第5話

「え、これ、いっちゃんが作ってくれたの!?」


 朝食のテーブルを一目見て、実咲貴は歓喜の声をあげた。


「ねぇいつ? いつ来たの!? いっちゃん」

「んー……秘密」

「パパ、ズルいー。いつからいっちゃんと友達になったの!?」


 前のめりにテーブルへとつくと、既にもうフォークを握っている。「シロップはたっぷりと」と昨夜の修吾の声がした気がした。貴史は笑いながらメープルシロップをタタタッと溢れるほどに皿へと落とした。

 シロップを注ぎ終わるか終わらないかの内に、実咲貴はフォークで柔らかいパン生地を切り崩し大きく口を開けて頬張る。 


「んっ! おいしい! パパ! パパもいっちゃんのフレンチトースト食べよ?」


 シロップを頬につけた実咲貴は興奮して大はしゃぎだ。ホットミルク片手にサラダまで平らげてしまう。

 貴史も自分用に焼いたフレンチトーストに口をつけたが、今まで食べたことのないくらい柔らかかった。スフレのような食感にあまり甘くない、どちらかと言えばしょっぱいパンにたっぷりのシロップが合っている。思わず「美味いな」と実咲貴と顔を見あわせたほどだった。二人の視線が真っ正面から合うのは本当に久しぶりだった。

 目の前の二つの皿が綺麗になった後、実咲貴は満足そうな笑顔で向かいの貴史を見上げた。


「ごちそうさまでしたっ!」


 手も口もシロップでベタベタになりながら、最高の笑顔で実咲貴は貴史に駆け寄った。どこかもじもじとした様子で、実咲貴は小さな声で囁く。


「パパ、今度は実咲貴が起きてるときにいっちゃん呼んでね?」

 

「ああ、分かったよ」と答えながら、根本的な解決には至ってない筈なのに、どこかホッとしている自分がいることに貴史は気づいた。  

 その日は、実咲貴を急遽ベビーシッターに頼むことにしていた。

 「あと、お留守番の件ですけど。とりあえず春休みのあと数日、数時間だけでもお試しでご利用されたらいかがですか?」という修吾の提案は目から鱗で、フレンチトーストの下準備をする修吾の横で、貴史はすぐさまウェブ申し込みを行った。

 深夜も利用できるというその会社「キッズリンク」はすぐに返事をくれ、今日から六日間、春休みの終わりまで、毎日午前十一時から午後二時までの三時間でシッターを派遣してくれるということになった。

 

「いいかい? キッズリンクっていうところから田所さんっていうお姉さんが来るからね。顔の写真をつけたカードを見せてくれるから、玄関を開けてあげて?」

「分かった」


 真剣な眼差しで頷く実咲貴はしかし、なぜシッターが必要なのかはよく分かっていなさそうだった。ただ、家に大人が来て遊んでくれるらしいことは理解できた様子で、貴史が冷蔵庫に「キッズリンク 田所さん」と貼り出した画用紙の文字を何度も嬉しそうに読み上げていた。

 こういうときに、人見知りのない子で良かったと貴史はつくづく思う。

 

「それじゃ、いってきます」

「いってらっしゃーい」


 貴史はいつもの通勤バッグと手提げバッグを手にとった。手提げにはフレンチトーストとサラダを入れて貰ったタッパーが二つ入っていた。洗ったそれを仕事終わりに修吾へと返そうと思っていた。


(本当に感謝してもしきれない。そうだ、お礼はどうしよう)


 そんなことを考えながらも、会社に向かう貴史の足取りは久しぶりに軽かった。

 



 仕事の昼休みにちょうど、シッターの田所さんから連絡が入っていた。

 業務の一環ということらしく、簡潔な文章に、笑ってナゲットを両手で掴んでいる実咲貴の写真が添付されていた。

『実咲貴さんはしっかりご飯も食べられて、元気に過ごされています』

 ほっと息を吐くと同時に、「今は良い、けど春休みが過ぎたら」と思うとどうしても不安は拭うことができない。


(また修吾さんに相談してみようか)


 ぼんやりとそう考えかけて、すでに相当修吾への警戒心を解いている自分を自覚し、貴史は首を緩く振った。


(ちょっと親切にされただけでこれだ。実咲貴の親としてもっと頑張らなくちゃなぁ)


