ヘアゴムの穴

山田大変身

第1話

 ちいかわのキーラバーが回されて、がちゃっという音がした。繋いだ手は離され、熱の籠もっていた手の平を夜風が撫でる。

「汚いし狭いところだけど気にしないでね。一人暮らし女子大生の現実ってこんなもんだからさ」

 玄関が外よりも暗くて、悪いことをしている気分になった。ほろ酔い数缶しか入っていないエコバックが一気に重くなったように感じる。

 スニーカーを脱ぎ、揃える。眞由華先輩の靴が隣で倒れていて、ここは彼女の部屋なのだと実感した。

 部屋は結構広かった。黒い冷蔵庫を開ける眞由華先輩は色っぽく見える。首の付け根くらいまでしかない、明るめの茶髪が揺れていた。

「適当に座ってて。私たこ焼きチンするね」

「あ、やります」

「うるせー」

 何がそんなに面白いのか分からないけど、眞由華先輩は愉快そうに笑った。笑うたびに出来るえくぼが今日は一層可愛い。

 転がっていた緑の座布団に座る。冷凍たこ焼きのパッケージを開ける彼女の後ろ姿は小さく見える。

「友樹はどれ飲むの? やっぱりカシオレ味?」

「あの、僕まだ未成年なので」

「でも大学生じゃん。私だって未成年の頃から割と飲んでたよ? 連日飲みまくって大学行けなくて、一年から必修落としたけど」

「じゃあ尚更飲みませんよ」

「ね〜。私彼氏と宅飲みするの憧れなんだけどな?」

「……誰にも言いませんか?」

「んー。友達にも駄目?」

「いや、どこから警察に漏れるか分からないじゃないですか」

「ばーか。警察ってそんな暇じゃないのよ。それとも田舎の警察はそんなことを大真面目に取り締まってたの?」

「未成年喫煙した中学生を叱ってばっかりでした」

「都会は悪いトコだから。未成年の飲酒も喫煙もフツー」

 これだから田舎者はやーね、とえくぼを携えて眞由華先輩は言った。都会と僕の地元は常識からして違うらしい。

 チン、と軽快な音が鳴った。ソースの匂いと、蒸気の甘い匂いが混じり合っている。

「はいお待ち〜。これだけで足りる? もう何個かチンしようか?」

 たこ焼きの皿が置かれる音、僕の前にほろ酔いのカシス&オレンジが置かれる音。眞由華先輩の白い腕が目の前に伸びてきて、胸が詰まった感覚があった。

 腕が不自然なくらいに白いから、右手首に巻かれている薄茶色のヘアゴムが際立っていた。常に髪や手首に触れているのだから、ヘアゴムは下着と何ら変わらないのではないかと思った。そう思うと地味な色のヘアゴムは慎みのように見える。

「? おーい、友樹」

「え、すいません。何ですか?」

「話し聞いてた? 目イッてるけど」

「……すいません」

「緊張しすぎ〜。童貞じゃん」

 ぽん、と頭に手の平が触れる。撫でられてすらいないのに、僕は何も言えなくなってしまった。自分の童貞っぷりを突きつけられている気分。

「ま、とりあえず食べちゃおうよ。たこ焼きと恋は熱いほうが美味いって言うしね」

 眞由華先輩は僕の対面に座り、ストロング・ゼロと書かれた長い缶をぷしゅっと開けた。ほろ酔いの対義語であるそれが、彼女が大人という事実を引き立てている。

「ほら、友樹も早く開けてよ」

「秘密ですよ。本当に」

 ほろ酔いのプルタブに人差し指をかけ、ぐっと手前に引いてやる。ジュースにはない固さと重さがある気がした。

「じゃあ〜……改めて、一ヶ月記念日にかんぱーい‼」

 缶同士のぶつかる低音は間が抜けている。彼女は二回喉を鳴らし嬉しそうに缶を置いた。流れのままオレンジの箸で口に入れたたこ焼きが思ったより熱かったらしく、はふはふと口元を抑えている。

