第5話

『久しぶり。帰ろうと思ってるんやけど、暇な日教えてくれへん』

『しばらく暇やで』『何で?』

『折角帰るんやし少しくらい会えへんかかと思って』

『タイミング悪いなあ。ママとパパ旅行いったわ』

『おばさんとおじさんにはまた今度会う。明後日の昼くらいに帰るつもりやねんけど、迎えに来てくれへん』

『ええよ』『えらい急やな、実家の味が恋しくなったん?』『都会なんてたまに行くだけでええのに、上京なんてするからやん』

『田舎が嫌やっただけや』

『悪いもんちゃうやん。うちだっておんのに』

 ここでLINEは止まっている。そうやな、と返したら眞由華先輩を否定してしまうようで上手く返信が出来なかった。

 半年ぶりくらいに立った地元の駅は、都会に少し慣れた僕を強く現実に引き戻した。たった一つしかない自動改札を通る。木のベンチと手が届きそうなほど低い天井、瓦っぽい何かで出来た屋根、薄汚れた白い壁。何百回と通ったボロい駅だ。家からは結構遠いけど。ぎりぎり歩けるくらいの距離。

 自動ドアなんて当然無い。ささくれた扉を横にスライドする。がたがたがた、と何かが引っかかったような音と一緒に扉が開いた。扉の塗装は半分くらい剥げていて汚い。扉の半分を占める分厚いガラスには、テープのカスと虫の死骸がへばり付いている。

 地元は嫌いだ。特別何が嫌というわけでもないけど、漠然と狭い世界に囚われているのが気に入らなかった。半ば無理矢理東京の大学に進学したのは正解だったと思う。こんな草臭いところに、絶対に眞由華先輩は来ないから。

 汚い石の階段を見つめていると、目の前からクラクションの音が鳴った。目の前で停まっている白い軽自動車からだ。窓が開き、瑠奈が顔を出す。ピンクの長い髪は畑や山とミスマッチだった。

「何や、茶髪になんかして。似合わんなあ」

「……久しぶり。瑠奈こそなんや。金髪でも目立ってたのに、ピンクって」

「ピンクの方が可愛いやんか。まあとりあえず乗りぃや、うちん家でええん?」

「うん。まだ家に帰るって連絡入れてへんから、鍵開いてへんやろうし」

「何でや。はよ連絡し。流石に泊めたらんで、ウチらもうええ歳なんやから」

「あっちの大学に決めた頃から、ずっと微妙な関係やねん。変に刺激して仕送り無くされたら困るわ」

 重いドアを引き、助手席に乗る。のっそりと車が動き出した。瑠奈はいつも通りの緩い恰好だった。膝下まであるパーカーにジーンズ、ポニーに結ばれた髪。爪が紅く染まっていることだけは変化だった。

「ちゅーかほんまに何で茶髪にしたん? 嫌いやったやん、そういうの。大学デビュー?」

「好きな人に振り向いて貰いたくて染めただけ」

「何やそれ! トモに好きな人て! お前女に興味あったんやな」

 ゲラゲラと笑う瑠奈。車の一台も通らない道路はガタガタで、舌を噛みそうになる。

「ホモなんかと思ってたわ。身近にいる女なんてウチくらいなのに、マジで一切恋愛っぽいこととか一個もなかったもんなー」

「瑠奈は常に彼氏おるやろ。そんなんを好きになるわけないやん。どうせすぐフラれんのやろなって想像つくし」

「ま、うちもトモだけはないけどな。トモだけは男でも友達や」

 雑談はその後も止まらなかった。時間が経つのを誤魔化すみたいに、たまにアホみたいな話しで笑ったりしながら。

 でもそんなのはただの現実逃避で、時間は変わらず流れていく。移り変わる景色がどんどん馴染みのあるものになっていくのに比例して、僕の心臓は苦しくなっていった。

 このままUターンして、東京の狭いマンションに帰りたかった。けれど眞由華先輩に関する焦りや不安のどろどろが僕の全身を埋め尽くしていて、これをそのままにして帰ることなんか出来なそうだった。縋るように目を瞑り、右手首のヘアゴムをぎゅっと握る。

