第4話
「失礼しまーす。……あ、ヘアゴムさん。茶髪になってる! 似合うじゃないですか」
入ってくるなりゆかりさんは楽しそうにそう言う。僕はもうシャワーを浴び終えて、ヘアゴム以外は脱いでいた。変わらずソファは尻に張り付いて不快に感じる。
「お久しぶりです。中々来れなくてすいません」
「風俗なんて頻繁に来るものでもないですよ。今日はオプションどうします?」
大丈夫です、と返す。横に座った彼女はすぐにローションを手に平に乗せ慣らしていった。
「左手の、可愛いね。セックス出来たの?」
小さな手が僕のチンコを撫でる。ゆかりさんは、ピンクのヘアゴムが付いている左手首を見つめていた。
「出来、ました。中でイけて」
「えー、凄い。ちゃんと一般人抱いた?」
ぐちっ、ぐちっ、と一秒に一回のペースでゆかりさんの手が動く。その度にキンタマの中が煮えるような感覚に襲われて、どうにも上手く言葉が出てこなくなった。はい、と早口で言うのが精一杯。
「お利口。大変だったでしょ、病み垢でバカマンコ見つけるのも。運がよければすぐだけどさ、皆すぐアカウント消しちゃうもんね」
手の動きが早くなる。ぐちっという音の間が無くなった。
「皆、性欲っぽい感情で病み垢作るんだよ。承認欲求と性欲と漠然と逃げたい気持ち、隠し味に依存への憧れ。病みって簡単な言葉は、そういう気持ちの悪い感情が集まって出来てるの。面倒臭いよね。だから熱が冷めたらすーぐアカウントを消しちゃう」
話しながらゆかりさんの手はどんどん早くなっていく。言葉を吐ききった頃にはもうチンコの辺りが堪らなく熱くなっていて、頭の中が煮えていた。変な声が漏れる。
「イキそ? いいよ、いっぱい出してね」
耳元に熱い息が吹きかけられ、脳の熱が一気に全身に回って行く。それはすぐにチンコにまで届き、そのまま精子として出ていった。ゆかりさんの手の平がローションと精子でどろどろになっている。
「出しすぎ。溜まってたんだ」
僕のチンコを拭きながらそう呟くゆかりさんは、口元に薄い笑みを張っていた。あの営業的な笑顔より湿度の高い笑み。
「……セックスは、出来たんですけど。愛さんが泣いてるのに気が付けなかったんです」
手を拭く彼女に懺悔した。顔が勝手に下を向く。湿ったチンコと薄茶色のヘアゴム。あの日から、ルーティンを何回試したって小骨のようにつっかえている罪悪感が取れなかった。
「えっちに必死で。イくのにとにかく全部を注いでて、顔なんて全然見てなかったんです。泣いちゃってたの知らなくて、それで」
「いいじゃないですか。そんなこと気にしないでも」
ゆかりさんの声が僕の懺悔を遮る。顔を上げると、彼女はあの笑顔で僕を見ていた。
「泣いてたのに気が付かなかったのも、必死なセックスしたのも。セカンド童貞なんですし普通ですよ」
「でも」
「でもじゃない」
またも僕の声は遮られた。ゆっくりと、向かい合う形で彼女が僕の太ももに乗ってくる。僕はまだ裸のままなのに、そんなことは気にもしていないようだった。首の後ろに回された手が冷たい。近くで見るゆかりさんの顔は人形のように見えた。
「ヘアゴムさんはただセックスしたって事実だけ覚えていればいいんです。ルーティンは使ってるみたいですけど、何でそんなことだけは気にしてるんですか?」
「……使ってるとか使ってないとか、分かるもんですか」
「ヘアゴムさんの罪悪感とか申し訳無さの根源は全部性欲ですから。ルーティンで我慢すればするほど、いっぱい精子が出るってものですよ。溜まった感情は女の子がヌいて貰って消化するんです。……勿論、オナニーじゃ駄目ですから。オナニーなんかクソです。ちなみにルーティン使ったのにヌかないと感情大爆発で死にます」
ゆかりさんは指で丸を作り、手を上下に動かす。全部ってこともないだろうと思ったが、僕の最終目標は眞由華先輩とヨリを戻して満足させられるセックスをすることだから否定は出来なかった。
「これだけは忘れたら駄目なんです。次会う時、謝りたくて。何に対して悪いと思っているかすら分からないなんて不誠実じゃないですか」
「ヤった女とまた会うつもりですか?」
