第2話
「――ナト」
900年。気が付けばその名で呼ばれるようになった。
何年……だろう。今じゃこっちの方がすっかり本当の名前みたいになってる。
「起きろ、ナト」
少しいらついたような口ぶり。
「おいナト、いい加減にしろ」
男の声だ。しぃのと違ってガラガラで、バリトンサックスみたいによく響く。
声も中身もおおざっぱなこの人は、私をナツミとは呼んでくれない。アメリカ人の舌と喉では、ツの発音がとても難しいのだそうだ。
うっすら目を開けると、ほのかな明かりが揺れて見えた。
夕日は沈んだばかりで、まだ残光がオレンジに燃えている。
地平線に見える青っぽいのは街の灯らしい。
埃まみれのフロントガラスで拡散して、昔の夜景画みたいだった。
「なに?」
そう返事する私も、ちょっぴり夢より低い声をしてた。
「ようやくか」
「ん、ごめん」
違和感が抜けなくて、思わず首に手を当てる。
あー、と調声していると、顔に前髪がかかった。
相変わらずほつれたカーテンみたいな感触。
だけど色だけ、白い。
もっとも『現実』ってやつを実感するのが、この髪。
ぱさついた髪質はそのままに色だけ抜けちゃった。
指を曲げると、ゴムみたいな両手の皮が、喉の上でぐにぐにと動いた。これも戦争で、手術を受けたときの名残りだ。
両手をなくしたのは初めての戦争で。
今は生きてるだけで運がいいと思える。
その程度には、じっくり考えられるようになった。
「じきに着く。飯は要るか?」
「スニッカーズがあれば……いま大丈夫?」
左手を伸ばすと、サバイバルパックのチョコバーが渡された。
年単位で賞味期限が過ぎて、すっかり白く粉をふいたものだけれど、寝起きにはちょうどいい。
苦い味のする混合イオン水で流し込みながら、ひとつひとつ現状を確認する。
ここは古びた装甲トラックの助手席。場所はアリゾナの砂漠だ。
で、さっきのは夢。今は二十九世紀で、日本には高校もカフェもない。
たぶん、日本列島すら残ってない。
あの日のことは、よく覚えている。最後の休日だった。
窓の外には戦車が走って、私たちのかばんには通信の教本が入っていた。あの店も、三週間後に閉店したと聞いた。
もう、あの頃みたいにお洒落はできなくなってしまった。
服装はあるものだけで済ます。
私の服装――いつものホットパンツといつもの海老茶色のサファリジャケット。
右脚にはいつものホルスターと小さな鞘。これまた愛用してるいつものリボルバー拳銃がずっしり重たい。下着はよく見なかったけど、どうせいつもの四着でローテしてるうちのどれかだろう。以上。
「あー、あー」
まだ声はうまく出なかった。
ためしに自分のフルネームをつぶやいてみる。難しいキもツもちゃんと言えた。
この日本語の発音だけは、まぎれもなく私の物だ。
嫌な白髪も、たぶんまだ私のパーツ。
「もうすぐヴァルハラだ……また飛んだのか?」
ハンドルを握りながら、がらくた男のラグマンが言った。
彼の顔はサイバーウェアで覆われているけれど、かろうじて見える右目が心配そうだった。
「うん。たぶん。いつから?」
「さあな、鉄砲を撃ってるときにはやめろよ」
彼はトレンチコートのポケットから電子キイのカードを取り出すと、投げてよこしてきた。
「おまえさんなら、分かってると思うが」
私がカードをもたもたと受け取るのを見ながら、
「目標はあくまで調査だ。何か証拠を挙げたらすぐ帰れ」
「抵抗があると思うけど」
「殺せ」
ラグマンはハンドルに向かいながら、唾を吐くように言った。
「いいの?」
「もちろん悪い。だからズラかれ。とっ捕まる前にな」
彼の言葉に曖昧なところはない。しぃのと同じ。
私は彼のことも好きだ。
「ありがと」
しばらくラグマンが黙ってたので、軽く頭を下げる。
「まあな。ここに治療の手がかりがあるといいんだが……」
装甲トラックが止まり、ラグマンがギアをニュートラルに入れる。
前には検問があった。黄色のゲートの周りを武装した兵士たちが囲んでいる。
どうやらここが終点らしい。
運転室を出ていくラグマンを送りつつ、ゲートの奥をそっとうかがう。
街なんだろうけれど、噂に聞いていたような感じじゃなくて、やっぱり大きな遺跡のように見えた。
真ん中に大きなタワーがあって、そこをぐるりと何かの施設が取り囲んでいる、
ヴァルハラ要塞――教会じみた大きな尖塔、広がるコンクリートの街並み。
かつて国連の中枢サーバーだった場所は、三つの戦争を乗り越えて、ひとつの城塞となった。つまるところ、昔をしのぶファラオ気取りの資産家たちが、呪いで固めた街だ。
検問の兵士たちは多い。二個小隊はいるだろう。
でも幸い、どいつも有能そうには見えなかった。
「……カービン、シグ、モールリグ」
装備は二十四世紀スタイルそのまんま。きっと戦術もその時代でストップしてる。
右の方に一人、女の子の兵士がいた。
詰所のところだ。暗かったけど見えた。カカシみたいにやせてて、胸もぺったんこ。
髪は――ポニーテール。
とくん。
心臓が動くのが分かった。
「OKだ」
思わず胸を押さえたとき、開いたドアからラグマンが入ってきた。
彼の顔面はバーテンダーの親父らしい営業スマイルのまんま、声だけ傭兵コンサルタントの低音ボイス。
「なにが……」
「荷物を入れる準備だ。あんなクソでたらめの書類なのにノーチェックで通しやがる。連中、兵隊のくせに軍用品のことは何も分かっちゃいないんだろうな。俺がカシミールでパープルハートをもらっちまう前だったら訓練のとこで落としてるってもんだ」
「ねえ。あの子、かわいい」
「は?」
ぱちぱちとラグマンの左目がシャッターを切った。
彼は振り向いて、ポニーテールの子を見つけると、困った風に眉を寄せた。
「襲うなよ?」
わりと真顔な彼は、珍しい。
「うん」
だから私もシリアスにうなずいた。
その瞬間、女の子の顔が、マンガみたいな明るい顔に切り替わった。
しぃの。
でも、数秒だけ。
私がまばたきすると、元のカカシ女に戻ってた。
今度はきりきりと頭が痛みだす。こっちは外から針で刺されているような痛さがあって、ちょっと声が出た。
痛みでぴかぴか光る視界に、街の灯が乱反射していた。
ヴァルハラ。
腐ったゾンビの街。
ふたたび飛びそうになった頭に手を当てて、私はひとつ息をつく。まただよ。
どうしてこうなった。
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