「トモ? 酔ったん? もー、すっかり都会のもやしになってもーてからに。吐くならトイレ行きや」

 恐る恐る目を開けると、少し遠くに見慣れた木があった。昔、前も見ずに走り回ってぶつかった木だ。幸い怪我はしなかったけど、瑠奈が死ぬのかって勢いで心配してくれたっけ。

 この木が見える場所くらいは覚えている。何度来たかなんて数え切れない、瑠奈の家の前。

 瑠奈が助手席の扉を開けてくれる。知らない木と花の懐かしい匂いがした。

「……道がったがたなんが悪いわ」

「今に始まったことちゃうやろ。はよ行くで」

 そう言って歩いていく瑠奈。ポニーの根本には、パールの付いた水色のヘアゴムが付いていた。


 見慣れた横開きの玄関が僕を迎えた。よく分からない柄掛け軸がまだ残っている。瑠奈の家は結構大きな平屋だ。田舎だから建つ、土地を贅沢に使った家。

「先部屋行っとるから、さっさと吐いてき。ゲロ零さんといてや?」

「ごめん。美味いモン、用意しといてな」

「はいはい。ケーキ出したるわ」

 こっちも見ずに去っていく瑠奈を横目に見て、吐き気もないのにトイレに入った。蓋も開けないまま便座に座る。トイレの壁に貼ってある日本地図も昔のままだった。

 砕けるほどの強さで右手首を握った。先の見えない恐怖が爪の先まで染み込んでいた。どす黒い恐怖が全身に浸透していく中、眞由華先輩のヘアゴムだけは変わらず茶色だ。

 数分、そうして心臓の暴走を抑え込もうとしたが上手くいかなかった。諦めてトイレを出る。頭が痛い。早くレベルを上げて眞由華先輩に会いたいという焦りと、瑠奈とセックスをしないといけない意味不明さが僕を痛めつけている。

「ほんまに大丈夫? うちの部屋、そっちちゃうって」

 ケーキボックスと皿、フォークを持った瑠奈が心配そうにこちらを見ていた。無理矢理背筋を伸ばして笑顔を作る。

「……覚えてへんわ、お前ん家の構造なんて。最後に入ったの中学の時とかやろ?」

「なんや、薄情なやつ。ほらこっち」

 瑠奈の笑顔はずっと変わらない。笑うと目が細くなる笑い方は幼さを感じさせて、遠い昔に戻ったように錯覚させられる。

 久しぶりに見る瑠奈の部屋はちょっと物が増えた気がした。ギターとか、よく分からないバンドのデカいポスターとか、雑誌が大量に入ったダンボールだとか。角の丸い低めのテーブルと、紫色の座布団と、滅多に畳まれない布団は変わっていなかった。

 どかっと紫の座布団に座る瑠奈。堂々とあぐらをかいているのは僕への慣れなのか、信頼のか分からない。何にせよ僕の前で女らしさを取り繕う気がないのは確かだ。

「まあ座りや。チョコケーキでええ?」

「勝手に取るし、お気になさらず」

 地べたにあぐらをかく。いただきますも言わずにケーキを食べる彼女の後ろには、水色の髪の毛したやつが寝ているとは思えない和の漂う布団が鎮座していた。

 瑠奈と、セックス。それはエロ漫画の世界でしか有り得ないような、夢世界の話だと思っていた。僕達は幼馴染で、友達で、田舎という狭いコミュニティを生きる人間なのだから。

「トモさー、そのヘアゴム何なん。髪結べるほど長ないやろ? リボンなんか付いたやつ子供しか付けへんし。オシャレなん? ブレスレット買いーな。まあそれも両腕に付けん方がええと思うけど」

 フォークの先で僕を指しながら、瑠奈はそう言った。反射的に手をテーブルの下に隠す。

「これは、ちゃう。瑠奈が思うようなもんやない」

「……ま、ええけど。そんなボロいのとか趣味悪いやつ付けるくらいやったら、ウチのみたいなんつけーや。多少はマシに見えるで」

 黙々とケーキを食べる僕、集中してケーキのフィルムに残ったクリームをフォークで刮ぎ取る瑠奈。僕らはそれなりに長い付き合いで、沈黙は苦にならなかった。滅多に黙らない瑠奈も、僕や家族の前では時折黙る。それだけ心を許してくれているということなのだろうが、今はそれが酷く辛かった。