不思議そうにそう聞かれる。まつ毛が長い。至近距離で見つめられると、自分の汚い内面が暴かれるようで怖かった。
「約束、したんです」
「もー。メンヘラは一回ヤったら会っちゃ駄目です。危ないですよ」
そう言って軽くチョップされる。石鹸と栗の花の匂いがした。
「メンヘラは思ったよりも怖いですよ。次会っちゃったらもう終わりです。貴方のせいだよとか言ってリスカされて、血塗れの写真なんか送られたら……もう、超怖くないですか? ご飯が食べられないくらいに不安になって、気が付いたらずぶずぶの共依存関係になったりして。そうなったら、元カノよりその娘を取ります?」
大げさな演技を交えながら話す彼女を見て、愛さんの腕には少なくないリスカ痕があったことを思い出す。血が流れているわけでもないのに、妙に痛々しさを感じさせる傷だった。
あの傷が僕のせいで増えたらと考えると心臓を掴まれたような不安に襲われる。もしリスカを盾に交際など迫られたら断れないだろう。
「……不安になりました? すみません。でもね、ゆかりはヘアゴムさんの優しさが心配なだけなんです」
もたっとした不安に覆われた僕を慰めるように、ゆかりさんは僕の手を握った。小さな手は冷たかったが、確かなぬくもりで満ちている。
「そもそも、病みアカで男と会う時点で相手もヤリモクだったんですよ。泣くなんて自分勝手もいいところです。……さ。面倒なことになる前にアカウント消しちゃいましょ? そうすれば縁が切れて安心ですから」
ゆかりさんは僕の上を退き、僕のトートバックから携帯を取り出し手渡してくれる。ロック画面には眞由華先輩と撮ったツーショットが映っていた。二人でピースを作っている様は幸せそうで、どうしようもない焦りが僕を満たしていく。
「相手も。愛さんも、ヤリモクだって言ってました」
「なあんだ。じゃあ尚更気にすることないじゃないですか。罪悪感も責任感も、何も考えなくていいんです」
ゆかりさんの指がツイッターを操作し、アカウント削除の画面が表示された。あとはパスワードさえ入れれば『ユウ』のアカウントは消える。震える指でキーボードを押した。
「……許されますかね」
「勿論。ただ男女が会ってセックスしただけですよ。古今東西、腐るほど起きた出来事です」
その言葉を聞いて、心が楽になったように感じる。おかしいとは思っていたんだ。僕達はただセックスをしただけなのに、何でこんなに考えないといけないんだろうって。
三分くらいかけてパスワードを入力し終わる。削除を決めるには、つっかえた罪悪感がまだ邪魔だった。言い訳するようにゆかりさんの方を見る。彼女なら僕を肯定してくれて、受け入れてくれるという安心があった。
「やってあげます。貸して?」
差し出された手の平に、生命線が丸に近い曲線を描いている。線はヘアゴムのように見えて、少しだけ心が落ち着いた。
スマホをゆかりさんに渡す。画面が僕に見えなくなった瞬間、通知音が鳴った。びくりと自分の身体が跳ねたのが分かる。
彼女は一回だけ画面をタップし、すぐ僕に返してくれた。「アカウントが削除されました」の文字が画面に浮かんでいる。通知バーはいつも通り空だった。
「大丈夫。ただのスパムDMが来ただけでしたよ」
白い指が右手首のヘアゴムに置かれた。ゆっくりとだが、確かに心が落ち着いていく。自分は間違っていない、という意識が染み込んでいくように感じた。
「ありがとう、ございます」
「このくらい朝飯前です! ゆかり、スーパー風俗嬢ですし」
腕を組んで得意げにする彼女が、僕にとって大きな存在になっていることは確かだった。僕の全部を許して支えてくれるのはゆかりさんだけだ。ガチ恋してしまうキモい客の気持ちも少し分かる。
「時間もないですし、次ヤる女早く決めましょ。学生に延長させるのも酷ですし」
「歳なんて言ったことありましたっけ」
「ちんちんの反り具合で何となく分かりますよ。……あ、ごめんなさい。服着ないとお腹壊しちゃいますね」
畳んであった服が渡される。服を着ていないことなんてすっかり忘れていた。数分ぶりに着た服はすっかり冷たくなっていて、死体みたいだと思う。
「そう、次の女ですよ。ヘアゴムさんは女友達とかいないんですか?」