「たこ焼きめっちゃ熱いから気をつけて! あ、箸渡してなかったね。これ使って」

 オレンジの箸が渡される。間接キスを意識してしまうのは僕が童貞だからだろうか? 童貞でなくなった瞬間、このドキドキは無くなってしまうのだろうか。

 そう考えると、間接キスをするのが勿体なく感じてしまった。箸の太い方でたこ焼きを掴む。口に含んでもそんなに熱くない。眞由華先輩は猫舌のようだった。

「程よい熱さだと思いますけど」

「え〜田舎はそんなに熱いのばっかり食べてたの? てか、お酒飲んだ? 乾杯したのに飲まないとか死刑なんだけど」

 ぶに、と頬を指で刺される。まだ治っていないニキビを触らせたら眞由華先輩が汚れてしまう気がして、慌てて缶に手をかけた。

 少しの躊躇と一緒に缶を傾ける。オレンジジュースを少し苦くしたような、美味しくはない味だ。こく、という喉の音がどうしようもなく大学生だった。

「おいしい?」

「何か、不思議な味だなーって。大人ってこれでストレス発散するんですね」

「いやいや、カシオレ飲むのはお子様だけだって。大人はビール一択だし。ま、私はお子様だから一口貰うけど」

 返事をする間もなく、眞由華先輩は僕の缶をぐいっと自分の口に運んだ。

「私が初めて飲んだのもこれなんだよね。懐かしー。……ん〜? 何で目も合わせてくれないのかな? いや、それは元々か。でもさ、何か露骨になってない?」

 少しだけ口角を上げるような、「にやり」という擬音の一番似合う笑いを彼女は浮かべていた。右頬にだけえくぼが出来ている。

「ねえ、お箸って細い方使うの知らなかった? 知らないなら仕方ないけど、私には何か間接キスを嫌がられたように見えたなぁ」

 かつかつ、と箸を爪で叩く音がした。手元にあるオレンジ色の箸は両側にソースが付いている。

「あの、違います。嫌だったわけじゃなくて」

「分かってるよ、童貞だもんね。仕方ないからこれ飲んだら許してあげる。私だけ間接キスする側ってずるいじゃん?」

 机を這ってストロング・ゼロが差し出される。九%の太文字が威圧的で、そのせいかは分からないけれど口の中に唾が溢れた。

「……飲めますかね」

「童貞は酒も満足に飲めないの? も〜、特別ね」

 彼女はストロング・ゼロを自分側に戻し、両手で缶を支えて飲んだ。喉は鳴らない。ぽかんとしてしまった僕に、彼女は四つん這いで近付く。襟元からほんの少しだけ下着越しの胸が見える。そこから目を逸らせる程、僕は紳士ではなかった。

 じっと見つめられる。心臓がうるさい。もう付き合って一ヶ月にもなるのに僕はずっと変わらなくて、余裕がなくて嫌になる。情けなくて顔が勝手に下を向いた。

 頬に左手が添えられる。白い手。身体が強張るのを抑えられなかった。

 眞由華先輩が片膝立ちになった。くい、と指で顎を持ち上げられる。僕の顔より少し上に位置する彼女の顔は、相変わらずえくぼが可愛い。

「ん」

 眞由華先輩の顔が近付いて、思わず目を瞑ってしまった。唇に弱い熱が当たる。これが彼女の唇であることくらいは、流石の僕だって分かった。

 目の前の情報を処理しきれなくて、ただ鼻息が荒くなっていないかが心配になる。息の仕方が分からなくなって意識的に呼吸をした。

 彼女の舌先が僕の唇をほんの少しだけ舐めた。唇に無意識に入っていた力が緩んで、より彼女の唇の形が感じられる。

 生温いぴりっとした液体が口の中に流し込まれる。反射的に飲んでしまったそれは不味くて仕方なかった。このレモン味がファーストキスのレモン味なのかどうかは分からない。

「ぷはっ。口開けるの遅い〜! 窒息するかと思った!」

 唇が離れて、苦笑いしている眞由華先輩の顔がぼんやりと映った。全身が気持ち悪いくらい熱い。胸を圧迫する緊張とストロング・ゼロの味、足りない酸素のせいで汚い咳が出た。喉が熱くて痛い。

「大丈夫? 流石にストゼロはキツかった?」

 背中を擦られる。少しごつごつしている背骨を触られるのが恥ずかしかった。

「何でキス、したんですか」

 艶のある唇が目に入る。初めてのキスはもっと甘酸っぱくて、ほんの一瞬しか触れ合わなくて、はにかみとセットになっているものだと思っていた。憧れが過ぎるのは分かっていたけど、それでも何故かそう思って疑わなかった。

「何で……って、野暮ちん。だってさ、友樹が童貞すぎるんだもん」

「でも間接キスは付き合って三ヶ月目って書いてありました」

「キスも口移しも済ませたんだから今更言わないの。そもそもなにで読んだの、それ」

「……恋愛マスター、ドットコムで」

「なにそれ。じゃあ友樹はさ、私のこと軽い女とでも思ってるの?」

 白い手が鼠径部を撫でる。声の一つも出なくて、手をじっと見るしか出来なかった。ヘアゴムが付いているのが半脱ぎのようなマニアックさを感じさせる。

「ね。今日は無視が多いね? ファーストキスが私じゃそんなに嫌だったのかな」

 手がチンコに流れてくる。身体は動かくて、頭の中は煮えている。ゆっくり動く彼女の手の中で、チンコは大きくなっていた。

「早い……と、思います。まだ頭が追いついてないっていうか」

「そんなのいつになっても変わんないよ。何、私以外で練習でもする気なの?」

 じじ、とチャックが開けられる。履いているのが猫ちゃんのパンツであることをズボンをずらされてようやく思い出した。勃起したチンコで黒猫の顔が醜く歪んでいる。

「可愛いの履いてるね」

 眞由華先輩の手は僕の感じたことがない気持ち良さを持っていた。身体が跳ねるなんていうのはエロ漫画世界の話しだと思っていたが、あれはどうやら幻想でもないらしい。確かに腰が浮いてしまうし、チンコは一撫でされる度に跳ねている。

「まだ答えを聞いてないんだけど。私がファーストキスは嫌だった? それともまさか……キスだけはは経験あったりした?」

「付き合うのも初めてなのに、そんなのあるわけないじゃないですか」

「良かった。友樹の初めて全部貰うの、凄い楽しみだったからさ」

 また唇が塞がれる。今度はさっきみたいな急ぎのキスではない、ねっとりとしたキス。舌が生き物みたいに僕の舌を包む。フレンチキスは付き合って一年の日にするが良し、という記事を思い出す。やり方なんて一つも書いていない記事だった。

 舌は初めて感じる柔らかさだった。ちゅく、という音が一秒ごとくらいに鳴る。

「じゃあさ、これだって初めてだよね」

 手首を弱めの力で引かれて、彼女の胸元に僕の手が置かれる。硬いような柔らかいような、上手い例えが見つからない感触があった。

「服の上からじゃわかんないけど、結構大きいでしょ?」

 下から揉んだほうが柔らかいよ、と言われたけど手を動かせなかった。口呼吸になっていることを自覚する。

「こういうの。あと数年してからですよ。やっぱり」

「だーめ。初めてお酒飲んだ日にセックスしないでいつするの」

 セックスという言葉を他人の口から聞いたのは初めてだった。何なら自分で発声したことすらないんじゃないだろうか。胸に置かれた手が、今度は下に導かれる。いつの間にかベルトが緩められていたジーンズにはすぐ手が入って、湿りを含んだ温かさを感じた。

「私さ、余裕で挿入るくらい濡れてるよ。超ムラムラしてる。友樹のおちんちん、欲しい」

「でも、ゴムとか持ってないです。買ったこともないし」

「可愛いね。ちゃんとあるから大丈夫だよ」

「……したことないから、付けられないし」

「うん、一緒に頑張ろうね?」

 ぐい、と手を引かれて眞由華先輩の後ろにあるベッドに導かれる。ベッドは硬くて、ぎしりというテンプレートの音がした。情緒だと思った。電気が豆電球に切り替わる。

 ぎしりという音がまた鳴って、少し自分の身体が傾くのが分かった。暗いからなのか、音に必要以上に過敏になっている。

 衣擦れの音がする。ボタンに爪が当たる音。布と肌の擦れる音。居た堪れない感じがして、僕も服を全部脱いだ。裏返しのままでベッドの外に放る。畳むのは違うと思った。

「緊張してる?」

「……してます。あの、ほんまにするんですか」

「くどいなあ。約束したでしょ。てか可愛いね、関西弁?」

 多分何か言いたかったのだけど、唇を塞がれてどうでもよくなってしまった。長くて甘い匂いがする髪がくすぐったい。ブラのざらっとした感じがお腹の辺りに当たる。腰の骨にヘアゴムが当たる。肌同士の境目が不明瞭になる。全てが性の感触だ。先程までの貞操観念がギャグに思えた。