 心を許されていることを、仲がいいことを実感するほどにチンコが萎縮する。セックスを切り出すのが怖くなる。優先すべきものが、曖昧になってしまう。

「瑠奈は」

 後ろめたさに耐えきれず、僕は口を開いてしまった。悪いことをした子供が親にバレないよう過剰なくらい話し続けてしまうのと一緒だ。瑠奈が意外そうにこちらを見る。

「彼氏とか、大学で出来たんか?」

「何や、急に。おるに決まっとるやろ。そういうのだけが生き甲斐やねん。……恋愛相談でもしたくてわざわざこっち帰ってたんか? LINEなり電話なりしてくれればよかったやん」

「あー……うん。そんなとこ」

 中学生の頃くらいから、瑠奈は彼氏が途絶えなかった。三つ先の駅にある中学でも、八つ先にある高校でも、常に横に男がいた。ビッチとか男好きとか言われていたけど、瑠奈が気にしているところは見たことがない。

 ……今、セックスを切り出しておけば良かったのかも知れない。僕はもう童貞じゃないのに、ヘアゴムの数だって増えたのに。まだセックスへと至る道がよく分かっていなかった。

「好きな女がいるなら、すぱっと告ればええだけや」

「もうフラれてん」

「告白なんて七割失敗するモン。うちは九割受け入れるけどな」

「ちゃう。眞由華先輩に告られて、けどフラれてもーた」

「あー、あるある。ええ男かなーって思っても、いざ付き合ったら全然あかんかったりするねん。筋肉凄いのに女々しかったりとか、イケメンなのにマザコンやったりとか。そんなんフるしかないやろ? まあ一瞬でも付き合えたことに感謝やな」

 けたけたと笑う瑠奈。僕にはそういうギャップがあったのだろうか。眞由華先輩にとって、僕はどういう人物に映っていたのだろうか?

「先輩、いうことは歳上なん?」

「二個上。二十歳」

「年増やん」

「行く道やぞ」

 あの日を、告白された日の記憶を必死に掘り返す。僕は何と告白されたんだっけ。何故かその日のことは全然思い出せなかった。

「僕は、何を期待されてたんやろ。告白された時のこと思い出せへん。あんなに嬉しくて、次の日からのことは鮮明に覚えてんのに。告白された時だけ。ただの一言だったはずやのに」

「分かるわー。漫画とか小説のさ、『あの日のこと、今も鮮明に覚えている』なんて嘘っぱちやんな。終わったモンの始まりなんて一々覚えてられへんよ」

「瑠奈もそうなん?」

「うちは今しか見とらん。過去の男はうちの経験値になっとる。だから、うちはずっとモテモテの彼氏富豪や」

「……そら、強いな」

 瑠奈が大きく見えた。「経験値」という言葉を使うだけで、一気に彼女が強敵に思える。僕の浅い経験が見透かされているようだった。

「ま、終わったんなら終わったなりに別れた時のこと思い出したらええのよ。オブラートに包んでたかも知らんけど、思ってたのとちゃうって言うてたんちゃうか? 少なくとも髪染めてヘアゴム腕に付けることではないやろけど」

 別れた時のことは関係ないはずだ。僕はずっと童貞だってバレていて、それでも女性経験が足りないことを理由にフラれた。童貞にしても酷すぎるって、そういう言葉が包まれた別れの言葉だった。

「言うてたけど、思ってたのと違うみたいなのは関係ない。普通に、これが理由で別れてっていうだけ」

「ほなそれをを解決するために努力すればええやん。うちに相談することなんかあるか?」

 違うんやって。もうヤらなあかんことも、その相手もお前って決まってる。相談することなんかないけど、ただ身体を貸してほしいだけなんやって。これはただの繋ぎ。こんなん、お前の方が詳しいはずやんか。