「幼馴染くらいです。いっつも彼氏が絶えない、僕とは真逆の人間ですけど」
「え、いるんじゃないですか。初めから風俗に来るくらいですから、てっきりいないものかと思ってました。しかもいい感じにヤリマンっぽい属性ですね」
「田舎なんですよ、実家。幼馴染とセックスなんかしようもんなら、その日中に噂流されて村八分の刑です」
幼馴染……瑠奈はほとんど腐れ縁のような関係だ。チンコが勃起する歳より前から付き合いがある。漫画のように彼女のことを意識したことはないし、瑠奈も僕以外の誰かとずっと付き合っている。彼女とセックスすることを考えてもみなかったことはないが、それこそ性を知りたての頃の拙い妄想でしかない。
「次こそマッチングアプリですかね。病みアカで何とかえっち出来ましたし、いけるかもしれないです」
「マッチングアプリなんて駄目ですよ。幼馴染ちゃん以外ありえないです」
「いやー、ちょっと考えられないですよ」
「それでもです」
冗談かと思って軽く流したのに、ゆかりさんは引き下がらなかった。笑顔のまま僕の右手首を掴む彼女は、とても冗談を言っているようには見えない。
「メンヘラは他人だったじゃないですか。気心知れた相手ともセックスしとかないと、いざヨリを戻しても他人行儀なセックスしか出来ないかもですよ? そんなセックスしか出来ないのは駄目ですよ。それこそ女でオナニーしてるだけになります」
ぎゅ、と手首を掴む手に力が籠る。
「駄目なんですって。本当に狭いんですよ、田舎のコミュニティは」
「じゃあ、今から女友達頑張って作りますか? その娘とセックス出来ます? ……そういうのが出来るんなら、最初に風俗なんか来ないですよね」
瑠奈のお陰で女性への苦手意識はない。ただ田舎の『子供は皆友達』という空気感の中で生きてきた僕にとって、誰も知っている人がいない空間というのは馴染み難いものだった。もうグループが出来ている大学内では、女友達は愚か男友達すらも出来る気がしない。
「大丈夫。幼馴染とセックス出来たら、次はもう元カノにアピールしに行くだけですよ」
耳元で熱い息と共に囁かれたその言葉は、脳内に直接響くようだった。身体全体が熱い。
「二人で、足りますかね」
「それはもう。ヤリマンならヘアゴムだって絶対可愛いですし。……早くアピールしに行かないと、元カノは新しい男捕まえちゃったりするかもですよ? そんなの嫌ですよね。ヘアゴムさんの努力が報われないのはゆかりだって悲しいです」
眞由華先輩が僕以外の誰かと手を繋いで、お酒を飲んで、果てにセックスまでするのは想像も出来なかった。でも時が経ちすぎればそれは当たり前のように現実になるのだろう。お腹の下辺りがずんと重くなる。焦りとか嫉妬とか独占欲とか、そういう感情の凝縮だ。
「幼馴染で男好き。そんなの、真摯に頼めば絶対ヤラせてくれますよ。メンヘラに会うよりよっぽど簡単で健全です。わざわざセックスしたことを言いふらすようなら、少しのお金で口止めしたら良いんですよ」
ぴぴぴぴ、といちごのアラームが鳴った。ゆっくりとゆかりさんが立ち上がり音を止める。背中に付いた陰毛が、彼女の強さな気がした。
「お時間です。……ヘアゴムさんなら出来ますよ。手遅れになる前に頑張りましょ。プライド捨てて頼み込むくらいすれば絶対大丈夫ですから。報告、楽しみにしてます」
「……はい」
お腹の下に溜まった感情には瑠奈の反応が読めない不安も混じって、もうめちゃくちゃになっていた。右手首のヘアゴムを握る。
「そうだ。もしまたイくのに必死になっちゃったら、相手の身体じゃなくてヘアゴムとか見つめてれば少しはマシだと思いますよ。腰に手置いて、マンコ見てるフリしたりして。とにかく意識中のセックスの濃度を下げたらいいです。ルーティンの延長って感じですね」
「本当、物知りなんですね」
「資格とかはないですけど、ゆかりはエロのプロなんで!」
そう言って開けられた扉から出ると、小虫が僕の前を飛んでいった。
チンコを撫でる。ヤらないといけない。僕の幸せのために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます