第20話 冬空
助かったよ、と掛けられた労いの言葉は本心だろうが、そこに含みを感じてしまうのは彼が梢の二歩も三歩も先を読むことを知っているから。
自分はとんでもない相手に喧嘩を吹っ掛けたのかもしれない。
敵う気はしない。
けれど、走り出してしまった以上止まれない。
「・・・・・・ずるい」
こうなってしまったら梢が身動きが取れない事は明白なのだから、決定打を突き付けてくれればいいのに。
彼がもうちょっと強引な手に出たら、あっさり陥落してしまう自信があった。
それなのに、ぎりぎりの崖っぷちまで追いつめて、颯はあっさり引いてしまう。
だから胸が疼いて眠れなくなる。
「うん・・・・・・そうだね」
精一杯詰ったのに、返って来た声が砂糖まみれで、毒気を抜かれてしまった。
背中を撫でる手がただただ優しくて、そこにもどかしさを覚えてしまう。
何も知らない身体だけが熟れていく感覚。
はしたない自分を知られたくなくて、彼の顔を見つめ返すことが出来ない。
「もう痕消えちゃった・・・?」
下ろし髪を梳いた手のひらが、かき上げる動きに変わる。
首筋がひんやりして、慌てて颯の手を振り払おうとした。
「あ、やだ」
「だめ。見せて」
反対の手で梢の手を捕まえた颯が、首筋に顔を近づける。
わざととしか思えない至近距離で、彼がふうっと息を吐いた。
「・・・・・・っん」
ぞくりと走った愉悦に我慢しきれず声がこぼれる。
「・・・・・・ほんとに敏感だな・・・・・・ちょっと心配になるよ」
小さく呟いた颯が、唇を寄せたあたりを検分するようにじっくり眺めて目を細める。
「ああ、まだ薄っすら残ってる。そんなに強く吸い付いて無いのに・・・」
「・・・嘘。痛かった」
「痛かったの?それはごめんね・・・・・・」
困ったように笑った彼が、ごめんごめんと呟いて、わずかに赤みが残るその場所に唇を降れさせた。
軽く触れてなぞるだけの仕草に、たまらず身体を傾ければ。
「駄目だよ。逃げないで」
それ以上身体を倒せないように颯が腕を回して抱き寄せてきた。
腕の中に納まった梢を確かめて、少しだけ力を緩めた彼が幸せそうに囁く。
「痛みもそのうち気持ちいいだけになるよ」
「・・・・・・」
すでに彼に触れられた箇所は熱を宿している。
梢の心が追い付いたら、その先はきっと。
けれど、いまの梢には黙り込んで視線をさまよわせるしかない。
戸惑いを全面に滲ませる梢を見つめる颯の眼差しは、甘ったるくて優しいだけ。
「あ、もう梢も分かってるんだ。えらいね」
こちらの状況が筒抜けなのは、経験値の差だろうか。
それとも、彼が梢のことをどこまでも知りたいと願っているからなのか。
梢が向ける表情を受け止めて、微笑むことが出来るのは、その先のすべてを知っているから。
「そのときはいっぱい強請ってね・・・・・・楽しみにしてる」
彼がその瞳に獰猛な光を湛えて貪りたいと迫った相手は誰なんだろう。
一度も伸ばしたことの無い手を掴んだ彼は、きっと優しく甘く梢のすべてを食らい尽くす。
梢の全部を塗り替えるつもりの颯のすべては、もうとっくに塗り替えられているのだ。
二人の年齢差や立場の違いを考えればそれはもう当然のことで、最初に出会ったときから彼はすでに立派な大人だった。
梢が背伸びしたって届かない相手だった。
だから、過去があるのは当たり前、なのに。
際限なく早鐘を打ち続ける鼓動を持て余しているのはいつだって梢のほうで、颯はその反応を確かめて駆け引きを仕掛ける余裕すらある。
弾かれて、弾き返して、逃げ出した梢を追いかける体を取ってはいても、結局最終的に追いかけるのはいつだって梢のほうだ。
噛みついた梢を宥めて甘やかして捕らえて離さないのはいつだって颯のほうだ。
惚れたほうが負けというのはよく言ったもので、最初に彼を視界に収めてときめいた瞬間から、勝敗はもう決まっている。
あとは負けを認めてしまうだけ。
「・・・・・・やだ」
悔しまぎれの反論に、こめかみに唇を押し当てた颯が柔らかく尋ねてきた。
「どうして?」
「・・・・・・なんでいっつも・・・・・・私ばっかり」
揺さぶられてグラグラしてそれでも頷けないから逃げ出してまた捕まって。
あと何回これを繰り返したら納得できるんだろう。
彼なら絶対大丈夫だと確信が持てるんだろう。
傷つく前提の恋なんて絶対にしたくないのに。
完全無欠のハッピーエンドしか、欲しくないのに。
詰るような独り言を受け止めた颯が、とんとんと背中を叩いてきた。
むずがる子供を慰めるような手つきは穏やかなだけ。
天井を仰いだ颯が、途方に暮れた声でぼやいた。
「あのねぇ・・・梢。よく見てごらん?俺のほうがずっときみのことを追いかけてるよ」
それは私のセリフよ、とは、やっぱりどうしても、言えなかった。
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