「ブラ、外して?」

 眞由華先輩が後ろを向いた。よく分からないままホックを壊してしまうのも怖くて、鉄っぽい何かをただ指で弄っているだけになってしまう。

「下手くそ! 童貞め、直接おっぱい触りたくないの?」

「触りたい、です。…………すいません。言ってること、めちゃくちゃで」

「素直。覚悟決まったんだ? 偉い」

 小さな音がした。暗くなかったら聴こえなかった、ブラを外す音。

「パンツくらいは脱がせる?」

 当然というか、パンツを脱がせるのは簡単だった。ほんの少し目が暗闇に慣れていて、彼女の性器が見える。漫画では黒線、映像ではモザイクがかかっていたから現実味に欠けた。

「ん。いいよ」

 くっ、と眞由華先輩が軽く胸を前に張ったのが分かる。僕がパンツを脱がせたことが誇らしいわけではなく、ただ「いいよ」のサインでしかなかった。

 胸は柔らかいし温かいし触っていたら興奮するのに、重かった。胸を揉んでも乳首を触っても彼女は喘がなかったけど、たまに熱い息を吐いた。

 いいのかな、と思って彼女の性器を軽く撫でた。ふ、という吐息混じりの甘い声が聞こえる。思っていたよりずっとぬるりとして熱い。一瞬血かと思った。

「生意気。……あー、もうびしょびしょ。童貞でちょっと感じちゃった」

 がさ、と日常の音がする。セックスでもこんな音が鳴るんだ、と当たり前のことを知った。

 十五秒くらいの空白。少し勃起は収まっている。興奮が衰えたというより、単に休憩のように収まっていた。

「ちょっと萎えてるじゃん。十代なのに」

 白い手がチンコに触れる。ゆっくりと数回しごかれただけで復活する単純さが若さだろうか。そもそも復活ってなんだ。勃起しているのが正しいみたいな言い草やんか。

 動く手にヘアゴムが揺れていた。下着も脱いだのに、まだあそこに残っているあれは何なんだろう。そんなに神聖なものなのだろうか。

 亀頭の頭にぬるっとしたものが被される。ゴムが付けられているのは分かるのだけど、おむつを付けられているかのような気恥ずかしさがあった。

「ね、酔ってる?」

「……? 分からないです」

「おばか。こう聞かれたらね、酔ってるよって答えるの。そうしたらさ、私もだよって答えられるでしょ。良いセックスの導入になるんだから」

「導入がいるんですか、こういうの」

「セックスしますか? はいします。って情緒がないでしょ?」

 そう言いながら眞由華先輩は僕をベッドに倒し、上に跨ってきた。これは導入じゃないの

か、と思う。

「……酔ってますか」

「急だね。へたー。酔ってますけど、童貞には分かんないか」

 くすくすと眞由華先輩が笑って、重みが少し無くなった。腰を浮かせたらしい。

「最後に童貞って言われたい?」

「……分かんないです。正直、えっちする自覚が全然なくて」

「えっち、って。まあ数分前まで数年後のことだと思ってたんだもんね。参考までに聞かせてよ。何が友樹を決心させたの?」

「それは」

「うん?」

「眞由華先輩が、好きだからです」

 数秒の空白。外を走る車の音、眞由華先輩の息の音、僕が唾を飲む音。

「……童貞、捨てようね」

 それは唐突だった。ちぐ、という小さな何かが潰れる音を人生で初めて聞いた。あ、という声が漏れる。眞由華先輩の中は熱い。蟻地獄のようだと思う。

「気持ちい?」

 眞由華先輩が腰を動かす。水音が聞こえた。セックスをしているのは僕らなのか、眞由華先輩なのか不安になる。何かしないとセックスじゃないような気がする。揺れる胸に手を伸ばしたが、彼女の手に阻まれた。ほんの少し触れたヘアゴムが意味不明だった。

「私が全部するから。友樹は、寝てればいいんだよ」

 数秒もしない内にチンコがまだ固いか心配になった。セックス出来ているか不安で、早くイキたくて開放されたくて仕方がない。気持ち悪い汗が滲む。少しの声が出ている眞由華先輩、増す水音、熱くなる膣。何故かそれと反比例するように気持ちよさがなくなっていく。

