第2話
「こちらでシャワーを浴びてお待ち下さい」
「え? あ、はい」
フラれてから数日。考えに考えた末、僕は初めて風俗に来ていた。『にゃんこ学園』という名前の小さな風俗店だ。
セックスをするといっても相手がいないのだ。僕の女友達なんて幼馴染しかいない。彼女とセックスすることなんて未来永劫ないだろうし、かといってナンパする度胸も魅力も僕にはない。僕には風俗しかなかった。性のプロなら、六五八〇円で僕を受け入れてくれる。
通されたのは少し広めのネットカフェ個室みたいな部屋だった。安っぽい光沢を放つ地面、小さな机、部屋の半分くらいを占めるシャワースペース、赤黒いソファ。シャワーを浴びて待てとの指示があったので、少しの戸惑いを捨てて服を脱いだ。
ヌルいと言う他ないシャワーを浴びる。今からセックスをするのか、という自覚が今更に芽生えた。眞由華先輩とした時には全くその自覚がなかった。セックスの前どころか、最中や終わってからもその自覚は薄かったように思う。
コンコン、ノックの音と、「失礼しまーす」という高めの声が聞こえる。まだ僕はシャワーブースで全裸だったから待って貰いたかったけど、声をかける前に扉は開いてしまった。
「ゆかりです! 今日はよろしくお願いしますね」
黒髪のショートが似合う、童顔で可愛い人だった。眞由華先輩と対象的な見た目だと思う。
「あの、すいません。まだ全裸なんですけど」
「気にしないでください。ヌく時はどの道脱ぎますし。シャワー終わったらこっち来てくださいね」
はい、と寝起きみたいな声で返事した。どこか「風俗嬢だし」と自分に言い聞かせていた節があるように思う。対面してみると、当たり前に彼女は人間だ。
身体を念入りに、特にまだ勃起していないチンコをしっかり拭いてシャワースペースを出る。セックスするなら、とヘアゴムだけは手首に付けた。
「はい、いい子。ちょっと冷たいかもですけど、座ってください」
ぽんぽん、とゆかりさんはソファの横を叩いた。気恥ずかしくてチンコを隠しながら横に座る。一本だけ生えている乳首の毛を見つけてしまって死にたくなった。
ゆかりさんの言う通り、ソファは少し冷たかった。尻が吸い込まれるようにソファに張り付いて不快だ。
「オプションはどうします?」
「大丈夫、です」
そう言えばセックスはどこでするのだろう、と今更疑問に思った。セックスはベッドでするものだと思っていたから、ソファでやるのだとしたら不思議で仕方ない。
「あの。ゴムとか、持ってないんですけど。大丈夫ですかね」
ソファでえっちするんですか、と聞く勇気はなかった。遠回しに聞いたつもりだったけど、結果的にただキモいおじさんのようになってしまう。
「? あ、ごめんなさい。ゆかり、フェラオプションお断りしてるんですよ。一応店長から確認してもらったはずなんですけど、何にも言ってませんでした? 店長テキトーだからなー、強く言っときますね」
そう言って営業っぽい笑顔を浮かべるゆかりさん。フェラにゴムがいるのは知らなかった。思えば、僕は童貞ではないけどフェラをされた経験がない。
「いえ、あの。風俗ってえっちをするところですよね。だからゴムがないと危ないというか」
「あー。お客さん、もしかしなくてもこういうお店初めてでしょ。何も風俗の全部が本番あるわけじゃないんですよ。本番ある店はウチの五倍くらい高いトコ多いですね」
生暖かい息が耳にかかって、思わず身体が跳ねてしまった。ゆかりさんの顔が近い。人差し指で肩が撫でられ、首筋に息がかかる。
ぶち、という音が鳴る。ゆかりさんが備え付けのボトルからローションを出している音だった。ローションを手で慣らしている様がエロい。
「ウチはね、本番なしの手コキ風俗ですよ。だから結構安いんです。お客さんのちんちんしこしこ〜ってするトコ」
