第36話 雀色時


「到着をお待ちしておりましたよ。梢お嬢さん」


「こんにちは。突然お邪魔して申し訳ありません。あの、すぐにお暇しますので」


「すぐにお暇出来るように祈っときますねー。あ、まりあちゃん元気ですか?」


すぐにお暇出来ない可能性については、そこはもう颯次第なので、仕事に差し支えない程度の逢瀬をお願いするしかない。


それより気になるのは、さらりと出て来たまりあの名前だ。


虎島が、梢の隣にいるまりあにちょっかいを掛け始めたのは、有栖川警備に勤め始めてしばらく経った頃からだった。


どれだけまりあが苗字で呼んで欲しいと言っても、頑として譲らない唯一の男である。


「・・・・・・今日も真面目にオフィスで仕事してますよ。虎島さん、まりあのこと本気なんですか?あの・・・私にこんなこと言う権利ないかもしれませんけど、一応私の姉代わりみたいな存在なので・・・いい加減な気持ちでちょっかい出されると、私も、まりあの兄の要も困るんですけど」


梢の側仕えとしてまりあが有栖川家にやって来てから10年以上、ずっと梢を見守ってくれている彼女は、婚期を心配する父親や有栖川に半ば本気で梢の結婚を見届けない限りは自分の結婚は考えられないと豪語している。


だから、まりあが自分の幸せに向き合えないのは、いつまでも逃げ回っている梢のせいでもあるのだが、だからこそ、適当な男に引っかかっては欲しくない。


「ご心配なく。生半可な気持ちじゃありませんから」


「・・・・・・全然信用できないんですけど・・・・・・あの、言っときますけど、まりあを泣かせたら私承知しませんからね?颯の秘書でも、それだけは譲れませんから」


「そりゃあ怖いな。ちゃんとしますよ、ちゃんと。それより梢お嬢さんはご自分のことを考えたほうがいいんじゃありませんかねぇ?そろそろうちの颯さんも待てができないみたいですから」


トントンと首筋を指さされて、すっかり消えてしまった赤い痕のことを思い出す。


慌てて手のひらで押さえれば、虎島がにたりと食えない笑みを浮かべた。


「応接にご案内しますねぇ。いやあ、来ていただいたのが今日で良かった」


「・・・スケジュールに余裕があったんですか?」


「まあ・・・そうですね、絶妙のタイミングでしたねぇ」







・・・・・・・・・・・・・・






「だから、その根回しを先にしておいて。無駄な話は端折りたいから。こっちはサインしたから決裁進めて・・・・・・っていうかなんで応接?執務室でいい・・・・・・」


廊下から聞こえて来たいつもより厳しめの声が大きくなって、応接室のドアを開けた颯が、中を覗いて一瞬真顔になった。


ゆっくり呼吸をした颯が、眦を緩めて梢を見つめた後で、背後にいる虎島を振り返る。


「なるほど、これがご褒美?」


「ええそうです。俺の優秀さを褒めて貰って構いませんよー?」


「考えとくよ。呼ぶまで来なくていいから」


「承知しました」


へらりと笑った虎島が、緊張した面持ちで二人を見つめる梢に向かってグッドラックと手を振って踵を返す。


「来てくれてありがとう。もしかして、俺のスマホに連絡・・・」


「してない・・・思い付きで・・・ちょっと、近くまできたついでに寄っただけだから」 


「へえ、こんな辺鄙なところに用事なんてあったんだ?」


颯の意地悪な笑みに、バレバレの嘘を吐いたことを今更ながら後悔した。


「わ、私にも色々あるのよ・・・っ・・・えっと・・・・・・この間は、ありがとう・・・・・・迎えに来てくれて」


一番彼に伝えたいことはたぶん他にあるのだけれど、まだ言えない。


とりあえずのお礼を口にすれば、颯が一瞬瞠目してから破顔した。


「それを言いに来てくれたの?」


やっぱり今日も前のソファではなくて、梢の隣に腰を下ろした颯が楽しそうに目を細めて頬を撫でてくる。


するすると甘やかすように頬を辿る指の感触に目を閉じて、彼の手を掴んだ。


「そ、そうよ・・・・・・あの後お茶も出せないままだったし・・・・・・お礼を・・・・・・・・・言いたくて」


「会いたかったから嬉しいよ」


「・・・・・・・・・あ、うん」


言えずにいた一言を先回りして言葉にされて、咄嗟にこくんを頷けば。


「・・・・・・梢が素直なのは喜ばしい限りだけど、ちょっと困るな」


迷うように視線を揺らした彼が、ひょいと顔を近づけて前髪の上から唇が触れた。


最近激しくなる一方のスキンシップは、梢が油断した瞬間繰り出されるから逃げられない。


一気に熱くなる頬を隠そうと両手を持ち上げたら、廊下の向こうが騒がしくなった。


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