 田所への簡単な返事を打って貴史は缶コーヒーを一口啜った。 

 仕事をいつも通り定時に上がり、家路を急ぐ。そして途中で、歩く速度を緩めた。修吾は六時に店を開けると言っていた。顔を出すのはちょうどオープンに合わせれば良いだろうか。

 それでも開店十分前には店に着いてしまった。

 店前の看板には「close」の札がまだかかっている。

 扉の擦りガラス越しに中を窺うと、ぼんやりとだが柔らかい明かりと人が立ち働く影が見えた。軽くノブを押すと扉はさしたる抵抗もなく開く。カランと小気味良いベルの音が鳴った。


「お邪魔、します」

「いらっしゃいませ。まだ準備中なんで、とりあえずお席に……って、貴史さん?」 

 

 対面のキッチンスペースから顔だけを覗かせて、申し訳なさそうに告げた修吾の顔が貴史を認めてパッと華やいだ。逆に貴史は昨日の醜態を思い出し僅かに顔を赤らめた。

 

(そうだ、昨夜、この人の前で泣いてしまったんだ……)


「あ、あの。昨夜は本当にありがとうございました。お料理も、あとお話も聞いていただけて。それでこれ、お返しするタッパーなんですが──」


 貴史は思わず口早に謝礼を述べる。カウンターへと空のタッパーを急いで取り出した。しかしそれを遮るようにして、修吾が嬉しげにカウンター越しに笑った。


「実咲貴ちゃん、どうでした?」


 そうだ、それもお礼を言わなくては、と貴史はパニックになる。パニックになるから一層顔が熱くなる。


「あ、はい、とても喜んで食べてくれました。「いっちゃん」……修吾さんの名前を使わせてもらったら、一瞬で。家であんなに美味しそうに食べる実咲貴を見るのは久しぶりです」

「なら良かった。貴史さんも、美味しく食べられました?」


 なんで自分の感想が? と思いつつも貴史は少し落ち着きを取り戻し、一段高いキッチンに立つ修吾を見上げた。


「──はい、それはもう美味しかったです」

「お口にあったようで良かったです。それで、明日なんですけど、これ。はい」

 

 差し出されたのはまたタッパー二つだった。


「チキンとキノコのキッシュとポテトサラダです。どうぞお召し上がりください」

「え」


 驚きはぐいっと押し付けられるタッパーのふんわりとした温もりと、修吾の笑顔に押しきられてしまった。


「お礼は……そうですね。良かったら今夜も実咲貴ちゃんが寝たあとにでもご飯を食べに来てください」


 首を傾げて笑う修吾と貴史の指先が一瞬絡んだ。その意外な冷たさに驚きつつも触れ合った指先はなぜか温まった気がした。




 一修吾はゲイだ。

 物心ついたときから三十六のこの年齢まで、男以外を好きになったことなどない。

 十代はいつも誰かに恋をしていた。そのどれもが大概は上手くいかなかったが、ほんの僅か上手くいった恋もあった。

 修吾は恋多き男で、十五で脱童貞し、同時期に処女も失った。

 その結果分かったことは、自分はいわゆるタチ側の人間だということだった。

 高校卒業を迎えたときにカミングアウトし、激怒する父、嘆く母、呆然とする妹や驚く友人達を残し家を出た。行く先は日本の首都……の隣の県だった。そこに有名な調理師専門学校があった。

 それ以来、実家がある県には近寄ってもいない。

 なぜ調理の道を選んだかと言えば、漠然とした興味があったとしか答えられない。

 ゲイの自分は生涯手に付くような職が良いだとか、子や孫に残す財産も必要がないから身一つで生きていければそれで良いとか、ぼんやりと考えていたような気はする。学校での調理実習が楽しかったことが原因かもしれなかった。

 そこそこ名のあるフレンチレストランで下積みし、次はイタリアンに転職し、ある程度資金の貯まった三十五の年齢で念願の自分の店を持てた。

 レトロで安価、大衆食堂のようなレストラン、ビストロにした。料理はフレンチを中心に、純粋な和食以外ならなんでも作った。古びた商店街の閉店した喫茶店を買い取れた。内装は極力変えずに、キッチンとトイレ回りだけを改装した。