「トモ?」

 そんな目で僕を見ないでくれ。僕が何を言ってもヤッても、ずっと今まで通りでいてくれ。墓まで秘密にしといて欲しいし、墓でも秘密にしといて欲しい。

 テーブルの下で痛いくらいに右手首を握りしめる。ぐちゃぐちゃの感情は収まらなかったけど、こうしていないと壊れてしまいそうだった。

「もー、責めてるわけちゃうって。何泣きそうになってんの。ほんまに貧弱になったなあ」

「ごめん、瑠奈。僕」

「ええって。相談したくなっちゃったんやろ? トモは友達少ないもんな。名前の割に」

 エモい空気を醸し出すな。僕がこれから涙ながらに悩みを打ち明けて、それを聞いてやるんだって決めつけるな。

 僕はただ、瑠奈とセックスがしたくてここにいるのに。

 けたけた笑う瑠奈を見て、今言わないとタイミングは無くなるんだと察した。ここで嘘の相談なんかすれば、絶対に僕は流される。楽な方に。失ったものは取り返せなくなるかもしれないけど、今あるものは壊れない道。

 握った手を離す。熱い手の中が、眞由華先輩の膣を思い出させた。

「……眞由華先輩にフラれる時、言われたことがあんねん」

 黙ってこっちを見る瑠奈。優しい目をするな。僕は今から、彼氏のいる幼馴染にセックスを頼もうとしているんやぞ。

 笑って「最低やな」なんて言って、何やかんやでセックスさせてくれよ。頼むから。……どうせお前、彼氏の数だけセックスしたバカマンコなんやろ。

「女性経験が足りない、って」

「女性経験?」

「別れる前の日、えっちしてん。でも中でイケなくて、失望されてフラれたんやと思う。だから女性経験ってえっちの回数で、僕が未熟過ぎたのがあかんかってん」

「オナニーの時握り過ぎたらあかんらしいで。……トモが下ネタ言うなんて。都会に住むのはやっぱあかんねんなあ」

 茶化すな。真剣な前振りを、免罪符をちゃんと聞いてくれ。

「だから、えっちが出来るように色々頑張ってん。風俗行ったり、ツイッターで知り合った人とえっちしたり。でも、足らんねん。まだセックスがオナニーの域を出ーへんくて」

 一瞬、口から言葉が出なくなった。身体が僕の選択を確認しているようだった。本当にこれでいいのか、と。

 良いも何も無いやろ。自答した。ヘアゴムの毛玉が手首に当たる。顔が下を向いていった。

「だから、瑠奈。僕と……せ、セックス、して下さい」

 初めて自分の口からセックスという言葉が出て、少しずつでも自分が成長しているんだと実感した。女性経験は確かに積まれているのだ。

「……は? アホ言いーや。冗談下手んなったな。うちのボケ全スルーした時点で変やとは思ってん。頭の血ぃ、ちんこに吸われとるんちゃうか」

 顔を見なくても分かる、怒っている声だった。完全に突き放さないのは関西人だからなのか、それともジョークである線を残しているからなのか。いずれにせよ、はいどうぞヤって下さいとならないのは確かだった。

「ちゃうって。瑠奈、僕は」

「違わん。トモ、うちは確かに彼氏よく変わるけどな。別にビッチってわけじゃないねん。ただ恋愛が好きなだけなんよ」

「そんなこと思ってへん!」

「ほんまかいな。こっちにおる時のトモは、そんなにきしょい目してへんかったよ。ワンチャン、みたいなあっついヤリモクの目。……なあ、トモ? その先輩はトモに汚れて欲しいわけやないと思う」

 瑠奈のヘアゴムが目に入って、僕の内側が熱くなった。行き場のない熱が僕の中を渦巻いている。鳥肌が立って、剃りきれていない髭が露出した。

「汚れるとか、そんなん違う。僕は女性経験を積んで、セックスが上手くなりたいだけやねん。そしたら眞由華先輩はまた僕を見てくれて、今度は普通にセックス出来るんやって。あとちょっとのはず。あと一本か二本。絶対そうや。他の男に盗られる前にしなあかん」

「……ほんまに何言ってるん、トモ」

 瑠奈が少し後ろに下がったのが分かった。咄嗟に身を乗り出して瑠奈の手を掴んだ。自分の身体とは思えないほど強い力が出る。

「待って、瑠奈。話しを」

「嫌っ」

 ぱん、という破裂音が体内から聞こえる。頬が発火でもしたのかというくらい熱くなった。

 自分でも意味が分からないけど、足がバネみたいに跳ねたように感じた。瑠奈に突進した僕は、そのままの勢いで彼女を押し倒す。布団に背中を預ける瑠奈の顔は歪んでいて、可哀想だと心の底から思った。

