第7話

 ナンバは集荷場の敷地内にあるアパートの二階を借りていた。近所に安いドーナツ屋があって、いかにもあいつが選びそうな立地だった。


「最近は兵隊くずれも遺伝子が信頼されてませんからねえ」

 社宅の管理人はやっと空き部屋を作れるというので、どこかホッとした顔をしていた。巡査たちがドアの前からどいて、部外者の私たちを胡散臭そうに見てくる。ラグマンがIDカードを見せると、お疲れ様ですとつまらなそうに言ってきた。

「だろうね」

「しかしやってられませんよねえ、人殺しだの差別野郎だのって。正直ね、吹っ切れる気持ちは分かるんですよ。処分場だって少なくとも世間の声は聞こえませんものね」

「それ、警察にも言った?」

 管理人の手が止まり、縞瑪瑙オニキスのような黒い瞳が私を見つめた。数秒ほどのフェルマータの後、「いえ」と言い直して、ドアノブに鍵が突っ込まれる。


 私が部屋に踏み込んでも、管理人は入ってこなかった。

 居間のドアを閉める一瞬、こっちを睨んでいる彼の顔がドアのガラス越しに見えた。さっきのおべんちゃらと比べたらよほど私たちを理解している表情だった。


 ナンバは少なくとも健康で文化的な生活を送っていたようだった。

 プレイボーイが置きっぱなしになった床にはペットボトルと未開封のタバコが転がり、その横のゴミ袋には虫がたかったドギーバッグが突っ込んであった。ダニまみれのベッドにも数日前の新聞が開いたまま置いてあって、まったく、兵隊の生活リズムからラッパを抜いたときの好例みたいな部屋だった。

 水垢まみれのシンクには処方箋があった。フルボキサミン。強迫性障害の薬だ。こいつも最後に開けてからずいぶん経っているように古びていた。

 終わったよ、と外に出て管理人に言うと、彼はさっさと鍵をかけて帰って行った。


 一階の壁に寄りかかってイオン水をすすりながら、生前最後に会ったナンバを思い出した。「つまんねえ仕事だよ」と言っていた。「行くだろ、帰るだろ、また行くっていう繰り返し。それで金が入る」良いじゃんと返した覚えがある。酒に弱くてバーに誘うと水ばっかり頼む男だった。


「一世代前のナンバと仕事をしたことがある」

 隣で、ラグマンがカチンとライターを鳴らして言った。

「優秀かはともかく、あの頃から自販機みたいな野郎だったな。ドル札を入れた分だけ動くっつう。それ以上も、それ以下も無しだった」

「替えが利くから便利だった、ってこと?」

「ん、まあ。そういうことだ」

 さすがに居心地が悪くなったようで、ラグマンはドーナツを買いにアパートを離れて行った。


 彼のつぎはぎまみれの背中を目で追いながら、苦いイオン水を飲み込む。

 やはりラグマンは士官向けだ。私だったらそんな便人間、任務が終わったらすぐ忘れてしまう。


「あんた、ナンバの知り合いか?」

 私がボトルを下ろすと、賭博場帰りみたいな服装の男がエントランスからこっちを窺っていた。

 アジア人に見えるが、日本や大陸の人間には見えない。ミャオ、チベット……区別するとしたら高山系の民族によくある顔立ちだった。

 見るからに不健康そうで、恐らく一生、保険の勧誘には縁のない人種だろう。厚ぼったいまぶたは日焼けでシワになっていて、声も酒とタバコで嗄れていた。


「ん。飲み仲間って程度だったけどね」

 私は言った。「ま、お通夜ついでの遺品整理ってやつ」

「ああ。身寄りねえ野郎だったもんなあ。で、何か見つかったかい?」

「別に。あいつ、つまんなかったでしょ」

「まあな」

 男は床に痰を吐き、へっと笑った。

「でも真面目な野郎だった」

「とんでもない荷物を運ばされるくらいね」

「……まあな」

 男は私に並ぶと、丸々とした親指でナンバの部屋を指した。

 指したのは左手だった。

 右手は上着のサイドポケットに突っ込んだままで動かしていない。中の硬質な膨らみが見て取れた。視線を上げていくと、男の喉を玉汗が伝っていくところだった。

 喉元が飴玉でも転がすように上下していた。撃つ前の新兵がよくやる仕草だ。


「その鉄砲じゃ脅せないよ」

 男の喉仏が止まった。

 殴られる前の新兵がよくやる、あの丸い目が私を見つめる。

「.25口径っしょ。この距離じゃ、人は殺せない」

 私も緊張していたらしく、義手の指がイオン水のボトルをへこました。出来たばかりのくぼみをなぞりながら、ぼうっと目の前の空間を眺める。


「話すことがある」

 男が低く言う。私がうなずくと、ようやく彼のポケットから右手が現れた。



「初めの俺は二十世紀生まれだったんだよ」

 カビくさい集荷場のコンテナのあいだを歩きながら、男がつぶやく。

 ゴム底のワークブーツは最近流行りの感圧ホロシートで出来ていて、彼が歩くたびに赤いマーブル模様が波打っていた。

「カシミールの村……ザンスカールって知ってるか? 家を出たらサガルマタが見えるんだが、そこでガイドをやってた。三十歳までは遭難者グリーンブーツ相手にチップを巻き上げてたのに、あのくそったれの極東戦争で党員レッズに村を接収された」

