつかりそうになって、慌てて足を止める。眞由華先輩の部屋……三一七号室はもう目の前にあった。生唾を飲み込む。部屋からは物音の一つも聞こえない。

 身体は動かなかった。インターホンを見つめる。右手首の中には毛玉の感触が確かにあって、あの日の記憶が鮮明に蘇った。初めて飲んだお酒の味、乾杯の音、眞由華先輩の唇、肌、胸、膣、熱。途中から分からなくなってしまったセックス、フラれた時の絶望。

 もう一度、彼女とセックスがしたかった。上手くなったねと褒められたかった。

 握られたままの右手で、震えながらインターホンを押す。抑揚がない音が響いて少し経ったけど、眞由華先輩が出てくる様子はなかった。もう一度、過剰なくらいに強く押す。何も起こらなかった。

「居ない」

 そう口に出した瞬間、力が抜けてその場に座り込んでしまった。緊張と不安と、とにかく色々が一気に押し寄せてくる。よく考えたら想像出来たことだ。大学生なんだから、夜中に飲みに行くことだってあるだろう。

 じじじ、と何かの虫が明かりに突っ込んだ音がした。誰かが階段を上っている靴の音も聞こえる。車の音、笑い声、テレビの音、何かの溢れた水音、電車の音。

 家に帰ろうと思った。よろけながら立ち上がる。晩ご飯はコンビニの適当なもので済ませて、シャワーは面倒臭いから明日の朝浴びよう。しばらく動き続けていたからなのか身体は疲れていて、今日の終わり方を考えるので精一杯だった。

 目の前から二人分の足音が聞こえてくる。不審者と思われる前に、帰ってしまおうと思った。

「……友樹?」

 ほんの二メートルくらい先から聞こえてきた声が、一瞬誰の声なのか分からなかった。脳が起きていることを処理し切れていない。

「…………眞由華、先輩」

 目の前には、眞由華先輩がいた。後ろにもう一人冴えない男がいる。まるで眞由華先輩と付き合っていた当時の僕のような男だった。何なら僕よりも酷い冴えなさだ。下を向いていて、銀縁の四角いメガネをかけている。超ブサイクってわけではないのだけど、自信のなさそうなヤツだった。

「ま、眞由華さん。お知り合いです、か」

「……ん。そんなトコ。ちょっとだけ話してくからさ、先に入ってて?」

「で、でも」

「良いから。お酒、冷蔵庫に入れといてね」

 眞由華先輩は家の鍵を開けて、冴えない男を家の中に放り込んだ。ぐいぐいと背中を押される彼への嫉妬、手遅れだったかも知れない焦り、ベタに兄弟かもという希望的観測。僕は何も言えないまま、鍵を閉める眞由華先輩の背中を見つめるしかなかった。

「久しぶりじゃん、友樹。髪染めたんだ? 垢抜けたって感じする」

 こちらを振り向いた眞由華先輩はそう話す。何の動揺もない、静かな声だった。

「……お久しぶりです。カッコよく、なりましたかね」

「結構ね。次は金髪とかどう? 似合うと思うけどな〜」

 そう言って眞由華先輩は笑った。そのえくぼを見るのは久しぶりで、胸が痛む。

「前期の単位は落とさなかった? 私、また必修落としちゃってやばいんだよね。留年とか嫌だな」

「何の用か、聞かないんですね」

「折角久しぶりに会ったのにさ、結論から入ることないじゃん。友樹ってばちょっと都会に染まった? 都会人は皆せっかちだから、影響されちゃうよね」

 背中をドアに預けながら彼女は言う。鍵を閉めた時もそうだったが、何だかあの男を守ろう、隠そうとしているようで苛ついた。半ば癖のように右手首を掴む。

「ね、煙草吸っていい? あの子の前じゃ吸えなくて」

 そう言って眞由華先輩は煙草の箱をバッグから取り出す。黒いパッケージにデフォルメされた悪魔がデザインされている、変な煙草だった。

「共用スペースですよ、ここ。というか煙草吸うようになったんですね」

「吹き抜けだからいいの。付き合ってる時に吸ったら嫌われちゃうかも知れないから我慢してたんだ」

「……今は嫌われてもいいってことですか」

「落ち着いてよ〜。ほら、煙草吸う人とは付き合いたくないって人いるでしょ? そんなのでフラれるのは悲しいじゃん。私なりの取り繕い。お友達や知り合いだったらさ、嫌だったら勝手に消えていくし」

