第5話 正義を貫いた代償

「……え? どういうことですか?」


 スティーブンさんの説得に成功した翌日。私はハドソン商会に出勤し、テオドアさんから衝撃の一言を告げられていた。

 焦って事務所内にスティーブンさんの姿を探すも、どこにも見当たらなかった。


「どういうこともなにも、今言った通りだ。アリーゼ、お前はクビだ。金を横領するような人間をうちに置いておくわけにはいかん」


――横領……。もしかして、全部私に罪を被せてやめさせるつもりなの……?


「言い訳をしても無駄だぞ。証拠はこちらの手にあるし、解雇クビを受け入れないというなら訴え出る準備もできておる」


――私は平民も同然のしがない男爵令嬢。一方でハドソンはこの国でも有数の商会。役人とのパイプも太いはず。


 どうしてそんな簡単なことに思い至らなかったのだろう。そう考えたときに、スティーブンさんがどうにかしてくれると信じていた自分に気づいた。


「素直に罪を受け入れてうちをやめるというなら、今回の件は大目に見てやってもいい。わしは懐が深い男だからな」


――抵抗したところで、勝ち目は……ない。そうか……。


 私はいさぎよく納得した。

 

 信頼した大人ーースティーブンさんーーに裏切られたのだ。この場に彼がいないことがその何よりの証拠だ。


――お兄様も、こんな気持ちだったのかしら……。ふふ。笑っちゃう。


 弱い立場の人間は、どう頑張ったとしても権力の前には屈するしかない。努力が身を結ぶためには前提として権力を保持していなければならないのだ。

 

 それがこの国の……この世界のことわり


――私は家族と平和に暮らせれば、それでよかったのに。正義のためにと立ち上がった結果が自らの首を絞めるなんて、滑稽こっけいだわ。


「承知しました。横領などした覚えはありませんが、解雇されるという事実は受け入れます。今月分のお給金は……」


 こうなった今、ハドソンに骨をうずめること(永続的な収入保証)を諦める覚悟はできた。けれど、唯一諦めきれないのは……


――お給金! 横領なんてした事実はないのだから、お給金をもらえないと困るのよ! カスティル男爵家の今月の食費が……!


「ふん。図々しい小娘が。そんなもの支払えるはずがなかろう」


――図々しいのはどっちなの……!

 

「でも……私は横領なんてしていませんし……」


――せめて、働いた分は回収したい……!


 食い下がったところで無駄だったと気づいたのは、次の瞬間だった。


――……っ!


 テオドアさんに間合いをつめられたと思ったら、急に視界が暗転し、身体のバランスを保てなくなってその場に尻もちをついた。

 

 頬に走る鋭い痛みを感じて初めて、テオドアさんに殴られたのだとわかった。


「横領した金を返せと言わないだけありがたいと思え!」


 ジンジンする左頬に手を当て、周りを囲む従業員たちが私を見てクスクス忍び笑いを漏らしているのを聞いた。平手打ちの衝撃で床に落ちたメガネを拾って見たらガラスが割れていたが、それにも頓着せずに装着した。

 

 犯してない罪を被せられ、もらってもいない金を返さないことをありがたがれと言われ、挙句あげくに働いた分の賃金は踏み倒されるのだ。泣きっ面に蜂とはこのことだ。


――諦めよう。


 私は痛む頬を押さえたまま、「お世話になりました」とだけ言葉を残し、ハドソン商会を後にした。

 自分のデスクすらなければまとめるべき荷物もない。頼れるのはいつも己の身一つだった。


――また一から始めよう。大丈夫。大人しくクビを受け入れれば不問にするって言ってたから……。働き口は探せばきっとまた見つかるわ。


「この悔しさをバネに、また頑張ろう……!」


 思えばいつも一人で気を張って働いてきた。

 

 もう少しでその頑張りが評価されると期待した矢先、権力によってふり出しに押し戻されたのは、思った以上に精神的なダメージを増大させた。


 さっきまで「この悔しさをバネに頑張ろう」と奮起していた私の勢いは、近くの公園に寄り道し、そのベンチに腰掛ける頃には一八〇度変化していた。

 

 一言でいえば、心が折れる寸前だったのである。


 太陽は私の真上でこの国の人たちを平等に照らしていて――。


――でも、私だけその恩恵を受けられないみたい。


 お昼時の公園は、露店で買ったサンドイッチを食べている人がいたり、飼い犬と日向ぼっこしている人たちがいたりして賑わっている。

 

