第18話 菊日和
今日まで有栖川梢として生きて来たのはすべてこの日のためだったのだ。
永季が、パーティーデビューの妹のために用意してくれたドレスはシンデレラを思わせるスカイブルー。
髪に編み込んでもらったオーガンジーの白のリボンと繊細なレースがまるで今の梢の心のようにふわふわと揺れ動く。
9センチヒールのつま先の痛みも一瞬で消えてしまった。
鳴り響く鐘の音色はまるで二人の未来を祝福してくれているようだ。
上品な光沢のあるインクブルーのスーツとアッシュブラウンのネクタイがまるで王子様の盛装のように見えた。
初めて会う幸徳井颯は、これまで梢が読み漁って来た少女漫画や御伽噺の世界から抜け出して来たような容姿をしていたのだ。
武骨さの真逆を行く繊細な面に、柔らかい目元。
長身の永季と並んでも遜色しないくらい背が高いのに威圧的でないのは彼の表情が穏やかなせいだ。
恐らくその場に年頃の娘がいたら全員がうっとりと目を細めただろう。
それくらい、幸徳井颯は見目麗しい男性だったのだ。
永季が梢を紹介するより先に彼の前に駆け寄った。
だって運命だと思ったらすぐに手を伸ばして捕まえなくちゃ。
チャンスの神様は前髪しかないというじゃないか。
自分でも驚くくらい躊躇わなかった。
生身の男性に胸をときめかせたのは人生初めてのことで、これが初恋だと自覚するより先に、言葉が口をついて飛び出していた。
「あのっ・・・・・・・・・好きですっ・・・・・・私を幸せにしてください!」
誰にも手を伸ばしたことの無かった梢が、初めて他人を望んで、自分を委ねたいと思った瞬間だった。
田中梢には無理でも、有栖川梢なら出来ると、そう信じて疑わなかったのだ。
目の前で起こった突然の告白劇に、ぽかんと間抜けな表情で口を開けた永季が、次の瞬間大爆笑した。
名乗る前にいきなり告白する馬鹿がどこにいる。
頭では分かっていたけれど、理屈じゃなかった。
けれど、愚かすぎる純粋さは、三秒後には粉々に砕け散った。
唖然とした颯が、目の前の梢を信じられない表情で見下ろして、短く告げた。
「ご自分に見合った相手と、どうかお幸せに」
呆れたような台詞は、どこにもぶつかることなく真っ直ぐ胸に突き刺さった。
”見合った相手”
もうとっくに脱却したと思っていた、有栖川梢のなかにいまだに根付いている田中梢を見透かされたような気分になった。
彼はいま、自分と梢は釣り合わない、とはっきりと突っぱねたのだ。
新しい居場所を手に入れたから、温かい家族に迎え入れて貰えたから、誰にも忘れられることがなくなったから。
もう大丈夫だと思ったのに。
シンデレラのドレスが一気にボロに戻ってしまった気がした。
いま自分がここにいることが死ぬほど恥ずかしく思えてきて、鳴り響いていたはずの鐘の音は一瞬で消えてしまった。
間違った。
ダメだった。
否定的な言葉で頭の中が埋め尽くされていく。
唇を噛み締めて俯いた途端、つま先の痛みが甦って来た。
あれほど膨れ上がっていた自信が霧のように霧散して、生まれてきたのは重苦しい後悔だけ。
「いや、梢、そりゃあ若はかっこいいけど、いきなり告白は・・・」
いくらなんでもやりすぎだろう、と苦笑いしながら妹の肩を抱き寄せる永季を見て、初めて颯が、梢の名前を呼んだ。
「梢って・・・・・・ああ・・・・・・妹だったのか」
さっきの氷のような一言から一変、温度のある静かな声が耳に届いて、そしてそれが自分にではなくて兄に向けられたものだと悟ってさらに落胆する。
もういやだ消えてしまいたい。
鐘は鳴ったし、ちゃんと手を伸ばしたのに。
「・・・・・・先に帰る」
一刻も早く彼の前から消えたくて、兄の腕を突っぱねた。
「え?あ、おい、梢・・・」
デリカシーとは無縁の永季も、さすがに涙交じりの妹の表情にこれはまずいと悟ったらしい。
が、こんな時こそ一人にしておいて欲しい。
「タクシーで帰るから」
今日みたいな日に限って、運転手の要がいないことが悔やまれた。
自宅から永季と二人で出てきたので、今日は完全に別行動なのだ。
高校生の頃のように朝夕べったり一緒に動くことの無くなった和弥は、警備会社で別の仕事も請け負っているので昔のように呼び出すわけにもいかない。
そしてそれは妹のまりあも同じことだった。
梢に年頃の女の子としての最低限の常識や教養を与えた後は、良き相談役として一緒に過ごしてくれていた彼女も、梢が大学入学を機に有栖川の警備会社に就職して事務員をしている。
こういう時に泣きつく相手がたった二人しか思い浮かばない自分の交友関係の狭さを呪いつつ足早にパーティー会場を抜け出した。
エントランスに停まっていたタクシーの後部座席に乗り込んでから、ああ、胸がときめいたのは初めてで告白したのも初めてで、そして失恋したのも初めてだったな、と気づいた。
こうして梢の最初で最後の恋は、一瞬で木端微塵に吹き飛んだのだ。
まさか、吹き飛んだ初恋の欠片を集めて、彼がもう一度差し出してくるなんて、想像だにしていなかった。
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