第5話 炎天
ローストビーフとブルーチーズの一口タルトに、定番のスモークサーモンのマリネ、イタリア風オムレツと彩り野菜のピンチョス、生ハムとイチジクのピンチョス、ミラノ風アランチーニ。
デザートのクラシックショコラ、カラフルなマカロン、鮮やかな苺のタルト、カットフルーツの飾られたカップデザートにティラミス。
レセプションパーティーの会場の中央テーブルにどんと置かれたホテル自慢のパーティー料理を眺めながら、鳴りそうなお腹をぐっと手のひらで押さえた。
「なんだ、お腹空いてるの?」
「昔みたいにがつがつ食べるような品のないことは致しませんのでご安心を。聡兄さん」
「良かったな。生ハムとイチジクのピンチョスがあるぞ。取って来てやろうか?」
「
「すっかり有栖川が板についてるな、梢」
「当然よ。10年以上やってるんだから」
まだ有栖川家を知らなかった13歳の自分がこのパーティー会場に迷い込んだら、人目なんて気にする事無くがつがつ片っ端から料理を口に運んでいただろう。
あの頃の梢はそれくらい飢えていたし、恥じらいよりも先に今日生きて行く事に必死だった。
梢は産みの親をちゃんとは知らない。
物心ついた時には駅徒歩25分のボロボロのアパートで、数人の大人の女性たちに囲まれて暮らしていた。
恐らくその中の誰かが自分を生んだのだろうが、確かめたことなんて無かった。
便宜上、その部屋で最年長の女性の苗字を貰って田中梢と名乗って学校に行かせて貰ったけれど、参観日と三者面談は毎回違う女性がやって来て、担任を困らせた。
誰かが夕飯を持って帰ってくれる日もあれば、みんなが出払って何も食べるものがない日もあった。
一階に住む大家の老婆が果物をくれるのが唯一のデザートで、給食でお腹を満たさないと夜は何もないことも珍しくはなかった。
自分の生まれが人とは違っていて、いわゆる風俗女性の私生児という立場になるのだと知ったのは中学生になった頃。
担任からそれとなく、そういうことを強要されてはいないかと質問された時に初めて世間からどういう風に見られているのかを理解した。
一緒に暮らす女性達は増えたり減ったりしたし、最後まで本名を知らない人ばかりだったけれど、みんなが梢には優しかった。
梢の名前は、昔アパートで一緒に暮らしていた女性が好きだった漫画のキャラクターの名前から貰ったこと、その女の子はポニーテールが良く似合う可愛い子だったと聞いてから、同居人たちに毎日のようにポニーテールに髪を結って貰って過ごした。
彼女たちは、一度だって梢の前で仕事の話をしたことは無かった。
一人、また一人とアパートから同居人が出て行って、とうとう梢に苗字をくれた女性もいなくなって、大家の老婆が困り顔で家賃の督促に来るようになって間もなく、有栖川が梢を迎えにやって来た。
当時、すでに病と闘っていた有栖川の妻は、梢の名前を聞いて嬉しそうに目を細めて、優しく髪を梳いてポニーテールの髪に黄色いリボンを結んでくれた。
黄色は幸せになるのよと教えられて、それ以降梢の好きな色は黄色になった。
肩書と振る舞い一つで人の見る目が変わるのだと実感したのは、新しい私立の中学校に通うようになってから。
異母兄弟という名目で紹介された4人の兄はそれぞれ少しも似ていなくて個性的だったけれど、そのちぐはぐな感じが、これまで一緒に暮らして来たアパートの同居人たちを思い出させた。
有栖川梢として再スタートを決めたのは自分自身だ。
あの日、有栖川は、アパートで彼女達の帰りを待つ梢に向かって静かに語りかけた。
同居人たちはもう此処には戻れないこと、一緒に有栖川と帰るか、子供たちが集まる施設に入るか、どちらかを自分で選ぶこと。
有栖川には息子が4人いて、娘がいないので、病弱な妻が娘が来たらとても喜ぶと思う、と言われて、自分の存在が喜ばれるのなら、と彼の手を取った。
初めて自分の人生を自分で選んだ瞬間だった。
選んだ以上は努力しなくてはならない。
有栖川に恥をかかせるわけにはいかないと、彼の妻から教えられたことは全て覚えて実践した。
自分で選んだ苗字に恥じない自分であろうと背筋を伸ばせばその分世界は広がって、みんなが優しく受け入れてくれた。
これまでの生活とは一転して、男所帯に放り込まれた時には戸惑ったけれど、頬に傷のある男も、にこりともしない男も、貫くように鋭い眼光の男も、ひたすら寡黙な男も、梢が話しかければきちんと目を合わせてくれたし、決して梢をないがしろにはしなかった。
彼らに”お嬢”と呼ばれることはいつからか誇りになった。
送り迎えの人間がいつも物騒な男ばかりだと噂されても、風俗の娘と揶揄されて過ごして来た梢にとってはなんら痛くは無かったし、むしろ逞しい騎士だと胸を張りたいくらいだった。
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