第33話 白白明け 

急ぎ足で帰れば間に合うだろうと思っていたのに、コンビニを出てすぐに雨が降り始めた。


すぐに元来た道を戻らなかったのは、ビニール傘を買いたくなかったから。


古いアパートの窓の柵には、もう錆びて開かないものや骨の折れたものから、新品同様のものまで、様々なビニール傘が無数にぶら下がっていた。


雨が降りそうなときは同居人たちがそれらを持って出かけて、帰宅すると玄関には置ききらないので、大抵廊下側の窓の柵にかけておくのだ。


だから、雨の日の翌日は小学校から戻ってくると、真っ先に傘が何本ぶら下がっているのかを確かめるのが癖になっていた。


いきなり布団が足りないくらい手狭になったかと思ったら、三日連続全員出払ったりと、とにかく住居人数の安定しない部屋だったので、ビニール傘は一種の在宅人数バロメーターになっていたのだ。


今日は誰かがいると思うと、それだけで嬉しかった。


たとえその相手が片言の日本語しか喋れなくても、時には全く口がきけなくても、ずっと眠ってばかりいても、一人じゃないという事実はそれだけで梢の心を満たしてくれたのだ。


当然あの部屋には子供用の長靴も傘も無くて、履き潰された大きめのスニーカーは底がすり減っていて、雨の日はつま先が凍えるように冷たくなった。


これならあんたも持てるんじゃない?と安っぽい薔薇の匂いのする小さめのピンクのビニール傘を誰かがくれて、けれどそれは最初の夏の台風ですぐに駄目になった。


どれだけ大事に大事に扱っていても、強い風が吹けば一気に折れてしまう。


泣いた梢に誰かが、ビニール傘なんだから使い捨てだよとゲラゲラ笑った。


うちらと一緒だ、と別の誰かが言って、みんなが笑った。


あの場所で笑えずに置き去りになったのは、梢一人だけだった。


ここから有栖川家までは走れば5分程度の距離だし、コンビニで買ったチョコレートは濡れたってかまわない。


飛び込んだクリーニング店の軒先から、暫く止みそうにない重たい空を見上げて、よし、帰ろう、と決めた矢先、通りの向こうからやって来る人影に気づいた。


大きな黒い傘を差した颯が、梢を見つけてホッとしたように目を細めた。


「会えて良かったよ。行き違いになったらどうしようかと思った。スマホ、置いて行っただろ?」


「うちじゃないけど、いらっしゃい。いつ来たの?」


「10分前。玄関に到着したらすぐに、舞子さんに傘を渡されてそのまま飛び出して来た」


あの人結構人使い荒いな、と颯が楽しそうに笑う。


あの結婚式以降、颯は三日と開けずに有栖川家を訪ねてくる。


あの日も日付が変わる10分前に有栖川家の玄関に梢を送り届けた彼は、永季と少しだけ話をしてすぐに帰ってしまったけれど、あの夜、永季は珍しく梢が部屋に戻るまでずっとリビングで仕事をしていた。


恐らく、颯から何か言われて、側に居てくれたんだろう。


颯は、誰かに対する優しさをいつだって間違えないのだ。


そしてその優しさに縋って、甘やかされてしまった自覚もある。


本当は聞かせるつもりの無かった愚痴を零してしまったのは、完全に気持ちが緩んでいたからで、そうさせたのは間違いなく颯だ。


あの時彼は、梢に一度も可哀想だねと同情しなかった。


それが一番のタブーだと、分かっていたのだ。


クリーニングの軒先に入って来た颯が、雨粒が大きくなっていく暗いアスファルトを見下ろして思案顔になった。


「結構本降りだな。もう一本傘持ってきたら良かった・・・・・・梢、ちょっとここで待っててくれる?コンビニで傘買ってくるよ」


「いらない!」


想像以上に大きな声が出た。


雨の音にも負けない梢の声に、隣の颯が驚いたように瞠目する。


「・・・・・・あ、の、いいの・・・・・・・・・一緒に入って帰る・・・・・・・・・から」


ビニール傘は期待。


ビニール傘は、折れたらおしまいの使い捨て。


ビニール傘は、顧みて貰えなかった誰かの記憶。


颯からそれを受け取ってしまったら、どれだけ錆びても折れても、棄てられなくなる。


手放せなくなる。


遠くに追いやったはずの冷たくて温かい記憶が甦ってくる。


梢の言葉に、颯が分かったよと頷いて肩を抱き寄せて来た。


「そう?じゃあ・・・・・・・・・おいで」


ビニール傘は必要ないと言ったのだから、こうなるのは必然だ。


傘は一つ、人間は二人。


譲り合って歩みを揃えて帰るしかない。


梢が濡れないよう傘を傾けて指しながら、颯が嬉しそうに笑み崩れた。


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