第7話 暑天
「永季、梢に隠し通路か気配の消し方でも教えた?」
「はあ?なんすかそりゃ。んなもん教える訳ないでしょ。つか、まんまと逃げられたからって俺に当たらんでくださいよ。こないだのパーティーは挨拶回りの人間も多かったし。だから、
ハンドルを握る永季がバックミラー越しに後部座席を一瞥して呆れた声を返して来た。
あの日レセプションパーティーの会場で梢を見つけたにも関わらず、颯が声を掛ける暇なく彼女は会場から姿を消してしまった。
翌日から仕事が立て込んでおり、スケジュール調整が上手く行かずに、あれ以来一度も、有栖川の警備会社にも、有栖川邸にも顔を出せていない。
つまり、ずっと梢と会っていないのだ。
永季にはご意見ごもっとも頷きたいが、それをしたら余計梢に逃げられる可能性があるから、その選択肢はあまり選べない。
「梢が怖がると可哀想だろ。あの子はお前と違って敏いからすぐに気づく」
幸徳井と勘解由小路の縁続きにあるくせに、永季にはさっぱりその手の才能がない。
目に見えるものしか信じないという素直過ぎる彼の性分そうさせているのかもしれない。
それなのに、有栖川とは縁もゆかりもない養い子の梢は、その手の異形に敏感で、強めの呪詛は肌で悟ってきちんと避けて歩くから不思議だ。
あれで鬼視の素質でもあったらまず間違いなく西苑寺が
その場合二秒で卒倒して使い物にならなかっただろうが。
とはいえ、伴侶と決めた女性を無防備に外には出せないので、大陰か大裳に遠くから見守りだけは頼んでいる。
「あんたがそうやって後手に回ってるから、いつまでも纏まんないだと俺は思いますけどね、若」
「本当に今更だけど、最初の失敗が痛いよ」
「いや、二度目もでしょ」
「煩いな」
目を伏せて息を吐く。
恐らくあれが、人生で最初の失敗を自覚した瞬間だった。
梢は颯の返した言葉に一瞬きょとんとして、ぱちぱちと目を瞬かせて、それから、あ、と何かを悟ったように後ずさった。
これで一人撃退した、と、煩わしさを振り切るようにすぐにその場を離れて、離れた途端、彼女の顔が頭から離れなくなった。
平穏を守る為、災いを遠ざけるため、傷付ける意図を持って投げて来た言葉。
今日初めて、答える言葉に窮して、物凄く当たり障りのない、無難な答えを善良な心持ちで投げた。
だってそれ以外に返せる言葉を持っていなかったのだ。
けれど、彼女の生まれや境遇を考えれば、その言葉は相応しくなかったのだ。
”間違った”
はっきりと理解した瞬間に襲って来たのは激しい後悔。
久しぶりに酒瓶を空けるまで飲んで、それでも酔えずに苦い思いで朝焼けを見て、うたた寝から醒めてもまだ彼女の顔が頭から離れなかった。
それが一週間、十日と続いていよいよ不眠症だと自覚して、自分の罪悪感から逃れるために、彼女に会いに行った。
きみに向けた言葉は不適切だった、申し訳ない、と頭を下げた颯に、梢は謝罪は必要ありません、あなたじゃありませんでした、とはっきり返した。
”あなたじゃない”
もう要らない、と突きつけられた初めての事実に愕然として、今度は寝込んだ。
颯の衰弱ぶりに、見舞いにやって来た永季はゲラゲラ笑ってゼリーの詰め合わせを枕元に備えて、妹は新たな運命の相手探しを始めたと告げた。
その途端、自分がどうしてこんなにも疲弊して、なにもかもやる気が出なくて、死にそうになっているのか、はっきりと理解した。
彼女が違う、と颯を拒んだ瞬間に、そんな訳ないと言い返したくなったのは、梢に惹かれていたからだ。
あの夜からずっと。
”あなたのことはもう好きじゃない”
その言葉を全力で否定したくなった。
どうしても、もう一度あの言葉を彼女の口から聞きたい。
今度は絶対に、答えを間違えないから。
「・・・・・・そういえば、運転手の乾って梢に付いて何年だっけ?」
いま一番気になっていることを口にすれば、急な話題転換に永季が怪訝な顔になった。
「え?あいつですか・・・?ええっと・・・高校入った時からだから・・・かれこれ8年っすね。最初は喋んない笑わないつってぶーぶー言ってた梢が、いつの間にかお供に連れて出かけるようになって、みんな驚いてましたよ。意外と気が合うんだなって」
「へえ・・・・・・ねえ知ってる?乾も、寝てるあの子の部屋に入ったことがあるらしいよ」
「乾も・・・って・・・若」
珍しく兄らしく眉をひそめて咎めるような声を上げた永季を無視して、颯は後ろに流れていく景色をぼんやりと眺めながら返した。
「俺にはその権利もうあるよ。有栖川もとっくに了承してる」
「梢の了承なしにはダメでしょ、あんたまだ戸籍上は赤の他人なんだから」
「へえ・・・永季でも兄貴面するんだ」
「そりゃあね、血は繋がって無くても可愛い妹ですよ。乾はあれでしょ?どうせ寝起き悪い梢を叩き起こすためでしょ?若みたいな下心あってのことじゃないですよ」
「乾に下心がないってどうして言い切れるの?梢はあんなに可愛いのに」
「あんたそれをどうして梢に」
「言ってる。浴びるほど言い聞かせてるよ、でも靡かない」
「ああー・・・うちの連中が可愛い可愛い言い過ぎたな」
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