「離して」

 面白いくらいに身体が軽快に動いた。瑠奈の口を右手で塞ぐ。手の平に当たった歯はぬるりとしていた。口を塞いでいる手にはヘアゴムが付いていて、心がほんの少しだけ楽になる。

「……ごめん。ほんまにごめん。静かにしんと、舌噛むかも」

 シャツの下から左手を入れて、あまり大きくはない胸を触る。ブラはしていなかった。

 瑠奈はしばらく何かを訴えていたけど、やがて静かになった。そっと右手を離すと、ぶはっという息の音が聞こえる。苦しかったよな、と心配してしまう自分は何様なのだろうか。

「……もう、ええよ。うちがどんだけ抵抗しても、ヤるんやろ」

「ごめん。でも」

「早く済ませて」

 だらん、と瑠奈の力が抜けた。チンコは痛いほど熱い。

「瑠奈」

 瑠奈は何の返事もしなかった。逃げることも大声を出すことも出来るのに、ただ僕じゃないどこかを見つめるだけ。

 動かない瑠奈から離れ、リュックからゴムを取り出す。レイプをしようとしている人間とは思えない理性的な動きだった。一度そうして冷静になるともう駄目になってしまうから、ずっとヘアゴムを見つめる。

 震える手で彼女のショートデニムと赤いパンツを脱がせた。何の抵抗もしない瑠奈が怖くなる。ズボンを脱ぐ。下がりきらないゴムを降ろした。死んだようになった瑠奈の前で、僕は呑気に避妊なんかしている。瑠奈の太ももに触れた。少しだけ彼女の身体が動く。

「うちがここで一回我慢したら、トモはその先輩のところに行くんやろ」

「……そうしようと思っとる。盗られる前に、なるべく早く」

「……じゃあ、すればええ。これで会うのが最後なるんやったら、一回くらい我慢したほうがマシやわ」

 眞由華先輩が盗られないかの焦り。瑠奈への漠然とした不安。瑠奈の言葉、セックスがしたいという性欲の成れの果て。ヘアゴムへの僅かな劣情。女の感触。何に向けているのかも分からないほど多くに向いた罪悪感。地元の匂い。瑠奈の部屋の壁の色。全てが性欲だった。性欲は、僕の全てをどろどろに溶かして性欲に変えてしまう。

 挿入の時、一切の音はしなかった。聞こえるのは僕の呼吸音だけ。瑠奈は一切の音を発さなかった。彼女は真横を向いていた。口は半開きで、目に光はない。それでも彼女は僕がよく知る瑠奈で、瑠奈と僕がしているのはセックスだ。

 ゆかりさんの言っていたことを思い出して、僕は眞由華先輩のヘアゴムを見つめながら腰を振った。ヘアゴムを見続けていると、確かに僕の意識はオナニーに取り込まれずにセックスに留まったままでいられた。瑠奈とセックスしているのだ、と意識し続けられる。

 少しずつ快感が熱を集めていくにつれて、僕は一体何に勃起しているのか分からなくなった。そもそも何で僕は勃起出来るんだっけ、という生物的な疑問に至る。ただ見つめ続けているヘアゴムが僕を逃げさせてくれるように思えた。セックスにはヘアゴムが付き物だから、ヘアゴムは救いだ。ヘアゴムはセックスに結構近い。快楽とヘアゴムとセックスが混じり合って、そう思った。

 全身が熱くなってくる。お互い一言も発さない、目も合わさないセックスなのに、今までで一番セックスしていると感じられた。

 急に、本当に急にだった。明確に「イキそう」だと思った。高い解像度で快楽が僕に覆い被さる。自分の意志で腰の動きを早くして、身体中の熱をチンコに集めた。ヘアゴムはずっと変わらずそこにあり、その穴の中にチンコがあるように思える。