 精一杯、私のできる限りでやってきたことは、すべて水泡に帰してしまった。それどころか、不名誉な濡れ衣まで着せられてやめることになったので、もしかしたらどこかからその噂が広まって、もうまともなところには雇ってもらえないかもしれない。

 

 私は、そこまで恨みを買うことをしてしまっただろうか。スティーブンさんは、どうして私を裏切ったのだろうか。テオドアさんは、殴りつけたいほど私に腹を立てていたのだろうか。


――二年も働いたのに……私には、何も為せなかった。


 家族の食い扶持ぶちすら稼げない私に価値はない。


 ズブズブとネガティブの沼に沈んでいく最中さなか、急に私へと声をかける人の存在で、私は沼の中から少しだけ引き揚げられた。


「こんにちは。隣、いいですか?」


 顔を上げると、割れたメガネのレンズ越しに人影が見えた。


「どうぞ。私のベンチではないですし。もう行こうと思っていましたから」


 そう言って私が座っていたベンチから立ち上がると、その人は「待って」と私の手首を掴んだ。


「離して!」


 私は咄嗟に叫び、自分の手をその人の手の中から取り戻した。


「ごめんなさい……。驚かせてしまいましたね」


 そう言って両手を上げたその人は、人のさそうな優しい声色をしていた。少し低めの、男性らしい声だった。


「あ……。いいえ。こちらこそすみません」


 私は自分を恥じた。いくら切羽詰まっているからといって、見知らぬ人にあたっていいことにはならない。


「あの……。よろしければこちらをどうぞ。余計なお世話かもしれませんが……冷たい水に浸してありますので、ここに」


 その人は自分の頬を指差しながら、濡らしてあるらしい男性もののハンカチを差し出した。


――これは、超老舗の商会“バロラール商会”オリジナルの……。


 ……と、そこまで考えて私はハッとした。

 いつもの癖で無意識に品定めを始めてしまっていたことに気づいたのだ。


――これはもう、職業病ね。もう何の役にも立たなくなってしまったけれど。


 品を目にした瞬間、求められてもいないのに品定めをしてしまうのは、いささか失礼がすぎる。この癖は封印しないと。

 そんなことを考えながらその男性を見るが、割れたレンズの亀裂が邪魔をして、表情はよくわからなかった。


「ありがとうございます。では、遠慮なく……」


 先ほど反射で手を振り払ってしまったし、いくら心がすさんでいても人の好意は素直に受け入れられる自分でありたい。その一心で私はその男性の好意のしるしをありがたく受け取った。


――冷たくて気持ちいい……。


 男性から受け取ったハンカチを頬に触れさせると、思ったよりも冷たく感じられた。鏡もないので確認しようもないが、頬はひどい状態なのかもしれない。


――そうね。確かに、メガネも殴られたときに割れてしまったし、頬も派手に腫らしているみたいだし。私、かわいそうな子に見えるんだわ。


 私が乾いた笑いを漏らすと、私の隣に座った男性は持参したらしいバスケットの中から、保温用の布に包まれた陶器の筒を取り出した。


――あれは、“バロラール商会”の……。


 ああ。また職業病が。

 だめだめ。もう忘れなきゃ。


「こちらもよろしければ。どうぞ」


 陶器の筒から琥珀色の液体がカップに注がれるのをボーッと見ていたら、男性は注ぎ終わったそれを私へと差し出した。

 繊細な模様が描かれたカップの美しさと、温かそうな湯気の誘惑に負け、私は躊躇ためらうことなくそれを受け取った。


 カップに顔を近づけると、立ちのぼる湯気とともに、ふわりと花の香りが鼻腔を満たした。


――カモミールの香り……。


 口に含んでこくりと飲み込むと、その温かさが喉を通って胃に落ちていくのが感じられた。気持ちばかりでなく、体も冷えていたのかもしれなかった。


 ほっと一息ついたところで、お礼を言うのを忘れていたことに気づいた。

 慌てて隣の男性のほうに視線を向けると、彼はいつからそうしていたのか、待ち構えていたようにまっすぐと私を見ていて驚いた。

 そして、このあとさらに私を驚かせる一言を放ったのだ。

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