第32話 星合いの空
「人が少ない場所のほうがいいだろうと思って、デートスポットには不向きな辺鄙な海にしたけど・・・」
せめて喫茶店くらいありそうな海水浴場付近で車を停めておくべきだっただろうか。
高速を降りてから随分南に車を走らせたので、彼女の家までかなり距離がある。
梢を車に乗せる前に永季に連絡を入れてあるので遅くなっても問題ないが、まあ日付が変わるのはよろしくないだろう。
これでも一応交際していない未婚の男女なので。
「ううん。ここでいい」
アスファルトの舗装はところどころひび割れたりくぼんだりしていて、決して歩きやすいとは言えない。
漁船が行き交うのは少し手前の突堤だが、ここまで来ると砂浜にも、海岸通りにも人の姿が見えなくなった。
二人きりを満喫したいカップルには持ってこいかもしれないが、どこか寂しい雰囲気のその場所は、今の梢を長く留めておきたくはない場所だった。
「ねえ、颯はランドセル何色だった?」
「え?ランドセル?・・・・・・紺色・・・だったかな・・・あんまり覚えてないな・・・黒ではなかったはずだけど」
「私はね、赤だったの。めいちゃんっていう女の子が使ってたランドセルだった。お母さんが作った巾着袋が中にそのまま入ってて、ああ、世の中には、こういうのを持たせてもらえる子もいるんだなって思った。そして、それは私とは違う一部の子供だけだと思って、育ってきたの。でも、だんだん大きくなるにつれて、そうじゃない事がわかって来て、ああ、自分のほうが違うんだ、一般的じゃないんだって気づいて、それでも変えようがなかったし、そういうものだと思ったまま、有栖川の家に引き取られて、そこで初めて、自分はとんでもなく低い場所で生きてたんだなって思い知った。だから、それをどうにか無かったことにしようと必死になって有栖川梢をやって来たのね。上手くやれてると思ってた。時には、この間みたいに突っかかったりイヤミ言われることもあるけど、それでも今の私に恥ずかしいところなんてどこにもないし、少なくともいまの私のことは誇れるって思ってきた。だけど、ああいう、ちゃんとしたまっとうな人たちの輪を目の前にすると、弾かれちゃうの。違うって肌で感じるのよ。私が本来持ってるものはそっち側のものじゃないんだなって。いつもはちゃんと分かって上手くやれるのに、今日はなぜだかそれが出来なかった」
この子の根底はいつも空っぽだ。
だから踏ん張るたび足元がぐらついて、不安になる。
それが親を知らない子供の定めなのかもしれない。
それでも、呼吸を止めずに背筋を伸ばす梢の後ろ姿が好きだと思うし、愛おしいとも思う。
そして同時に、どうして後ろを振り返って自分を探してくれないのかとも思う。
あんなに簡単に、サインを送って来るくせに。
「それで行き止まり?・・・・・・・・・梢はちょっと世界が狭すぎるよ。大丈夫。同じ人間が存在しないように、この世界には無数の価値観があるんだから。きみが一人でふさぎ込んでる間にも、世の中は動いてるし、いくらだって違う場所に行けるよ。梢が動けないっていうなら、俺が連れて行く。そこでも弾かれるって言うなら、絶対大丈夫な場所を作ってあげるよ」
彼女の孤独を完全に拭うにはきっと残りの人生全部をかける必要がある、だからいまは手っ取り早い治療法を差し出すより他にない。
梢が興味を引かれてくれそうなものを、優しく差し出すしかない。
「・・・・・・・・・ちょっと本気そうで怖いんだけど」
瞬きした梢が、小さく笑って羽織ったジャケットの前を掻き合わせた。
「完全に本気だけど。梢の好きなものだけ詰め込んだ、安全で大きい箱庭にしよう。俺は管理人。門番は・・・・・・頼まなくても永季たちがやってくれるんじゃない?可愛い妹のためならね」
それはある意味颯と有栖川の理想の未来でもあった。
梢が二度と傷つくことの無い絶対的な居場所の構築と維持。
差し伸べた手を握り返してくれさえすれば、すぐに完成してしまう箱庭を、このまま自分だけの独りよがりで終わらせたくはない。
「俺はね、梢。誰かのランドセルを背負っていた頃の梢じゃなくて、いまのきみが好きだよ。目の前の事に夢中になって、過去なんて振り返る暇もないくらい眩い毎日をきみにあげたいと思ってる」
過去との決別は誰にとってもそれなりに痛みを伴うもので、それが複雑であればあるほど、鮮烈であればあるほど、傷口は生々しく残る。
あの日々を上書きできるなんて、そんな言葉は贈れない。
だから、明日が来るのが待ち遠しくなるような、未来を。
立ち止まった梢が、颯の手を軽く引っ張った。
「私がうじうじしてたって、兄さんには言わないで」
こんな時ですら、有栖川の家族を気にかけるのだから、本当にこの子の心を手に入れるのは骨が折れる。
それでも死んだって諦められないけれど。
「・・・・・・一生秘密にしてあげる」
封じ込めるように唇にキスを落としたら、のけぞった梢が心底驚いたように瞬きを繰り返した。
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