ゆかりさんの手が僕のチンコに触れる。まだ少し話しただけなのに、もうチンコはガチガチに勃起していた。
「えっち期待してたならごめんね。もしかしてどーてい? ゆかりでどーてい捨てるんだーってちんちんおっきくしたんだ」
ゆかりさんの手がゆっくり動く。敬語は外れていたし、どこか眞由華先輩みたいなことを言っている。二人の違いはたくさんあるだろうけど、一番の違いは「おちんちん」と言うか「ちんちん」と言うかの差だと思った。
「えっちで出すつもりだった精子、たくさん出そうね」
自分以外の誰かに射精させられる、というのは僕にとって未知の領域だった。これでも非童貞を名乗っていいものかは怪しい。
耳に、首に息がかかる。チンコとは違う、息の熱さが全身に回っているように思えた。身体中が熱いのにチンコはもっと熱くて、性という言葉に全身が支配されていく。
「気持ちい?」
手が動く。指が動く。くちり、という音が聞こえる頻度が上がる。意識していないのに腰が浮いて、思考が溶けていく。そのまま何分が経ったのか分からない。何も考えていないようで思考が支配されているような、そういう時間が過ぎていった。ふと、下腹の辺りが暖かくなるのを感じた。
次の瞬間、一気に気持ちいいという感覚に襲われた。オナニーをしているときの緩やかな絶頂でもセックスをしているときの焦りの快楽でもない、爆発的な気持ちよさだった。
「もうイキそうになってる。早いね」
手の動きが早くなった。僕のチンコは熱くなるのを辞めない。熱が際限なく膨張していく。熱さが限界に達した瞬間、身体の力が抜けて、チンコに溜まった熱と精子が出てしまった。
「わ、だいぶ出たねー。溜まってたんだ」
ゆかりさんの手には僕の精子がへばりついている。変な感じだった。ティッシュで精子を拭き取る彼女を見ながら、自分が知らない女性の前で裸であることを改めて意識した。
「すいません、手が」
「気にしないで下さい。ゆかりで気持ちよくなってくれて嬉しいです!」
そう言って、ゆかりさんはウェットティッシュのようなものでチンコを拭いてくれる。口調はいつの間にか敬語に戻っていた。
「ちょっと時間残ってますね。服着たらお話しましょ、頭撫でてあげます」
ゆかりさんの笑顔は相変わらず営業っぽくて温度を感じなかったけれど、えくぼがなかったから安心できた。眞由華先輩への罪悪感を感じずに済む。もう付き合ってもいないのに、えくぼが出来る人と性的なことをするのは不貞行為の気がしていた。
紺色のボクサーパンツを履く。ヘアゴムに精子がかかっていなくてよかった。
「本番のつもりで来たのにごめんなさい。満足出来ました? もしよかったら近くの本番できるトコ紹介しますよ」
ズボンを履き終えたところで、ゆかりさんがそう聞いてくれる。勝手に僕が勘違いしていたのに、優しい人だと思った。あるいはこれも完全なる営業なのかも知れないけれど。
「気持ちよかったです。何か、こう。気持ちいいんですね、女性の手って」
「よかった! どーていは別の人にあげてく下さいね」
ソファに座ると、彼女は猫撫で声でそう言った。「どーてい」と伸ばしているのが妙にとどたどしく感じられて、この人こそ処女なのではないかと思う。そんな訳はないのだけれど。
「あの」
「どーしました? 頭なでなでが待ち遠しかったですか」
頭に小さな手が乗る。さっきまで僕のチンコを触っていた手なのに、幼さすら感じてしまう手だった。
「僕、童貞じゃないんです。初めて出来た彼女と、最近一回だけしたことあって」
聞かれてもいないことを話しているという自覚はあった。でも、性のプロである彼女になら何だって話していいように思えたのだ。性的なことを相談できるのなんて、この世に風俗嬢しかいないのではないかと思う。
「ほえー。甘酸っぱいですね。なのに風俗なんかにいるってことは、別れちゃいましたか」
