第16話 夜天

この辺りの作法を教え込んでくれたのは家政婦の舞子だった。


有栖川の妻から躾について何か言われたことは一度もなかった。


彼女は、最初に出会ってから別れる瞬間まで、ただただずっと梢を一人の女の子として思い切り可愛がってくれた唯一の女性である。


そして最後まで一途に愛された女性でもあった。


梢の思考がやたらとロマンティックな方向に傾いているのは、同居していた女性たちと彼女の影響を受けたせいだ。


だから二十歳を過ぎるまで誰にもときめかずに過ごしてしまったから、あんな大失態を犯したのだ。


今更悔やんでもしょうがないけれど。





「失礼します」


ノックの後断りを入れてドアを開けると、待ちかねた様子の颯がソファから立ち上がった。


「やっと来た」


嬉しそうに相好を崩してまるで自室のように梢を招き入れた彼が、さっさとお盆を受け取ってテーブルに乗せてしまう。


見れば室内には彼一人だけしか残っていない。


「アポなし訪問のくせに何言ってるのよ・・・・・・ねえ、虎島さんは?」


「飽きたから散歩してくるって」


「え!?」


「迷子になるような広さでもないし、そのうち戻ってくるよ」


心配ないと眦を緩めた颯が、早速両手を捕まえて自分の隣へと誘導してくる。


身を引く暇さえなく、横並びにソファに腰を下ろす羽目になってしまった。


「そのうちって・・・虎島さん、まりあを探しに行ったんじゃ」


「ああ、まあそうだろうね。いいんじゃない?」


「良くない・・・」


虎島がどの程度本気でまりあを追いかけているのか分からないが、一筋縄ではいかないことは確定している。


結婚適齢期を迎えた彼女に、有栖川がどれだけ良縁を差し出してもまりあは首を縦に振らなかった。


理由は一つ、側仕えをしてきた梢の婚姻を見届けるためだ。


つまり、梢がいつまでも独身を貫いているとどんどんまりあの婚期が遅れていくことになる。


元よりまりあには結婚願望がないので、本人はまったく気にしていないようだが。


身を乗り出した颯が、顰め面になった梢の額に軽く唇を触れさせた。


響いたリップ音に一拍遅れて身体を引くも、すぐに引き戻されてしまう。


本当に油断も隙も無い男だ。


「俺はどうでもいいよ。それより、梢は自分の心配をしたら?」


「物凄く心配だから、この両手を離して貰える?」


「それは無理だね」


満面の笑みで断った颯が、じりじりと後退を続ける梢のほうへ近づいてくる。


「このソファじゃすぐに行き止まりだと思うけど・・・ほら」


「ご、ご用件は?」


「網代商事とのお見合いは、もうすぐお断りのメールが届くと思うよ?」


お見合いの打診をしたばかりの取引先の名前を口にされて、梢は一瞬真顔になった。


「・・・・・・・・・」


「多分、梢のなかにはまだいくつかの候補が残ってるんだろうけど・・・・・・それも全部潰すからね」


静かに穏やかに、抑揚のない声で宣言される。


彼がこう言ったらそれは必ずに現実になる。


これまでだってそうだった。


「そろそろこれも終わりにしない?」


弾かれて弾き返して、追いかけてみなさいよと逃げ出したのは梢のほうだ。


これまで梢が挑んだお見合いが穏便に消滅していったのは、彼が上手く手加減して捌いていたせい。


けれど、梢は、颯が一番手を伸ばしてほしくなかった西園寺に手を出してしまった。


恐らくそれが彼の逆鱗に触れたのだ。


捕まえていた手を放して、絡めとるように指先を繋いだ颯が、すいと顔を近づけてくる。


キスの予感に咄嗟に目を閉じたら、彼の吐息を首筋に感じた。


無意識に期待していた自分が恥ずかしくなって目を開けた直後。


「・・・・・・・・・ねぇ梢、噛みつくなら俺にしなよ」


舌なめずりするかのように低く囁いた彼の唇が、柔らかい皮膚に吸い付いた。


チリっと走った熱い痛みは一瞬で、すぐに違う感触が肌を襲った。


味わうように肌を舐められたのだ。


初めての感覚にぞくりと腰の奥が戦慄く。


間違いなく襲われかけているはずなのに、悲鳴の一つもあげられないのは、繋がったままの指先に力が籠っていないから。


ひっぱたかれる覚悟で彼がこうしているのだと気づいてしまった。


「きみが与えてくれるなら、どんな傷でも喜べるのに」


言っている事とやっている事が真逆である。


沸騰しそうな頭の中で警告音が鳴り響く。


突っぱねてひっぱたいてしまえたらいいのに。


「なんで言った側から噛みつくのよ」


「こんなの甘噛みのうちにも入らないよ・・・?ああ、綺麗についた。梢、皮膚薄いからなぁ・・・なかなか消えないかも、ごめんね」


自分の残した紅い痕にちゅっとリップ音付きでキスを落とした颯がゆっくりと身体を離した。


「なに・・・したの・・・」


「予約の証」


「~~~っ」


「こんな情熱的なキスマークつけて、お見合いなんて挑めないよね?」


これで安心だと満足げに微笑んだ颯が、真っ赤な梢の頬を労わるように撫でた。


颯が待っているのは梢の心だ。


あの日拒んだ梢がもう一度心を開くのをずっと待ち続けている。


「あの日も言ったけど、俺はきみを憐れんだことは一度もない。あの日からずっと焦がれてるんだよ」


熱を帯びていく身体は、心を揺さぶってってしまえと急かしてくる。


”憐れみ”


一番聞きたくない言葉。


そして、あの頃の梢に、一番ぴったりの言葉。



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