 煙草に火を付ける彼女を見つめながら、あの男はやっぱり新しい彼氏だったと分かってしまった。取り繕わないといけない相手が変わってしまったのだ。

 同時に、盗り合いなら勝てるかもしれないと思った。自分に絶対の自信があるわけでもないが、僕は絶対にあいつよりはカッコいいしセックスが上手いはずなのだ。

「……そのくらいじゃフりませんでしたよ。ライター貸して下さい」

「え、煙草吸うようになったの⁉ 変わったねー、ほんと」

「眞由華先輩が言ったんじゃないですか。このくらいは都会じゃ日常って」

「言ったっけ?」

 手渡されたライターで、まだ吸い慣れていない煙草に火を付けた。眞由華先輩のライターはビビットなピンク色だ。

 二人で煙を吐き出すだけの数秒が過ぎる。何をしに来たのか一瞬分からなくなった。灰をどこに落とそうか迷ったが、眞由華先輩に習って空に落とす。

「見て下さい、これ」

 右手で煙草を持ちながら、左腕を眞由華先輩に差し出した。三本のヘアゴ厶。僕のセックスレベルの証明。彼女に認められるために犠牲にしたものの凝縮。

「可愛いのばっかり。ヘアゴムマニアになったの? ね、それなら私のヘアゴムは? いや捨てろって言ったのは私だけどさ」

「ちゃんと付けてますよ。特別だから、右腕に」

 煙草を持ち替えて右腕を見せた。眞由華先輩の顔が少し緩んで、また互いに煙草を咥える。

「私のヘアゴム大事にしちゃって〜。捨てろって教えたじゃん。可愛いヤツめ」

「……その。左腕にヘアゴムは、セックスした相手から貰ってきたんです。セックスが上手くなった証として、女性経験を詰んだ証明として」

 心臓の音がうるさい。煙草を持ったままの手ではヘアゴムも握れず、落ち着かなかった。

 眞由華先輩がマンションの壁で煙草の火を消す。ぽいっと吸い殻を捨てる彼女に習って、僕も火を消したそれを投げ捨てた。

「何で?」

 彼女は僕ではなく、見えないはずの遠くを見つめていた。今日の眞由華先輩はヘアゴムをどこにも付けていなかった。

「何で、って」

 とんとん、と眞由華先輩がつま先で地面を叩く音がした。その音に急かされている感じがして、口の中が乾く。

「眞由華先輩が、言ったんじゃないですか。……もしかして僕が完全に吹っ切れてると思ってますか? まだ全然吹っ切れられてないです。好きなんですよ、眞由華先輩のことが。諦められないです」

 早口で捲し立てる。何で、の声が冷たくて怖かった。あの日セックスが終わった後の眞由華先輩が重なる。

 ふー、とため息が聞こえてくる。かちりという音、吸う音、吐く音。眞由華先輩の方は見れないけど、匂いと音で煙草を吸っていることは分かった。まだ眞由華先輩が煙草を吸っているという事実が上手く飲み込めていない。

「何言ったっけ。私馬鹿だからさ、覚えてないや。……友樹は可愛いね。私が言ったことずっと覚えてるし、捨てなって言ったヘアゴムもずっと持ってる。ワンちゃんみたい」

 錆びれた遊具みたいに不自然な動きで眞由華先輩を見る。横顔にはえくぼが浮かんでいて、少しだけ安心した。

「女性経験が足りないって、言ったんです。僕セックス下手で、中でイくことも出来なくて、そのことを言っているのかと思って、だからセックスを頑張ったんです。中でイけるようになりましたし、オナニーみたいなセックスだって卒業したんです。眞由華先輩とまた付き合いたかったから、色々捨てたんですよ」

 眞由華先輩は何も言わず灰を落とした。もう一度咥え直した煙草はもう短くて、彼女の吸うペースが早いことを知る。何故か甘い匂いの混じっている煙が気持ち悪かった。

「私なんか、何でそんなに好きなのか知らないけどさ。多分足りないなんて言ってないよ」

 あの日の記憶を辿る。確かに「女性経験、かなあ」と濁されていた気がした。でも、あれは「足りない」をオブラートに包んだだけのはずだ。

「……そうだった、ような」

「流石に一言一句は思い出せないけど、少なくとも足りないとは言ってないはず。足りなくなんかないもん」

 また煙草を捨てる眞由華先輩は、少しだけ機嫌良さそうに笑っていた。えくぼを抱えた笑みはずっと可愛いのに、今この状況での笑顔は不気味さが勝る。

「友樹さ、垢抜けたよね」

「? そうかも、知れないです」

 さっきも言われたことをまた繰り返される。少しは垢抜けたと自分でも思う。愛さんに受け入れられるための努力だったけど、再び眞由華先輩の横に立つためにも必要なことだったと思う。むしろ付き合っている時に何も努力をしなかったのが異常なくらいだった。

