第3話
事の起こりは三日前。
あの日はどしゃぶりで、朝から雨だれでまだら模様になった窓を見ていた。
昔は、天気なんて台風と雪とそれ以外だったけれど、現代じゃ天気予報も命がけだ。
たとえばこの青い雨。
百年ほど前から降り出したけれど、きわめてデンジャラス。
雲に溶け込んだナノマシンが降ってきて、この色になってるんだそうだ。
こういう水溶液は、身体に当たるとタンパク質をでろでろに溶かしてしまう。そんなブルーハワイのシロップみたいな人喰い酸性雨はほのかに光っていて、部屋で読書するにはうってつけだ。
私がこの『ラグマンズ・ハウス』を下宿先に決めた理由も、この雨がひとつ。
ここは最高。
なにしろ無傷の本と窓ガラスがある。
窓に関しては、人によっては割れにくい樹脂の方がいいと言う。でも、歪んだ樹脂よりすべすべしたガラスの方が読書にはいい。それに、変なニオイもこもらない。良いことずくめだ。
「ナト?」
ドアがノックされた。開いてるよ、と私は言って片手を伸ばす。
頼んでいたホットバタードラムがそろそろできる頃合いだった。友達とラテばかり飲んでいたせいか、私は混ぜ物の中毒になってしまったみたいで、お酒もカクテル以外は身体が受け付けない。
でも、渡されたのはひんやりしたリボルバー拳銃だった。
見るとラグマンはエプロンの上に、仕事着のチェストリグを着けていた。
「あの、ラムは……?」
ラグマンは仏頂面だった。嫌な予感。
「ナンバが死んだ。いや、フレアの婆さんからの依頼だ。あいつを殺したのが三番街で暴れてる」
「なんで」
寝耳に水だった。あり得ない。「見てよ。雨なんだよ?」
「だな。だからレインコートを用意した。暇だろ?」
「やだよ!」
私は暇を謳歌しているのと伝えたかったけど、そういう高尚な趣味が理解されないのはわかってたし、断ったところでホットバタードラムが作られていないことも知っていた。ラグマンはそういうところが厳しい。
仕方なく読んでいた本を床に置き、拳銃に散弾を詰める。
弾は
途中、本にしおりを挟み忘れたのに気付いて、舌打ちした。お気に入りの『キャロル』だったのに。
「誰からの依頼?」
「そこらの通りすがり。下にいるぞ」
「そのお金で鉄砲でも買えばいいのに……」
「撃てる人間を買う方が早いんだよ。ついでに時間も節約できる」
なるほどね、とため息をついた。ごもっとも。
いつの時代でも、こういった迷惑が多い。
どうでもいい人が死んだり。
どうでもいい人が殺したり。
そのくせツケはちゃっかり私に回ってくる。
幸いにも私は殺しが上手いらしく、今のところ九世紀ほど生きられている。
ついでに残った臓器を売らなくてもやりくりできる程度のお金も稼いだ。トランクの中のプリペイドカードだって、八枚ばかりカウントストップ済みだ。
ラグマンは、ジョークがわかる人間と、金持ちに優しい。
素性不明なアジア女だろうと、寝酒のオーダーと週に一回の振り込みがあれば泊めてくれる。ついでにくだらないギャグに付き合ってあげればすぐにお友達だ。
階段を降りると、依頼人とやらはカウンターに座ってた。
フード付きのマントで顔はよく見えない。背丈はちょっと低くて、日本、韓国、中国……よく分からない。
私がじっと見てると目が合った。
「あ……」と思わず声が出た。あまりにも、しぃのに似てたから。
声をかけようとしたけど、ラグマンに後ろからせっつかれた。
「ほら仕事!」
「分かってるって……」
まったく、彼はちっとも遊ばせてくれない。
したたるようだった雨は、現場に着くまでにやんだ。
水色に染まった駐車場に、運び屋のナンバはみじめに倒れていた。
出勤中だったらしくオレンジ色のツナギがそのままだった。雨で血しぶきはほとんど洗い流されていて、肩口の傷がてらてらと光っている。
ぽたぽたと、雨垂れの音が響く。
そして、カシャカシャとメッキされた金網が揺れる音も。
「こいつ?」
ラグマンに聞くと、彼はうなずいた。
おそらくそいつは人間だったのだろう。
