第30話 暁天
この輪の中にはどう足掻いたって入れないし、入る必要もない。
梢の家は、有栖川で、ここではない。
それでも、有栖川に戻ったところで、梢には、ウェルカムボードに飾れるような写真は、中学生以降のものしか出て来ない。
本当の誕生日も、親の顔すらも分からないのだから。
小学校の入学式は、ランドセルも礼服も無いから行かなくていいのよーと誰かが言って欠席した。
梢の手元に、お店のお客の子供のおさがりだという古びた赤いランドセルが届けられたのは入学式の数日後で、その翌日が梢の初登校日となった。
本当は入学式の後教室で教科書や教材を受け取って帰る手はずになっていたのに、一人だけ欠席した梢のためにわざわざアパートまでそれらを届けに来た若い女性教師は、部屋から出て来た寝起き同然の複数人の女性と、梢を見てあからさまに顔を顰めた。
個人面談の日程調整のプリントをいつまでも提出して来ない梢に対して、女性教師が何かをいうことは無くて、夏休みの直前に自宅にやって来た彼女は、その時家に居た誰かと二言三言言葉を交わしてすぐに帰って行った。
そういえば、あの時春の遠足の写真を貰ったような気がするけれど、誰かに見せた記憶もないし、どこかにしまった記憶もない。
入れ替わり立ち代わり色んな人がやって来るアパートは、すぐに誰のものか分からない荷物が増えていつだってごちゃごちゃしていた。
数か月に一度、誰かがダニに噛まれたと騒いで大掃除する度に、各自のスペースに撤去されていないアイテムは一斉にごみとして処分されていたので、恐らくその中にあの時の写真も入っていたんだろう。
それくらい、梢にとっては写真も思い出も希薄なものだった。
内村の娘が誇らしげにピンクのランドセルを背負って胸を張っている写真は、どこかピントがずれていて、写真に不慣れな母親が四苦八苦して撮影したことが伺える。
持ち手の革が古くなって変色したくすんだ赤いランドセルは、所々シールを剥がした痕や、細かな傷がいくつもあった。
内側にはお弁当かお茶で出来たシミがあって、ポケットの中には取り出し忘れたのだろう、手作りの巾着袋が入っていた。
アップリケと刺繍が可愛くて、それを給食袋として持って行ったら、”めい”という梢ではない女の子の名前が縫い付けられていて、酷くショックだったことを覚えている。
ランドセルと一緒に内村の娘が手に持っている体操着入れは明らかに手作りで、どれだけ苦労しても娘の幸せを手放すことだけはしなかった彼女の意地と努力が見てとれた。
梢には逆立ちしたって手に入れられなかった代物だ。
「あのう・・・お嬢さんはどちらの・・・?」
サロンの入り口でぼんやりと佇んでいる梢に気づいた年かさの着物姿の女性が首を傾げている。
「新婦の学生時代の友人です」
ここでは有栖川の名前を名乗らない事を決めていた。
本日はおめでとうございます。と何度目かのお祝いを口にして頭を下げる。
奥でお茶でもどうぞ、と微笑まれて、先にお手洗いに、と断って廊下に戻る。
誰かが今日まで全力で愛されて大切にされてきた片鱗を目の当たりにする度に、いつも足元がぐらつく。
それはきっとこの先一生変わらない。
父親や兄たちも、内村の娘の晴れ姿を楽しみにしていたので、しっかりいい写真を持って帰らなくてはならない。
こんなところで、グラついている場合ではない。
自分の顔色があまり良くないことは何となくわかっていた。
チークをはたき直そうと、化粧室を探して歩いていると、角を曲がって来た誰かと肩がぶつかった。
「あ、すみません」
梢は足元ばかり見ていたし、相手はスマホを操作しながら歩いていたようだ。
「いえ、こちらこそ・・・・・・あれ、梢」
どうしてこういう最悪のタイミングでいつも出会ってしまうんだろう。
颯は、梢が自信を失くしそうな瞬間に計ったかのように毎回現れるのだ。
「結婚式?」
梢の格好と彼女が歩いてきた方向にはチャペルがあるので、颯はそう推理したらしい。
「うちの会社の従業員のお嬢さんがね。そっちは仕事みたいね」
「奥の割烹で会食だったんだけど、ちょっと急ぎの連絡入ってね。前を見てなかった、ごめん、ケガしてない?」
「うん。平気」
「その割には憂い顔だね?」
ひょいとこちらを覗き込んだ颯が、ちゃんと口角を持ち上げたはずの梢の表情を食い入るように見つめてくる。
「知らない人ばかりだから、気疲れしちゃって。忙しいんでしょう?もう行って」
忙しい相手を引き留めるわけにはいかないと、手を振れば、その指先を颯が捕まえに来た。
軽く握りこまれて、強張った指先の温度に気づかれてしまう。
たぶんあの日からずっと、彼には見られたくないところばかり見られている。
自分の体温を分け与えるように握りしめてから、颯が静かに言った。
「会食のあとは暇なんだ。挙式が終わる頃には身体が空くから、待ってるよ」
「・・・・・・・・・」
いつもみたいにいらない、と言えたらよかったのに、どうしてだかその一言がどうしても出てこなかった。
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