「……はい。別れた時に貰ったんです、このヘアゴム。童貞卒業証書、って。フラれたのは僕がえっち下手くそだったせいで、もっとセックスが上手くなったらまた振り向いて貰えるはずなんですよ。最中によく分からなくなって中でイけなくて、それが駄目で」
「本番したけどイケなくって、気まずいまま……みたいなことですか? 初めてのセックスなんてそんなものだと思いますけどねえ。ゆかりだったら、ぜーったいお客さんのことフラないです」
営業だとしてもその言葉はあまりにも魅力的で、あの日の自分が肯定されたように思えた。チンコが少しだけ報われたように感じる。
「ありがとう、ございます。ゆかりさんの言うとおりです。多分、めちゃくちゃ下手くそだったので。女性経験が足りないって」
「ジョセイケーケン?」
ゆかりさんが怪訝そうな顔をした。「ン」が高音になっている。
「眞由華先輩、じゃなくて、元カノ。元カノに振られた時、女性経験が足りないからって言われたんです。セックスが下手で中でもイけないっていうのをオブラートに包んだ言葉なんだと思います」
「あー。お客さん、もしかしてセックスの経験積みに風俗来たんですか?」
「そうです。他に頼める人なんかいなくて、風俗しかなくて」
「私が言うのもあれですけど、風俗なんかじゃ駄目ですよ。感情が伴ってないセックスしても意味ないです。本番ありの風俗嬢なんかオナホと変わりませんって」
「でも、風俗くらいですよ。誰だってセックス出来るの」
「本番とかお触りありの風俗嬢って、どれだけ下手くそでも痛くされてもアンアン言いますよ。そうやって客を掴む商売ですから。そういうのたくさん経験しても、元カノさんが満足してくれるとは思えないです。ゆかり、心配っ」
「凄い言い様ですね」
「ゆかりはお触りも本番もなしですから。プラトニック風俗嬢です」
ピースサインをする彼女。プラトニックかどうかはさておきとして、ゆかりさんの言うことは正しいように思えた。風俗嬢とセックスに及んだとして、セックスが上手くならないのならそれは女性経験とは言えない気がする。
「ね、一般人とセックスしましょ? お客さんが自分でセックスまで辿り着くのが肝要だと思います。お店にさえ来てくれたら色々アドバイスしてあげますから。ゆかり、これでも結構性には詳しいですよ」
「気持ちは、ありがたいんですけど。僕なんか普通の人とえっちは出来ないですよ」
ゆかりさんの笑顔が少し明るくなったように感じた。彼女は僕の太ももに手を置いて、じっと僕の目を見つめた。
「別にブサイクってわけでもないんですし、上手いことやれば一人や二人は余裕だと思いますけどねー。ツイッターで病みアカとかやればいいんじゃないです? 病みアカやってる女なんて皆バカマンコですから、適当にサブカルぶってればヤれる女見つかりますよ」
「病みアカって、トー横界隈みたいなやつですよね。何か怖いじゃないですか。それに僕なんか会って貰えませんし」
「怖くないですよ、女ですし。茶髪にして煙草吸って、『病み垢さんと繋がりたい』『依存相手募集中』みたいなイッタいハッシュタグ付けてる女たくさんフォローしとけば大丈夫です! フォロワー少なめに保って、煙草吸ってるアピしとくのがコツですよ」
「マッチングアプリとかの方が安全で簡単だったり」
「あんなのヤリモクしかやりませんよ、男も女も。素人な分風俗よりよっぽどタチ悪いですし、相手はお客さんのセックスに期待して来ます。怖いでしょ? その点、病みアカのバカマンコは優秀です。寂しさ埋めたいだけですから、ちんちん挿れて貰えれば何でもいいんです。……病みアカ、嫌でした?」
「嫌、っていうか。本当に困っている人を騙すことになりそうで。それこそヤリモクみたいじゃないでですか」