二足歩行してる、という意味では。
裂けた指が金網を揺らし、喰いかけの肉が口からアスファルトに落ちては、べちゃべちゃと音を立てている。皮膚は雨のナノマシンでほとんど食い破られて、赤い顔面に目と歯だけが白く残ってた。頭はほとんど腐りきってて、金網が揺れるたび、片っぽだけ外れた眼球がふるふると揺れた。
知らない人だった。
だから事情は読めなかった。狂ってるのか、パニクってるのか、それとも命令なのか。
900年生きてきて、だいたいのことは経験で対応できる。
今回は、相手の目方だけ分かればいい。
武装なし、成人男性、負傷はあれど歩行に支障なし。報酬五百ドル。
「やれ」
ラグマンの号令で、私は拳銃のトリガを引いた。
散弾が命中した瞬間、五百ドルの目が風船みたいにはじけるのが見えた。タウルス・ジャッジは強力な銃だから、これで終わりだ。
しばらく化け物は倒れず、ふらふらと上体を揺らしていた。
ぶら下がった残りの目が、わずかに瞳孔を小さくして、くるりと回る。切れた眼球からガラス質が漏れて、私のぶち込んだ弾丸みたいに、きらきらと光ってしたたり落ちた。ラグマンがきびすを返す音を聞きながら、私はその目をぼんやりと見つめていた。
それがいけなかった。
ピンッ。
実際に聞いたのか、それとも幻聴なのか。
確かにそのとき音がした。タイプライターみたいに甲高い音だ。
まるで、手榴弾のピンを抜いたみたいに。
次の瞬間、体内で音がはじけた。
悲鳴があがると、ラグマンはすぐに振り返ってくれた。
彼はきっとうずくまる私を見たのだろう。こっちを向くなり機械の口がパカリと開いた。
激しい音だった。
皮膚を食い破り、肉を引き裂き、骨まで砕いてしまうほどの。
ラグマンに助け起こされるまでのあいだに、私は砲声に胸をつらぬかれ、爆音に目をえぐられた。見ても、聞いても、ただ痛みだけが身体中を走り抜けて、もう音の海におぼれながら叫ぶしかなかった。
伸ばした指が関節で切り離される。ばらばらになった爪がくるりと宙を舞い、めり込むように手の甲に刺さった。
「落ち着け!」
と、ラグマンの声が何度も聞こえた。
でも私は絶叫するしかない。だって彼の機械の手は、私の切り裂かれた胸をぎりぎりと押し開いていたのだから。
叫び声は、私だけじゃなかった。
何千もの声が不協和音になって、私の声を押しつぶそうと耳元で騒ぐ。どいつも同じように死にかけて、意識ごとまとめて溶けかけてる。
拳銃は、無事な方の手でまだ握っていた。
おもちゃみたいに大きなバレル、からりと回るシリンダー。
私のタウルス・ジャッジだ。大事な友達からもらった。
そう―――友達―――
曇った視界に、学生服の女の子が見えた気がした。
違う、彼女は確かにそこにいた。フード付きのマントをかぶって。
アスファルトの水たまりを、茶色のローファーが蹴った。
はらりとフードが払われる。
ぼんやりとした黒い髪が揺れて、薄い色の顔が微笑んだ。
しぃの――
押出機でパスタを伸ばすように手が差し出されてくる。
「イリヤだよ」しぃのの声だ。「イリヤなんだよ、ナツミ」
痛い―――
幻覚だった。そうに決まってる。
彼女はとっくに死んだはず。弾の雨にむごたらしく撃たれて。
覚えてる。
絵の具みたいな鮮やかな血が広がって。灰を、必死で埋めた。しぃのは驚いたような目で私を見つめてた。
彼女の、頭が。見開いたままの目が。
この子は、誰?
「ヴァルハラ要塞に行けば分かるよ」
だけど。けれども。
――「助けてよ!」
叫んだ瞬間、視界が傾いたことだけ覚えている。
斜め六〇度になった街並みは、いつかのラテみたいにぐちゃぐちゃだった。
ぼやけていく風景のなか、しぃのだけが、はっきりした姿のまま佇んでいた。
ピン、と何かをはじく音と一緒に、彼女と風景だけが、いつまでも飛び回っている。
――それが最後の記憶。あとは真っ暗。
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