「うん、本当に変わった。髪染めて、眉も剃ったよね? 何回かセックスして自信ついたのかな、背筋も伸びた。煙草なんか吸って大人に染まっちゃって。ほんと……付き合ってた頃と、大違い」

「そう……ですよね。僕、変わったんです。眞由華先輩に好かれたくて、セックスも上手くなりましたし、ちょっとはカッコよくなりました」

「うん。いっぱいカッコよくなったよ?」

 今日初めてしっかりと目が合った気がする。えくぼを抱えた眞由華先輩と、多分酷く歪な笑顔を浮かべた僕。数ヶ月が報われようとしていた。メンヘラをヤリ捨てして、幼馴染をレイプして、風俗に安くないお金を突っ込んで。皆からヘアゴムを貰ったのと引き換えに、色んなモノを失ってしまった。

 全部がどうでも良かった。褒められて、認められて、僕のことをしっかりと見つめてくれて。それがただ嬉しかった。

 一歩眞由華先輩に近付く。息を吸う。真っ直ぐに前を向く。人生で初めての告白だったけど、案外喉に詰まらず言葉が出た。

「眞由華先輩、また僕と」

「何でそんなに変わっちゃったかなあ」

 告白を眞由華先輩が遮った。暗い、暗い声。悪意、嫌悪、失望。そういう本気の「駄目」を内包した声ではなく、ただただ本当に残念そうな声だった。

「私さ、好きだったよ。前の友樹のこと。田舎モンって感じで、超童貞っぽくて、見た目なんて寝癖しか気にして無くて。ほんと、女性経験ない男の具現化みたいだった」

 心から残念そうな言葉が理解出来ない。過去の僕を悪く言っているだけなのに、眞由華先輩は悔しそうだった。目を瞑って額に手をやる彼女は、やっぱり一つのヘアゴムも付けていない。

「ちょっと、待って下さい。どういうことですか? 何を残念がることがあるんですか。女性経験が足りないって言ったから、僕は」

「足りないとは言ってないってば。せっかちだね、友樹は」

 苦笑いする眞由華先輩が、あの日最後に見た顔と重なる。足の力が抜けてまたへたり込んでしまう。僕は一体、何を残念がられているのか。ほんの少しだって理解が出来なかった。

「友樹、私ね」

 眞由華先輩が僕の横にしゃがむ。耳元にかかる息は熱くて、性的だった。

「童貞フェチなの。童貞にしか興味ない、変態なんだ」

「……はい?」

 恥ずかしそうにそう話す眞由華先輩は、まるで恋バナでもするみたいなテンションだった。僕には何を言っているかの理解が出来ず、ただアホみたいに次の言葉を待つしかない。

「可愛いじゃん、童貞って。反応が一々初々しくてさー。初めてセックスした相手ってだけで私のこと死ぬまで覚えてるのとか堪んない。友樹だってそうでしょ? 私のことずっと忘れられないの。どんなセックスをしても、私のことが頭に浮かぶ」

 頬に息の温かな感触が伝わる。それに反するように身体中は冷たくなっていった。血管に小さな氷が紛れ込んでしまったような、そんな気持ち悪さが僕の全身を蝕んでいる。

「足りないんじゃないの。分かるかな? 女性経験、詰んじゃったじゃん。もう童貞じゃないじゃん。もう友樹は私で性を知っちゃってさ、二度と初めての反応を見せてくれない。……つまんないでしょ、そんな人と付き合ったって」

 氷が動いていくのを感じながら、僕は告白された日のことを思い出していた。まるで走馬灯のように、頭の中に勝手に情景が蘇ってくる。

「初めて会った日から、ずっと。私は君の童貞が欲しかっただけだよ」

 君の童貞を貰ってあげる、と。そう告白されたのを、ようやく思い出せた。

 身体のどこかが弾けた音がする。目の前が真っ白になった。

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