「? ヤれる一般人の女探すんですから、ヤリモクじゃないですか。ヤった女と付き合ったら意味ないですし」
「……それもそうですね」
乾いた笑いで返す。確かに僕がやろうとしていることはヤリモクのそれだ。ヤリモクとか騙すとか、耳に慣れない言葉に自分が当てはまるのは不気味に感じて仕方ない。右手首のヘアゴムが擦れて、急かされているように思えた。
「お客さ〜ん。おーい」
親指の付け根にほくろのある手が目の前で揺れている。ゆかりさんは変わらず笑顔で、彼女が風俗嬢であることを強く意識させられた。
「顔色悪いですよ。あったかいおしぼり作りましょうか?」
「大丈夫です。大丈夫なんですよ、僕は」
眞由華先輩に振り向いて欲しい僕と、そこに至る道が怖い僕。どちらも間違いなく僕の本心で、どちらも捨てることが出来なかった。ゆかりさんの声が遠くなっていく気がする。耳の奥がゴワゴワする。軽い吐き気すら覚えたが、酸っぱいものを飲み込んで堪えた。
「お客さん。ここ。ここ握って下さい。何にも考えずに」
ゴワゴワをすり抜けて、ゆかりさんの声が耳に届く。蝋燭のように白い指が僕のヘアゴムをなぞっていた。指ごとヘアゴムを握る。しばらくそうしていると、不思議と心がマシになっていた。何かに集中することでパニックが収まったのだろうか。
「はい、いい子。怖くなっちゃったんですね。……でも、ヤらなきゃいけないですよ。セックス上手くなって、元カノに振り向いて貰うんでしょ? 諦めきれないからヘアゴムが外せないんですもんね」
頭に自分のものではない手の平が乗る。ヘアゴムから目が離せなかった。小さな毛玉が、薄茶色の線が、あの日の記憶が。僕の不安とか罪悪感を正当化してくれるように思えた。
「おまじないを教えてあげますよ。不安になったり怖くなったり、駄目だーってなったらさっきみたいにそのヘアゴムを握るんです」
「ヘアゴムですか」
「そう。ルーティンっていうんですよ、こういうの。決まった行動とか動作をすれば気持ちが落ち着いて、脳が静かになります。悪感情を抑え込むだけのその場凌ぎですけど、溜まった感情はゆかりが消化してあげるので完璧です」
ぐ、と右手首ごとヘアゴムを握る。ヘアゴムの感触を、眞由華先輩のことを思う。そうすると心臓がどんどん静かになっていく気がして、心地よかった。
「顔色、マシになりましたね。……あとね、ヤった女からはヘアゴムを貰うべきだと思うんです」
僕の首筋を撫でながら、ゆかりさんはそう囁く。耳の奥にあったごわごわが丁寧に取り除かれていくようだった。
「ヤッた回数を可視化出来ないと、どれだけヤったって元カノにアピールしようがないでしょ。折角だからヘアゴムで証明してやりましょうよ。そのヘアゴムは地味だから経験としては浅いかもですけど、可愛いの貰えばきっとたくさん経験積んだってアピールになりますよ」
「……物知りですね」
「ゆかり、風俗嬢ですから」
ぴぴぴぴ、とアラームの音が鳴った。小さな机の上に置かれていたいちごのタイマーからだった。ゆかりさんはゆっくりと立ち上がり、音を止める。
「お時間ですね。話しは纏まりましたし、延長は無しです」
「普通延長させようとするものじゃないですか?」
「次来るお金がないと、感情吐き出せなくて死んじゃうでしょ」
ゆかりさんが扉を開けてくれる。目の前が一瞬点滅するように暗くなったが、すぐにそれも無くなった。
「次会う時はヘアゴムを増やして来て下さいね。ヘアゴムさん」
「何ですか、ヘアゴムさんって」
「いつまでもお客さん、じゃ呼びにくいでしょ? ニックネームです」
小さく振られた手に同じ動きで返し、出口に歩を進める。手首に擦れるヘアゴムのお陰で、大きく一歩を踏み出せた。
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