 眞由華先輩の動きが変わった。擦り付けるような動きから、上下する動き。どうあればいいのか、声を出すべきなのか、僕は何をすれば良いのか、何も分からない。

 今何分経った? 僕は気持ちいいのか? 眞由華先輩はどうだろう? 射精感は? 僕は今、何をしている? 疑問がずっと僕を苦しめている。

 目の前のエロさと自分の快感が伴わなさすぎて怖い。セックスって何だ。分からなかったものが余計に分からなくなった。眞由華先輩と気持ちいいセックスがしたいのに。眞由華先輩に射精させられたらきっと幸せなのに。

 今勃起は出来ているのか。挿入は出来ているのか。強い不安がお腹の辺りで渦巻いている。

 追われている。急かされている。悪魔だか死神だかに。アジャラカ、モクレン、セックス、テケレッツのパー。

「あの、い、イキました」

 何がどうなって、何分経ってこの言葉が出たか分からないけど、知らぬ間にそう言っていた。眞由華先輩の動きが遅くなって、やがて止まって、僕の上から居なくなった。ごろ、と

僕の横に転がってくる。チンコは小さくなっていて、てらてらとしたゴムがへばりついていた。その中には何も出されてはいない。

「……早いね?」

「え⁉ あ、いや。初めてだったので。次からはもっと頑張ります」

 背中が冷える。罪悪感があった。何に対してなのだろう? 理由もない罪悪感で、僕のキンタマは一杯だった。

「良かった?」

「……童貞が馬鹿にされる理由が分かった気がします」

「私は良いと思うけどな」

 そう言って、裸のまま彼女は壁の方を向いた。本当はイっていないのがバレたくなくて、ゴムをレジ袋に入れて自分のリュックに隠す。

 もう眞由華先輩は寝息を立てている。帰りたかった。でもこんな気持ちで一人でいるのも嫌で、部屋の隅で座って目を瞑る。

 服を着ていないことを思い出した。歯磨きもしていない。たこ焼きもお酒も残っている。

酷い有様だったが、これらを済ませるのは眞由華先輩に対する罵倒だと思って辞めた。パンツだけを履く。

 何故普通にセックスが出来なかったのだろうか。初めてだから。緊張していたから。お酒

が入っていたから。その辺りではないかと思う。粗探しでいいから誰かに問題点を指摘されたかった。

 セックス自体は良かった。気持ちよかったし、確かにエロかった。思い出すとまた勃起

した。何でそれを出来ないんだよ、と歯の奥で言った。

「初めてやし」

 こんなもんやろ、とまでは口に出さなかった。部屋の隅に体育座りして目を瞑る。ソース

の匂いがまだ残る部屋で、僕はチンコを触りながら羊を数えた。


 皿が擦れる音と水の流れる音で目が覚める。明るさが痛くて目を閉じたかったけど、それ以上の腰痛で無様に身体を捩るしかなかった。

「おはよ。変なとこで寝てたね」

 眞由華先輩は昨日そのままだった皿を洗っているようだった。向けられた背中は変わらず小さい。手首にはまだヘアゴムが付いていて、あれは本当に何なんだと思う。

「おはようございます。……すいません、勝手に泊まって」

「いやいや、流石に元々泊める予定だったよ。裸はお腹壊しちゃうから服着なー?」

 猫のパンツしか履いていない自分が馬鹿みたいだった。散らばった服を集める。眞由華先輩はこちらを向きもしない。広くはない部屋に水の音だけが在った。

「眞由華先輩は。えっと、ちいかわ好きなんですか」

 黙っているのもバツが悪くて、必死に手繰り寄せた記憶から話題を捻り出した。

「大好き。モモンガと付き合いたいくらいだもん。……いや、やっぱり付き合いたくはないかな」

「それって、僕が」

「おちんちん付いてないもん」

 言葉は遮られ、死体となって僕の喉の中へ沈んでいった。すぱっとした言葉に「お前も昨晩はも付いてないようなものだったよ」と罵倒された気がした。

「なあに、話しを振っておいて黙るなんてー。童貞って……あ、もう違うか」

「……すいません。片付けも手伝えなくて申し訳ないです」

「メイクのついでに片付けただけだし、気にしないの」

 きゅ、という音と共に水音が止まる。眞由華先輩が息を吐く音がかすかに聞こえた。部屋に射す朝日が眩しい。