 客はすぐに集まった。元々その喫茶店に通っていた老人達に、夕食を食べる場所を探し求めていたサラリーマン。洋食に力をいれたラインナップに、すぐさま家族連れも来てくれるようになった。周囲に競合店がないのが幸いした。

 二十代、三十代と仕事は楽しく、また故郷よりも随分と都会が近い環境で大いに遊んだ。

 店を持ってからはなかなか好きに恋愛や遊びを楽しむことも制限されたが、それはそれで楽しかった。

 修吾は過去を思い出しながら、店のカウンターに腰かけ珈琲を口に運んだ。

 最近は店の経営に忙しく、暫く恋人は作っていなかった。

 そしてそんなとき、三坂貴史と出会った。

 ぶっちゃけて言えば、好みだった。一目惚れだ。

 その存在を知ったのはたまたまだった。

 夕暮れ時に、今から「さぁ今日も仕事だ」と近道に公園を横切ったときだった。 

 目の前にぽーんとビニール袋が飛んできた。思わず拾うと、中はほくほくと暖かく紙袋に包まれた揚げ物の良い匂いがした。

 そして、目の前に現れたのだ。その男が。

 黒く短い髪を素直に下ろして、濃い灰色のスーツ姿。修吾よりは十歳程度年下だろうか。濡れたような黒目がちの瞳は意思が強そうな光を称えている。身長は平均的だが鍛えられた身体と幼さの残る顔面のギャップが良かった。生真面目で、慎重、少し頑固……な性格だろうか。

 だが、その落とされた肩や少しふらふらとした動きからは倦怠感と疲れ、哀愁が漂っていた。

 彼は女の子を連れていた。

 「あぁ、なんだ残念。既婚者か」そんなことを考えながら彼らに話しかけた。久しぶりに心が踊っていた。

 再会はすぐに訪れた。

 名刺を交換し、少し話もできた。相変わらず疲れた様子だったが、僅かながら笑みを返された。天にも昇る気持ちだった。久しぶりに、恋の予感がした。……相手が妻子持ちだとしても、想うくらいなら許されるだろう。




 三回目の再会は驚くべき事に、貴史の店への訪問だった。

 貴史が夜遅く、普段着よりも少し雑な服装で店に現れたことに、修吾は驚かざるを得なかった。

 本人は気付いていないかもしれないが、蒼白の顔な上に足取りも覚束ない。メニューをぼんやり視線で追っているだけで、内容など頭に入っていないようだった。


「すみません。財布を、財布を忘れてしまって……だから注文は」

「ああ、そうなんですね」


 修吾は貴史を怯えさせないように微笑んだ。貴史は疲れきっているように見えた。

 恐る恐るという風に料理を口に運ぶその姿を修吾は横目で眺めていた。

 泣いているのに気づいたときには、思わず触れたい衝動に駆られたが黙って黙々と注文を捌くことに専念した。貴史はただでさえ、はりつめた雰囲気だった。ここで声をかけてはいけない、好きに泣かせてやった方がいいと修吾は判断した。

 あとはもう必死だった。客を早くに帰らせて、貴史が落ち着くのを待った。

 泣き腫らした目は色っぽく、つい手を伸ばしたくなった。

 話の最中に、奥さんと死に別れたと聞き、修吾は不謹慎ながら心のなかでグッと拳を握ってしまった。もちろん、結婚していたということはストレートの男性だ。ただ、望みは薄いにしても、既婚者であるよりずっと良かった。

 フレンチトーストとサラダを持たせたのに、最初は下心などなかった。

 直向きに子供と向き合おうとする姿がいじらしくて、つい申し出たのだった。

 けれど後になって気づいた。あの実直そうな貴史のことだ。また店にやって来るだろう、空のタッパーを持って。

 誰かを好きになるなんて久しぶりだった。まだ数えるほどしか会っていないのに、恋心が湧いてくる。修吾は気持ちを圧し殺すタイプではなかった。

 次に出会うそのときには──。

 もう逃げられないよう捕まえてしまおうと、修吾は心に決めた。

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いっしょに食べよう 河野章 @konoakira

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