第35話 雀色時 

颯のオフィスまで足を伸ばしてみようと思ったのは、この間の雨の日のお礼が言えていなかったから。


結局颯は、家政婦の舞子の言いつけを守って、梢を有栖川家の玄関まで送り届けたあと、家に上がることなく帰ってしまった。


本当に仕事の合間を縫って梢の顔だけ見に来たのだ。


見た、だけではなかったけれど。


道行く誰もが傘を差しているとはいえ、まさか往来で不意打ちのキスを食らうとは想像もしていなかった梢は、あの後しばらく呆然としてしまって、颯とはろくに会話も出来ず仕舞いだった。


唇の感触が馴染んでいることに驚いて、無意識にそこに指先で触れてしまった自分にもっと驚いて、いよいよ崖っぷちまで追い詰められたなと思った。


そして、なにより一番驚いたのは、それをあっさり受け入れてしまっていること。


少しずつ縮まっていた距離が、西園寺にお見合いを吹っ掛けた直後から二段飛ばしで一気に近づいて、けれどその搦め手が、いやではなかった。


いまだに、二度目の鐘は鳴らないけれど。


有栖川の刑事時代の部下が入院している病院へお見舞いに出かけた帰り道、思い立った寄り道先へ向かおうとして、はたと思いとどまった。

颯はいくつかのオフィスを持っていて、どこに出社するのかはその日のスケジュールによってバラバラなのだ。


有栖川以上に取引先への訪問も多いし、当然出張だってある。


彼から送られてくるメッセージには、時々どこか分からない景色の写真が添付されていることがあって、それは物凄い山奥だったり、リゾート地だったり、高層ビルから街を見下ろしたものだったりする。


迂闊に幸徳井家の主軸である幸徳井建設に出向いて空振りすることは避けたい。


颯本人に今日のスケジュールを尋ねるのが一番手っ取り早いことは分かっていたが、自分から訪問する=会いたいという方程式が頭から離れなくて、やっぱり本人には黙っておこうと決めた。


その代わり、颯のスケジュールをよく知る兄の永季に連絡を入れる。


スケジュール管理は瑠偉が行っているのだが、彼とはIDの交換をしていないのだ。


なぜなら、颯が死ぬほど嫌がって阻止してきたから。


永季がいるのだから、梢が瑠偉と連絡を取り合う必要はないはずだときっぱりはっきり告げられて、まあそれもそうかと思って結局彼の個人電話の番号しか登録できていない。


あの時は、瑠偉にお見合いを吹っ掛けた直後だったのであまり強くも出られなかったし、瑠偉自身も、何かあれば電話して頂ければとやんわりID交換のお断りを示された。


わざわざ多忙な瑠偉に電話をするのは憚られて、代わりに永季にメッセージを送った。


”永季兄さん、今日って颯はどこで仕事してるの?一緒にいる?”


煙草とスマホが常にセットな永季は30秒ほどで返信をくれた。


”今日は別行動。虎島がついてる。どうした?なんか用か?”


表仕事は秘書の虎島が、裏仕事の時は永季が同行する事が多いので、今日は幸徳井建設の顔役として動いているようだ。


この辺りの詳細までは、梢には知らされておらず、訊く権利もないと思っている、いまは、まだ。


”お見舞い終わって、今日は予定空いてるからちょっとだけ顔を見に行こうかと思って”


”へーあ、そう。瀬戸島建機に夕方まで詰めてるはずだから連絡しといてやるよ”


”虎島さんだけにして!颯には言わないで”


梢が訪問すると知ったら、颯が強引にスケジュールを捻じ曲げそうな気がして(そして恐らくそれは正しい)先手を打てば。


”ん。今日一人だろ?気を付けていけよ。西住吉から距離あるからタクシー拾え”


短い了承と最寄り駅の名前の後に兄らしい気遣いの言葉が届けられた。


永季は見た目はアレだし、態度もアレだし、言葉遣いもアレなのだが、愛情深いところはどこまでも有栖川の血を引いている。


多分、兄弟の中で一番優しいのは長兄の永季だ。


颯が多くの傘下の中から永季を選んで側に置いている理由も、そこにあるような気がする。


教えられた地下鉄の駅から地上に上がって、かなり海沿いまで移動したことを知る。


潮の匂いがしたからだ。


埋め立て人工島に続く工場地帯は確かに徒歩移動はなかなか厳しい。


コンビニの手前で運よく空車を見つけて目的地を告げると、10分ほど走ったところでタクシーが停まった。


瀬戸島建機は、幸徳井建設の子会社の一つで、たしか経営者は幸徳井の親族のだれかだったはずだ。


4階建ての自社ビルのエントランスを抜けたところで、気の抜けた虎島の笑顔を見つけた。


いつ会ってもこの表情で一切本心が読めないところは、颯にどこか似ている。

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