「あ」

 と声が漏れた瞬間、僕は射精した。どくり、どくりと熱が蠢いているのが分かる。人生で一番明確な射精だった。身体の輪郭が濃くなったように感じる。全身が、僕という存在自体がはっきりとしていた。

 腰を引いて、艶めかしく光るゴムを見る。そこに全ての熱を出してしまった僕は、悲しいくらいに冷静だった。

 下半身に何も着ておらず、上半身の服は乱れて捲れている。ぴくりとも動かずに遠くを見る様は死体のように見えて、不安を掻き立てた。

「るな」

 上手く回らない口で、まるで初めて呼ぶかのようにその名を呼んだ。喉が焼けたように痛い。

「……誰にも言わんといて、やろ」

 体勢はそのままに、瑠奈はそう言う。瑠奈とは思えないくらいに真っ暗な声だった。

「分かるよ、そんくらい。こんな田舎でレイプ魔は生きてかれへんよな? 勿論その家族も同罪や。田舎で生きてくのって、目立たへんことだけがコツやもん」

 冷えていく頭に、その事実はねっとりと染みていく。右手首を握った。この話が広がったら、仕送り云々どころの騒ぎではない。それこそ村八分のようなことが僕と家族に起きるのだろう。不安で心臓が痛む。想像出来ていたことだったはずなのに。もっと上手いやり方があったんじゃないかって、今更頭の中が冷えた。

「言わへんよ」

 小さい声だった。

「トモなりに、必死で考えてこんなことしたんやろ? 許さへんけど、理解はしたげる。めっちゃ好きやねんな、先輩のこと。幼馴染を踏み台にしてでも付き合いたいくらいに」

 違う。必死に考えてなんかいない。僕はただゆかりさんに決めて貰っているだけ。そう言えれば、きっと僕は楽になれただろう。でも駄目だった。そう解釈された方が丸く収まってしまうことが、僕には分かってしまっていた。

「うちはもう、トモのこと嫌いになってもーた。これでよかったんやろ? それでもうちとセックスして、女性経験とやらを上げたかったんやろ?」

 何も言えない。最低なことに、瑠奈に嫌われるのが堪らなく嫌だった。

「……何とか言いーや。話すん、これで最後やで。幼馴染の最後の優しさ……もとい、復讐怖さでバラしはせんけど。それでも今後うちに話しかけたら今日のことバラす」

「……はい」

 そう言うしかなかった。呆気のない最後だった。いつか爺婆になって、二人で茶でも飲むものだと思っていた。それを壊したのは僕自身なのに、その脆さを責めたくなった僕は歪だ。

「付き合いや、その先輩と。正直もう顔も見たないくらいには嫌いやしきしょいと思ってるけど、より不幸な被害者出て欲しいからそう祈ったるわ」

 乾いた笑い声が聞こえる。長いこと一緒にいたはずなのに、そんな笑い声は初めて聞いた。

 ズボンを履く。衣擦れの音が人生で初めてうるさいと思った。震える足で立ち上がって、瑠奈に近付く。

「近寄んな」

 ドスの効いた、嫌悪の声だった。瑠奈から出ているとは思えないほどに低い声。嫌われてしまったという、当たり前のことをようやく実感した。

 それでも動かない彼女の髪に手を伸ばす。ポニーテールを作っているヘアゴムを外して、左手首に付けた。どう考えてもするべきではない行為だけど、どうしたってやらないといけない行為だった。こんなことをしないと、瑠奈とのセックスが無駄になってしまう。セックスに無駄も何もないんだろうけど、。とにかく僕にとってセックスはヘアゴムだった。ヘアゴムを貰えないのなら、それは意味がない。

「死ね」

 顔も見れないまま、何も言えないままに部屋を出る。掛け軸に睨まれながら玄関で靴を履いた。

 泣き声が聞こえる。啜り泣きの声。我慢が限界に達した、弱い女の子の泣き声だった。

 三本に増えたへアゴムは重たかった。罪悪感って一言で、僕がしたこと全部纏められたら楽なのになあと思う。罪悪感の中にあるぐっちゃぐちゃの死体には、僕は一生向き合えな

い。   

 立ち眩みがする。揺れ動いた目線の先にいる大きな羽虫を見て、ここは地元なんだとまた実感させられた。

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