第29話 暁天
ノックの後の了承を待って、そっと控え室のドアを開けば、まさにこれから人生最良の日を迎える幸せそうな母娘の姿が目に飛び込んできた。
姿見の前の椅子で緊張した面持ちで座っているウェディングドレス姿の娘の手を握っていた留袖姿の母親がこちらを振り返って慌てた様子で立ち上がる。
「本日はおめでとうございます」
「梢さん!わざわざ来ていただいてありがとうございます!ほら、お母さんの仕事場の・・・」
見知らぬ訪問者にキョトンとなった花嫁に、上司の娘だと母親が説明する。
「あ、いつも母がお世話になっております」
「こちらこそ。内村さんはうちの会社に無くてはならない人なので、本当に頼りにさせて貰っています。ドレスとってもお似合いですね。内村さんも鼻が高いでしょう?」
「ドレス選びでさんざん迷って何度もサロンに足を運んだんですよ。社長が色々気遣ってくださったおかげで、無事にこの日を迎えることが出来ました」
「父からも、くれぐれもよろしくと言付かってきました。写真もたっぷり撮って見せておきますね。あと、これを」
有栖川警備に長く勤めてくれている清掃員から、女手一つで育てた娘が結婚する事になったと報告を受けた時、有栖川はまるで自分のことのように大喜びした。
内村もまた、その他大勢の従業員同様に有栖川に拾われた一人で、梢が有栖川の家に入ってすぐに清掃員として雇われた女性だった。
有栖川はすぐにもう一人の娘の結婚準備だとあれこれ手を回して、けれど一度も表立って動くことはしなかった。
良くも悪くも名の知れた有栖川の名前が出る事で、内村親子の縁談に支障が出る事を危惧したのだ。
その代わりにと、名代として梢にはち切れんばかりの祝儀袋を持たせて挙式に列席させた。
ふくさから取り出したパンパンの祝儀袋を見て、内村親子が唖然となった。
祝い事には大盤振る舞いが常の有栖川家だが、さすがにこれは梢もちょっとどうかと思う。
が、父親から預かったものをのこのこそのまま持って帰るわけには絶対に行かない。
有栖川のほうも、自分からだと絶対に受けと取らないだろうと踏んで、梢に行かせているのだろうから。
「こ、梢さん、頂けません!ほんとうに!新居の準備だって随分お世話になっているのに」
「受け取っていただかないと、私が家に帰れなくなってしまうので。父は、内村さんのこれまでの働きぶりに対する臨時ボーナスだと言っていました」
「そんな・・・勤めさせていただいてるだけでも有難いのに」
「私も拾われっ子ですから、敢えて言わせて頂くなら、貰えるものは貰っとけ、ですよ。これから新生活で何かと入り用でしょうし、ね?」
迷うように顔を見合わせる内村親子に、要りませんとは言わせませんと、半ば強引に祝儀袋を押し付けて、挙式楽しみにしてますと挨拶をして控え室を出る。
内村の娘が就職した地元企業で出会ったという新郎については、報告を受けた時点で有栖川が調査を入れており、人柄家柄ともに問題なしという報告が出ているらしい。
内村親子の複雑な境遇についてもよく理解してくれた新郎家族との出会いは、本当に奇跡のようだったと嬉しそうに語る母親の表情は、きびきびとフロアを綺麗にしていく清掃員とはまた違った柔らかなもので、ほんの少しだけ、名前も覚えていない彼女たちを思い出した。
母親でも、姉でも、友達でもなく、あの場所、あの時間を共に過ごした共有者である同居人たち。
両家の親族数人が集まるこじんまりとサロンの入り口には、新郎新婦の幼少期からの写真がウェルカムボードに飾られていた。
”写真”
有栖川梢になるまで、一番梢に縁の無かったアイテムの一つだ。
写真は思い出だから、思い出を作る場所ではなかったあのアパートでは、必要なかった。
生まれて間もない赤ん坊の頃の写真や、つかまり立ちを覚えた頃、幼稚園のスモック姿、ランドセルを背負った横顔や、卒業証書を手にした笑顔。
彼女たちがこの世に生を受けてから、今日まで過ごして来た二十数年の歴史の一部が切り取られて大切に飾られている。
久しぶりに会うらしい親戚同士のたわいのないやり取りや、縁遠くなってしまった誰かの近況、何年か前の法要や、昔話。
ここに居る梢は、完全な赤の他人なのだから、そのどれもが分からないのが当然で、自然なことだ。
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