第6話

 係の人間が行ったあとの警邏隊本部は、スポリと圧が抜けたみたいに空っぽだった。

 沈黙した空間に取り残されたとき特有の耳鳴りは止まらず、手の中では渡された紙コップが手汗でぬめっている。

 そのうちなんだか座り続けているのもダルくなって、流しに水を捨てた。


 手を洗うとき、指に絡まった髪が目に留まった。

 レジロン糸のように細く、乾いた白いコード

 ちょっとつまんで、引き延ばす。半センチも引っ張らないうちにぷつりと切れて、切れ目から水滴がしたたり落ちていった。


「ねえナツミ。殺すときって安心できたでしょう?」


 すぐ後ろに誰か立っていた。そいつが私の肩に手を置き、視界の端で黒髪が揺れる。首すじに熱い息がかかり、舌が歯に当たるクリック音が響く。

「ねえナツミ……」

 水を止めて振り向くと、いつまでも変わらない『彼女』の笑顔が目の前にあった。

「あなた、誰なの」

「誰だったら嬉しい?」


 無意識に私の目は彼女の頭からつま先まで走査している。

 ぼやけた輪郭の髪、薄い肩、少しきつい印象を受ける瞳。

 私の最も知ってる彼女のパーツのモンタージュ。でも彼女じゃない。『シノブ』という少女の記号で構成されていても、この人は私の望んだ言葉しか喋らない。


「……しぃのはアタシが埋めた」

「私が死んだとき、あなたは指揮車の中で咽喉マイクを握っていた」

「ごめんって言えばいいの?」

「ううん、あの時は戦争だったもの」


 しぃのの目が暗く落ちくぼむ。燃え尽きた炭のような白目がどろりと波打った。

「私は味方だったし、それ以外は敵」

 私の肩にしぃのの指が食い込む。


「考えてみなよ。銃口を向け合うことで誰でもなかった他人が敵に変わり、あなたと誰かのあいだに加害者と被害者の関係が生まれて、固着する。それって、分かりやすいじゃない? 個人同士の在り方としては幸せだと思うんだ」

「撃ち合いなんてコインの投げ合いでしかないよ」

 口もとに手をやる。合成樹脂の濡れた指越しに、震える唇が分かる。

「最後は確率で弾が当たるか、死ぬ。戦争なんていつもそれだけだったっしょ……」

「あなたの話をしてるの。真人間みたいに答えないで」

「本当は真人間だったんだよ。しぃのもアタシも」


 目を閉じて、また開く。

 やっぱり彼女はどこかに消えていた。


 ふたたび水を出して軽く顔を洗う。今度は髪も濡らしておいた。


 思い出すのは、タウルス・ジャッジで殺したゾンビみたいな男――私もそうなりつつある。

 人間というハードウェアは目や耳、皮膚で外界とつながっているオンライン端末だ。画像、音声、物理接触……今の時代、イメージの刷り込みは簡単に行える。

 誰かが『しぃの』を使って何かを私に埋め込もうとしている。

 今はまだ、彼女がしぃの本人じゃないって分かってる。でも、きっかけひとつで均衡は崩れる。そうなれば、きっと私はまともに動けなくなる。


 かぶりを振ったとき、脊椎の有機プロセッサユニットがキシキシと鳴った。


 ナンバの一件から一週間。

 幻覚は頻繁に襲ってくるようになった。噛みついたヘビみたいに、日常に少しずつ毒を流し込んできている。

 ぱちり。

 ひとつ、まばたきをする。洗面台の鏡の向こうに私がいる。

 ぱちり。

 そいつが『しぃの』とか『イリヤ』と呼ばれる何かになるのだろうか。

 ぱちり。


 馬鹿みたい。

 私は今だって人間だ。壊れたマシンじゃない。


 警邏隊の取り調べは半日で終わり、ホテルの荷物はすぐにまとめられた。

 着替えは二日ぶん。お酒は三日。弾は二十四発。

 ルノワールの絵が付いたマッチ箱をジャケットに放り込み、タウルスジャッジを手入れしながら、しぃのだったらもっと上手くやれたなと思った。


 私の脳内で、二十八世紀まで生きたしぃのはスーパーヒーロー。いつもボケてる私に「何やってんの」と怒ってくれる。

「ごめん」

 頬がゆるむのが自分でも分かった。

 そうだ。あの幻覚はしぃのじゃない。彼女はあそこまで私に甘くない。


 ホテルの外に出ると、朝霧で髪の先が濡れた。

 もともとアメリカの朝はもやがひどいけれど、今日は特に視界が通らなくて、かろうじてアスファルトのひび割れが分かるくらい。どうも長いこと工事がされていないみたいで、クルマの通ったあとが二本のわだちになっていた。


 ラグマンは借りたばかりのエレカーの前で意味も無く鍵を振り回していた。

 私を見ると軽く片手を挙げて、開きっ放しのドアにあごをしゃくって見せる。


「あの頭を潰された女、復元はすぐ終わるそうだ」

 私が助手席でシートベルトを締めていると、ラグマンは面倒くさそうにタバコをくわえて言った。今度は天然ものらしく、煙がいつもより濃い。

「金持ちだったの?」

「いや。ここの慰安隊の備品でな、オーナーがバックアップを取ってた」

「男の方は?」

「あれはダメだな」とラグマンは吸い口をつまみ、「ボディに保険はかかってたが、最後に更改したのが15年前だ。記録はなんも残ってねえだろうな」


 工場で人体を作る今の時代、死んだ人間程度なら簡単に直せる。

 運び屋のナンバは安物だったから新しく買うことになったけれど、あのカップルは顔もほどほどに調整されていたから、きっとカスタムメイドだろう。


「何か見つかると思う?」

「いいや」

 ラグマンは喫い差しを投げ捨てて、ウィンドウを閉めた。

「ナンバをった野郎も脳が焼き切れていた。脳をいじるシステムがあるんだろうが、こいつは相手を吸い尽くしたら壊すようにできてる。後始末まで完璧だ」

 エレカーが急発進する。座席に打ち付けた頭をさすりながら、ふうと息を吐く。


「……顔を洗ってたらさ、また『しぃの』が出た」

「それで?」

「別人だと思うことにした」

 ラグマンのカメラアイが私を見たので、わざとジャケットで顔を隠す。

「まともな人間だったよ。どこにでも転がってるような女の子だった」

「だが――」

「ん、なんで忘れられないんだろうね」


 ぽつぽつとまた青い雨が降り出した。ラグマンが舌打ちしてワイパーを動かすのを見るうちに、エレカーは集荷場に着いた。

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