第22話 雪空

この世界から人間一人を消すことがそう難しくないことを、悲しいかな梢はもう知っている。


産みの親を知らずに生きて来た梢にとっては、ついこの間までそれは日常の一部だった。


最近顔を見なくなった誰かのことを同居人たちに尋ねたら、さあ?死んだんじゃない?と返ってくるのは珍しいことではなかった。


「颯さんは難しい人ですが・・・・・・あなたのことは心底大切に思っていますよ。結果がすべての世界でここまで生き抜いてきた彼が、梢お嬢さんを取り込まずに課程を楽しんでいるのがその証拠です。あなたが望めばいくらだってあの人は優しくも愚かにもなる」


「・・・・・・怖い事言わないでください」


「そういう相手に惚れた自覚、おありでしょう?」


「・・・・・・・・・」


「すみません。失言でしたね、忘れてください」


目を伏せて今度こそはっきりと瑠偉が笑った。


梢に見せるために意図的に見せた笑顔だった。


この気持ちを受け入れて、颯を追いかけたその先にあるもの。


目隠しされたままの幸徳井と有栖川のこと。


そんなの知らないと開き直れるほど、梢はもう子供ではない。


手を伸ばすには、それ相応の覚悟が必要になってくる。


颯と二人きりの時には一切感じなかった現実が目の前に一気に迫って来て、手のひらが汗をかいた。


黙り込んだ梢が言葉を探している間に、短いノックの後、再び執務室のドアが開いた。


「あれ・・・・・・梢、来てたの・・・?」


ソファで向かい合う瑠偉と梢を一瞥した颯の顔から表情が消えた。


「お、お父さんたちと夕飯食べに行くの」


咄嗟に来訪理由を口にしてしまったのは身の危険を感じたからだ。


そして恐らくそれは正しい。


「・・・・・・へえ、そう」


いつになく低い声で颯が相槌を打った。


鼓膜を打つ響きに熱が無いことが急に不安になる。


「梢お嬢さん、僕はこれで」


同じく身の危険を察知した瑠偉がソファから立ち上がった。


「あ、はい!」


「瑠偉、慌てて戻ることないんじゃない?永季に用事があったんでしょう?それともきみの目的は梢だったのかな?俺に断りもなく?」


「颯さん、八つ当たりはよしてください。永季を探しに来たら、偶然梢お嬢さんにお会いしたんですよ。ねえ?」


ため息交じりに梢に同意を求めた瑠偉に、こくこく頷いてその通りですよと賛同を示す。


けれど颯の纏う空気は冷たいままだ。


この状態の颯と二人きりになるのは極力避けたいのだが、瑠偉は居残るつもりはないようだった。


「嫉妬ばかりしていたら、梢お嬢さんに愛想を尽かされますよ。それでは」


きっぱり言い返して執務室を出て言った瑠偉がドアを閉めると同時に、颯の視線が飛んでくる。


「来るなら教えてくれればいいのに」


「だ、だから今日は永季兄さんに会いに」


「ここは俺の会社だよ?ちょっと顔を見に行こうって気にはなれない?」


「颯忙しいでしょう?」


表仕事と裏仕事を両立している彼の一日は間違いなく24時間では足りないはずだ。


その合間を縫って梢の様子を見に来るのだから、颯の体力は無尽蔵に違いない。


「何のためにスマホがあるんだろうね?」


「いや、だから・・・忙しいでしょう・・・?」


「俺はそんなに余裕のない男に見えるのかなぁ・・・」


「そういう話してないわよね?」


「梢が来てくれるなら、仕事くらいどうとでもするのに」


「瑠偉さんに振るんでしょ・・・」


何となく予想を立てたら、珍しく颯が黙り込んだ。


見事に図星を突いたらしい。


「梢は瑠偉が好きだねぇ・・・・・・お見合い挑んだくらいだもんね・・・・・・俺が動かなかったら、きみは瑠偉を選んでたのかな?」


「・・・瑠偉さんは私を選ばないわよ」


そのつもりが無いからずっとこの距離のままなのだ。


「まあ、そりゃ、上司の想い人に横恋慕する度胸はさすがに無いだろうしね」


相変わらず不機嫌そうな表情のまま、近づいてきた颯の手が頬を撫でる。


指先がちゃんと温かいことにホッとしたのも束の間、結び髪を指で弾いて彼が囁いた。


「あーあ・・・・・・綺麗に消えてなくなってる」


キスマークのことだ。


あの日から二週間以上経っているのだから当然である。


毎晩バスルームの鏡でチェックしては狼狽えたり悶えたりしていたことを思い出してまた頬が熱くなった。


ここに彼の唇が触れたのだと思うと、どうしてよいか分からなくなって、薄れていく赤い痕に寂しさを覚えたなんて、口が裂けても言えない。


許可なく肌に吸い付かれたことへの反論を口にするのが恐らく正しいのだろうが、残念ながら颯を拒む言葉はひとつも出てこなかった。


目を逸らすことで精一杯の梢を抱きしめて、颯がやっと柔らかく笑った。


「駄目だよ、ここはホッとするところなのに。そんな顔されたらまた吸い付きたくなる」


「・・・っ!」


「してほしいの?」


吐息だけで尋ねられて、親指が誘いかけるように首筋を撫でた。


彼に与えられた痛みと熱を思い出して頭の芯がぼうっとしてくる。


「こーず・・・」


甘ったるい声で名前を呼ばれて、もう駄目だと頷きかけた途端、勢いよくドアが開いた。


「待たせたなーこず・・・・・・っと、悪ぃ、出直すわ」


「出直して」


「出直さないで!」


二つの声が綺麗に重なった。

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