「友樹」

 いつもの眞由華先輩の声だった。寝てしまう直前に感じた冷たさがなくて、悪夢でも見ていたという方が自然なくらいだと思う。手首のヘアゴムもずっとそのまま。

「もしさ。……うーん、何ていうのかな? ちょっと待ってね」

 こちらを向く彼女の顔は苦笑いという他なくて、僕の不安を酷く煽った。心臓が不自然なくらいに跳ねている。

「例えばだけどさ、別れようって言ったらどうする?」

 一瞬、言葉の意味が理解が出来なかった。何か言わないと、と思うのだけど口がもつれて何も言えない。この場合の「もし」が「もし」でないことくらい、僕にだって分かった。

「何で、ですか。僕、確かに昨日は及ばないところがあったと思います。童貞だし、付きあったのも初めてだし。本当にすいませんでした。やっぱり嫌でしたよね。……でも僕、これから頑張りますから。もっといい男になって、えっちも長く出来るようになりますし、気持ちよく出来るようになりますから。昨日は、その。初めてだったんです、全部」

 頭には昨晩の情事がこびり付いている。不甲斐ないにも程がないセックスだったと思う。眞由華先輩からすれば満足出来ない行為だっただろう。でも、昨日の僕を僕の最大だと思わないで欲しい。チャンスが欲しかった。ここから上手くなるはずだった。

「分かってるよ、初めてくれたんだもんね。嫌じゃなかったよ、大丈夫」

 眞由華先輩が髪の先を触っているのが見える。ヘアゴムと似た色の髪。白い下着のようなものなのだろうか、と思った。

「何て言うのかなぁ。女性経験、かな?」

 苦笑い。えくぼは変わらず浮かんでいたが、別物のように感じた。

「女性経験、って。えっちの回数ってことですか? それは……仕方ないじゃないですか。眞由華先輩だって僕が童貞だって知ってましたよね」

「うん。仕方ないよ、童貞は。誰だって最初は童貞だし処女だもんね」

「じゃあ、何で」

「ごめん。上手く言えないや」

 困ったように後頭部を触る眞由華先輩。やっぱり昨日のセックスが原因なんだと嫌でも察する事が出来た。面と向かって「セックスが酷いから」なんて言えないから、オブラートに包んで誤魔化してくれているだけ。

 だとすれば、今の僕に彼女を思い留まらせるだけの材料はない。もう眞由華先輩が僕と別れたくてセックスもしたくないのだから、泣きついて付き合っていても一生セックスは上手くならず、何も現状からは変わらないのだから。

「ん。今日二限あるの。鍵、玄関に置いとくから。帰るときはポストに入れといて欲しいな。……私のことなんて忘れて、幸せになってね。私より巨乳な人じゃないと嫌! とか贅沢言ったら駄目だよ?」

「忘れられるわけないじゃないですか! ……諦めきれないですよ。こんなの」

 少しの空白の後、おでこに何かが当たった。落下していくそれをキャッチする。小さな毛玉を手の平に感じて、昨日触ったフリル付きの下着のことを思い出した。

「忘れられないのは仕方ないから。童貞卒業証書ってことで、吹っ切れるまでは持ってていいよ」

 手の中には、眞由華先輩が付けていたヘアゴムがあった。こんなものを持っていても良いのか、という背徳感のような感情が渦巻いた。

「いつかは捨てないとさ、次の彼女ちゃんにもフラれちゃうよ〜?」

 目線の先には、いつも通りのえくぼを携えた眞由華先輩がいる。まだ僕しか知らないほくろとか見つけてないです、とか未練がましく思った。

「まあ、じゃあね。非童貞。幸せになるんだよ」

 ドアの締まる音は妙に重たく聞こえた。何もかもが急だったけど、少なくとも彼女が冗談であんなことを言った訳ではないことは確かだった。それだけは、嫌という程伝わった。

 眞由華先輩は僕のセックスが不満で別れを決断した。僕はまだ眞由華先輩を諦められない。……ならば、選択肢はたった一つだけだ。

「えっち、しないと」

 女性経験を、セックスの経験を積む。中でイけるようになって、セックスが上手くなって、もう一度彼女に振り向いて貰うのだ。

 右手首にヘアゴムを通す。背徳感で勃起した。

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