「その話、いつ終わりそう?」

「待ってくれ。正確に思い出すのが大事なんだ」

 男はシワまみれの顔を下に引っ張った。ぱらぱらと剥けた薄皮が落ちる。


「二三歳の七月、日本から旅行者の女がやって来た。南峰ローツェまで八日の日程で、計画書も当局のサイン付のご立派なモノさ……」

 男は一瞬だけ周りを見渡すと、ポケットから書類のコピーを出した。

「でもおかしいんだ。その月、公式記録によると俺はドイツの登山マニアを案内してチョ・オユーをちんたら登ってる。日本人女のアタックに付き合えるわけがない」


 コピーを繰り返して不鮮明になった紙面からは、かろうじてウムラウト付きのサインが読み取れた。私が顔を上げると、男は少し得意そうに唇をつり上げた。


「記憶が改竄されてる。調べたら分かった。あんたもあるんじゃないか、パッとしない顔をした日本人女の記憶が」

「かもね……」

「ハッキリ言ってくれ!」

 いきなり肩をつかまれ、勢いのままコンテナに押し付けられる。


「あんたも『シノブ』と会ったんだろ! 全世界の人間が勝手に『シノブ』と出会ったことになってる。あいつは誰なんだ。本当にいるのか?」

 背すじが熱くなる感覚があった。

 脳内の私はさっと銃を引き抜いて、ビーズ玉みたいな男の目玉に散弾をブチ込んでる。でも実際の私はその場で虫ピンで刺されたようにコンテナにはりつけにされたまま、男をじっと見つめている。


 ショックを受けていた、のだと思う。

 冷えた水面に煮えたぎるミルクを流し込んだように、だんだんと痺れが指先まで波及していく。ブーツの中でつま先の感触が消えた瞬間、私のあごが開き、中の舌が前歯の裏側をはじく。


「あなたが『しぃの』に会うわけがない。嘘だね」


 男は紙クズみたいに顔をゆがめると、獣じみたうなり声を上げた。

 突然、私の肩を放して身を寄せてくる。薬物の苦いにおいがした。私が腰をひねった瞬間、短い破裂音が飛び出した。鼓膜が内側に凹む感触がはっきりと感じ取れるあいだに、男の顔が怒りから諦めの無表情へとゆっくり遷移していく。


 彼のポケットから右手が抜かれた。

 太い指で握った拳銃が、ナメクジのように銀に光っていた。その手がこっちを向く前に、私も手首を掴んだ。でもひねりきる前にさらに二発撃たれた。胸から背骨まで肉をえぐられる感触が走り、思わず手を離す。

 私が屈むと、男は拳銃を持ち上げた。

 ポイントした照星越しに、揺れる瞳が見えた。

 ずいぶん落ち着きのない構え方だった。指はひっきりなしに震えているし、何度も狙い直すせいで、ちょっと指ではじくだけでグリップがすっぽ抜けそうだ。


「あなたも、イリヤを……」

「やめてくれって言ったんだ。やめろって。でも」

 彼の充血した目が、だらだらと液体を流す。

 警官たちが銃声を聞きつけたらしく、倉庫の外から足音が向かってきていた。

 男は構えを解き、硝煙を噴き出す銃口を見た。六発入りのオートマチックピストルはスライドからグリップまで傷だらけだったが、地金が不自然なくらい光っていた。


「……どいつも馬鹿にしやがって」

 男は吐き捨てると、自分のあごの下に銃を突き付けてトリガーを引いた。


 彼の痩せた身体が倒れたところには白濁した水たまりが出来ていた。

 ふ、と下を向いて息を吐き出す。私の腰にも大きな水たまりが作られていて、呼吸に合わせて波紋が広がった。

 みるみる漿液にまみれて水が黄色くなっていく。胸を押さえた指が乳房に沈み、濡れそぼった肺から白い人工血オキシサイトをしぼり出していく。うがいのような雑音が吐息に混ざり、ゆっくりと眠気が襲ってくる。

 大動脈だ。背骨ごとやられた。


 駆けつける足音の中に、ローファーがアスファルトを蹴る音が聞こえた。

「人間なら、死ぬのは一度っきり」

 目の前にプリーツスカートと、そこから伸びる白い脚が現れる。

 誰かが私のあごを掴み、持ち上げる。ぼうっと見つめた先で黒髪がゆらゆらと揺れる。


「大丈夫。また私たちは会えるよ」

 ピンクの唇がそっと耳に寄せられ、熱い吐息が降りかかる。

「ね、ナツミ」


 ああ、とうなずくところまでは出来たと思う。

 数秒も経たないうちに、酸欠になった私の脳は壊死を始めた。

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