ヒはないつもり

梅緒連寸

⬜︎

ああ駄目だと思っても気づいた時にはもう遅い。

ブレーキを踏み始めるよりも早くその生き物は車輪にタイヤに巻き込まれる。ガタガタといやな音が車体の下で起きた。

幸いというべきか、山の中の県道を他に通る車もなかったのでその場に停車する。私もまあまあスピードを出していたしあの衝撃だ、きっと無残な事になっているだろうといやな気持で車の下を覗き込む。

・・・なんというか奇跡は起こるものだ。驚くべきことにそいつは形をとどめて生きていた。

携帯のライトで照らすとその光を手繰り寄せるようにはい出てくる。

不可思議な生き物だった。大きさも同じくらいだったので最初はモグラかと思ったが、そいつには鼻先が見当たらない。鼻どころか、目も耳も口も見当たらない。だからいったい頭がどこにあるのか分からない。

ふわふわした毛玉に猿のような手足が短く生えている。説明をするならそんな感じだ、持ち上げて「裏」を覗き込んでみたが生殖器どころか排泄器官にあたるようなものも存在しない。

妙にぬるい体温を持ったそれの触感は、なんだか妙にぶよぶよしていた。

初めて見るおかしな生き物ではあるが可愛くみえない事もない。さすがに車に轢かれて元気いっぱいとはいかないようで、なんだか動きか鈍いようだ。呼吸をするような肉全体の律動も心なしか緩やかであるような気がする。

事故ではあるが私にも責任があるのだと思い、とりあえず車に乗せて山を下り、ふもとの町で動物病院でも探す事に決めた。

抱き上げて助手席に乗せる。まったくの無抵抗だった。ドアを閉め、反対側の運転席まで回り込んでシートに座ろうといた瞬間、車内に盛大に甲高い音が響いたので一瞬心臓が止まるかと思った。


「ひー、きょ」


まだ車の鍵を回していないのでステレオの電源はついていない。他に音が鳴るようなものもないし、もしかして今のはこの生き物の鳴き声なのだろうか?

私の疑いは的中していた。じっと見ていると、またさっきと同じ甲高い声がふわふわの毛玉から鳴った。


「ひーっきょ」


見た目のみならず鳴き声までこんなにおかしなものだとは。私はすこし笑ってしまった。

しかし体の大きさの割には随分張り上げた声だ。もしかしたら苦しんでいるのかもしれない、それならなおさら早く病院に連れて行ってやらないと。

私はシートベルトを締め、エンジンを掛けて車を発進させた。急いではいたが、また同じように生き物を轢くようではかなわないと思い、スピードは控えめにしておいた。


山を超えるのには少し時間がかかる。真っ暗な道をヘッドライトで照らしていると、なんだか自分が海底をさまよう魚になったような気分になる。今日はびっくりするくらいにほかの車と一台ともすれ違わない。

ラジオの電波もよく入ってこないのでステレオを消した。ざあざあと耳障りなノイズを立てるよりは無音の方がまだましだと思った。

時折隣の生き物が鳴き声をあげる。引き付けをおこした女の声のような不気味なそれだったが何度も聞けばすぐに慣れた。


「ひーきょ、ひーきょ、ひーきょ」


車を再び走らせてから10分ほど経っただろうか?ふと謎の生き物が鳴く感覚がだんだん短くなっていることに気が付いた。

さらに5分ほど経つ。もう間違いなく鳴き声1つずつの感覚はだんだん狭まってきており、もはやほぼひっきりなしに鳴き続けているような状態だった。


「ひーきょひーきょひーきょひーきょひーきょひーきょ」


鳴き声の間になにか別の音が混じっている。運転中なので体と顔を前に向けたままちらりと横目でみやると、そいつが手足でちいさくシートを擦っている音だった。手足は、もしかしたら全部足なのかもしれないが、小さいわりに造りが精巧というか、つまようじのように細い指が綺麗に5本生えそろっていた。その指がいま革張りのシートを搔き始めている。


「ひきょひきょひきょひきょひひきょひきょひきょ」


もしかして断末魔に近いものなのだろうか?こいつは死の苦しみに喘いでいるのか。

それならばやっぱり早く医者に見せた方がいい。車のアクセルを少し強めに踏み直した。

ここにきてようやく焦りの感情がわいてきたのは、そいつに同情しただけではない。

なんだかにわかに不気味になってきたのだ。


「ひょひょひょひょひょひょひょひょひょひょひょひょ」


鳴き声はひとつの音声であるかのように途絶えなくなった。声と共にがりがりとシートをかきむしる音がどんどん高らかになっていく。


「ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ」


私はこの期に及んでも、まだこの鳴き声の意味に気付いていなかった。なんだか女の笑い声に似ているなと思っていた。

好奇心にどうしても勝てず、私はハンドルを握ったままで顔を横に向けた。

眼も鼻も耳も口もない生き物が、明らかに私のほうを「向いていた」。

わたしを見て、憎しみをぶつけるようにシートをがりがりと引っかいていた。

引っかき続けるあまりシートの黒い革に無数の白い傷跡が生まれていたし、爪が剥がれたのかうっすらと赤い血の筋もこびりついていた。


「ひひ!!!!!!ひひひひひひ!!!!ひひひ!!!!!ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ」


ああ。怒ってるんだ、そりゃそうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヒはないつもり 梅緒連寸 @violence_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る