第24話 寒天
食事に誘われたのだから、TPOを考えてそれなりの格好になっただけ、と自分に言い訳をしつつ明るめのグロスを塗る表情はやっぱり明るくなった。
お洒落をする理由が増えれば、新しい服が欲しくなるし、足元だって華やかにしたくなる。
リップの色もチークの色も温かみを増していくのは、心が浮き立つせいだ。
これを何というかは、これまで読んできた少女漫画と、元同居人たちのおかげで知っている。
そう、恋煩いだ。
持っておけと言われたので風呂敷包みを机の上に置くことも出来ずに、うっかり落としても困るので書類を整える作業は中断するよりほかにない。
手持ち無沙汰になって、広い執務室をぐるりと見回して、壁際の本棚を物色し始めたら、すうっと足元に風が吹いた。
ドアは閉まったままだし当然この部屋には一人きり。
気のせいかと再び本棚に向き直った途端、名前を呼ばれた。
「梢」
「っきゃあ!」
真後ろからの呼びかけに悲鳴を上げると同時に、手に持っていた風呂敷包みが身体から離れた。
聞こえて来た声はよく知るこの部屋の主のものだと思い出して、振り返ったその直後、一気に世界が暗闇に包まれた。
「は、颯!?」
停電とは違う、黒く塗りつぶされた重たい空気に慌てて彼の名前を呼ぶ。
「大丈夫。ここにいる」
すぐ目の前から声がして、梢を腕の中に抱き寄せた彼が返事をくれた。
一人きりではなかったことにホッとして、これはどういうことだと目を凝らすも何も見えない。
「これなに、どういうこと!?」
「わからない。多分、何かが発動して閉じ込められた感じだろうな。ごめんね。大裳に頼んで気配を消して貰ったんだ。軽く驚かせるだけのつもりだったんだけど」
まさかこんな大ごとになるなんて、と颯が困ったように呟く。
その言葉で、さっき自分が手元から離してしまった風呂敷包みを思い出した。
「あ・・・!ま、巻物!」
「うん?巻物?」
「ごめんなさい!私のせいだ。兄さんから、曰くつきの巻物を渡されてちゃんと持ってろって言われたんだけど、驚いて落としちゃったの」
「ああ・・・それでか・・・なら大丈夫。永季が気づいてどうにかしてくれるよ」
平気平気と笑った颯が、背中に回していた腕をそっと解いた。
暗闇に放り出されたような恐怖を覚えて、慌てて彼がいるであろう場所に向かって手を伸ばす。
「なに?怖いの?」
「怖いに決まってるでしょ!」
「俺はちょっとだけ見えてるから大丈夫」
「私は大丈夫じゃないから離れないでよ!」
こんな場所に放り出されてしまったらたまったもんじゃない。
半泣きになって訴えれば、ばさりとかぶさってきた何かが背中を包み込んだ。
「離さないから心配しないでいいよ。身体冷やさないようにね」
彼が自分の着ていたスーツを脱いで、梢を包み込んでくれたらしい。
「・・・・・・颯は・・・寒くないの?」
「こういう冷たさには慣れてるから。心配ならしっかり抱き着いて俺のこと温めて」
背中を撫でる手のひらをそのままに、髪に頬を寄せた颯が怖くないよと囁く。
見えないのに感じる温もりは確かに颯のもので、聞こえてくる鼓動が自分とは異なるリズムでその存在を伝えてくる。
いつもはあれほど恥ずかしいのに、真っ暗闇の効果のおかげか、はたまた恐怖心が勝ったせいか、彼の背中に腕を回すことに躊躇わなかった。
「可愛い・・・・・・いつもこうならいいのに」
茶化すように呟いた颯がつむじにキスを落とす。
そのまま唇が器用に額に触れて、頬を掠めた。
迷いのない唇は、梢のことをどこまでも知り尽くしている。
「頬が熱い・・・・・・風邪を引く心配はなさそうだね」
「・・・っ・・・・・・お食事の時間・・・間に合う・・・?」
「んー・・・どうだろう。あっちに戻ってみないと分からないけど、間に合いそうになかったら代替え案を考えるよ。こういう禍付きは、大抵時間を歪ませるから多分大して時間は経ってないと思うんだけど・・・・・・今日は中華にしたから間に合うと嬉しいんだけど」
飲茶、食べたがってただろ?と耳元で尋ねられて、お腹が空いているのかどうかもよくわからなくなってくる。
抱きしめられた腕の中がただただ心地よくて、ほかのことは何も頭に入ってこない。
明らかに非日常に紛れ込んでしまったのに、妙な安堵感を覚えてしまうのは間違いなく颯が一緒にいてくれるせいだ。
胸の鼓動が高まることを、言いたいのに言えない。
「・・・梢?」
「・・・・・・ん」
返事を返すのも億劫になって小さく答えれば、静かに颯が息を吐いた。
後ろ頭を撫でる手のひらが甘やかすそれに代わった。
眠気に侵され始めた梢の様子に気づいた彼が支えるようにしてその場に腰を下ろした。
肩からずれたスーツをそっとかぶせなおして、颯が告げる。
「いいよ。寝ちゃっても」
「・・・・・・・・・うん・・・・・・・・・居なくならない・・・?」
起きてまた独りぼっちだったらと、急に襲ってきた不安をかき消すように、優しい唇が瞼の上に落ちた。
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