第19話 冬空
「あ、髪まだ下ろしてるんだ?」
執務室に通されて待つこと10分。
会議を終えて戻って来た颯がドアを開けるなり嬉しそうに破顔した。
もうこの顔が自分専用だということを覚えてしまった頭が憎い。
悔しさと恥ずかしさでなんと言い返してやろうかと考えているうちに、近づいてきた颯がソファ越しに後ろから抱きしめてきた。
つむじにキスが落ちて、おまけのように聞こえて来たいらっしゃい、の言葉に順番が逆だと心の中で突っ込む。
「誰のせいだと思ってるのよ」
「他の男のせいだったら困るよ」
上機嫌で隣に回り込んできた颯を睨みつけたのは、この前と同じ轍を踏まないためだ。
永季からの依頼で忘れ物の書類を届けに来たところまでは予定通りだったが、受付で名前を告げた途端、持ってきた書類は奪われてこちらへどうぞとエレベーターに乗せられてしまった。
書類を届けに来ただけなのでこのまま失礼します!と駄目もとで訴えてみるも、受付嬢の笑顔はそのままで結局執務室まで送り届けられる羽目になったのだ。
颯の抜け目のなさは理解していたはずなのに、永季からの呼び出しということで油断してしまった。
ソファに腰を下ろして三秒後には、永季から短文のメッセージが届いた。
”書類受け取った。ごゆっくり”
一枚噛んでいる事をあっさり暴露してきた兄の顔を頭の中でタコ殴りにして少しは溜飲が下がったのだが。
「そっちに座って」
二人掛けのソファの隣を当たり前のように陣取ろうとした彼に、斜め前の一人掛けのソファを指さす。
この短期間で一気に距離を詰められてしまったのは接近戦を許したせいだ。
颯の顔と色気を甘く見てはいけない。
父親である有栖川と颯の間で、梢に対する協定が結ばれていることは確かだが、それはあくまで梢の心が伴った場合、である。
『幸徳井が、お前さんを嫁に欲しいんだと』
『いやです』
『まあそう言うな梢。あいつもしょげて凹んで反省してる』
『知りません。最初に振られたのは私のほうなんだから』
『だからそれをやり直すために俺のところに頭を下げに来たんだろ?あちこちから縁談を押し付けられてきたあいつの気持ちもわからんでもない』
『お父さんはどっちの味方なのよ!?』
『そりゃあ可愛いお前の味方だよ。そんなもん最初からずっとそうだ。だからな、お前の気持ちを放り出して勝手なことはせんよ。ただ、幸徳井を碌に知ろうともせず蹴飛ばすのは無しだ。
相手を見て、見極めて蹴飛ばすなら俺は何にも言わん。向こうも死ぬ気で追いかけてくるだろうから、お前も好きなだけ逃げりゃいい。んで、根負けしたら話位は聞いてやれ』
こうして颯は保護者公認で梢を追いかけ始めて、梢は保護者公認で積極的に他の相手を探し始めた。
有栖川が、颯に何をどこまで許しているのか詳細には分からないが、梢が僅かでも傷つく可能性のあることを彼が許すはずはない。
だから、いつだって拒む権利は、蹴りつける権利は、梢にあるのだ。
「狭くない?」
「どこが狭いのよ。十分立派な一人掛けソファでしょ!」
彼の自宅のソファがどれくらいの大きさなのかは知らないが、これでも十分すぎる大きさである。
いいから座ってと視線で示せば、わかったよと頷いた颯が、少しだけ屈んで身を寄せてきた。
慌てて身を固くした次の瞬間、ソファの座面から身体が離れた。
「な、なんで!?」
抱き上げられたと気づいた時には颯が悠々と目の前の指示された一人掛けソファに移動していて、あっという間に彼と一緒にそこに収まる羽目になる。
狭い、というのは二人で座ることを指しているだなんて想定外だ。
よいしょと膝の上に梢を抱き下ろした颯が、困惑しきった梢の後ろ頭をあやすように撫でた。
「シーっ。静かに。大声出したら誰か来るかも」
「っ!」
脅迫めいた一言にひゅっと息を飲めば。
「見られていいなら、叫べばいいけど?」
試すように背骨のラインを指で辿られて、首を横に振って否定した。
大人しくなった梢を抱きしめ直して、颯が膝の上の手を握ってくる。
「いい子だね」
嬉しそうな囁きと、うつむいたこちらの両の目を覗き込んでくる甘ったるい眼差しに酔いそうになる。
「書類、受付に渡してくれた?」
「もう永季兄さんの手元に届いてる」
「そう。ありがとう。お使いご苦労様」
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