第4話 賢くて不憫な同僚

――はぁ。どうしよう。もうやだ……。


 私は未だかつてないほど最悪の選択を迫られていた。


 外套男から危険な資料を受け取ったあと、盛大に動揺しながらも定時までしっかりと働いたのは覚えている。そして、気づいたら自室にいた。確認したら明日の朝夕ごはんもできていたし、一通り掃除も終わっていた。


 頭の中を占めるのは、私が手にしてしまったこの“危険な資料”の取り扱いについて。

 

 この資料をしかる場所に提出して職場を窮地に陥れるか、黙って知らないふりをするか……。


――だめよ。知らないふりはできないわ。あの外套男が情報を握っている限り、遅かれ早かれ暴かれる前提で考えるべきだわ。


 かといってそのまま訴え出ることは雇われの身として不義理の極みである。


――ハドソンでは見下されてきたけど、それは私が意図的に能力を隠していたからであって……。結局ハドソン商会自体に恨みはないのよ。お給料もちゃんともらっているし、それで家族にごはんを食べさせることができているから。


 兄が主導しているカスティル男爵家の投資事業はとてもうまくいっているとはいえない状況だ。今の当家の収入のほとんどはハドソンから支払われた給料で賄われているので、ハドソンのおかげで私たち家族は飢えを知らずに生きていられるのだ。


――商会に対する信頼が揺らげば一気に経営も傾くわ。そうなったとき、真っ先に首を切られるのは私のような臨時職員……。


 はぁ。もう何度目なのかわからないため息をついて私は決心した。

 もとより、現実的な選択肢は一つしかないのだ。


――自ら罪を認め、謝罪するのが一番に決まってる。

 

 問題は、この不正を誰が主導しているのかということだ。


――多分、帳簿を改ざんしているのはスティーブンさんよね。さすがに知らないはずないでしょうし……。順当に考えれば主犯は商会長ね。スティーブンさんが横領なんてするとは思えないし……。


 私はもう一度外套男から受け取った資料を眺める。

 問題となっているのは、毛皮の取引にかかる費用について。

 

 ハドソンはこの国を出て、海を渡った先にある島の狩猟民族と取り引きをしている。彼らが狩った動物の毛皮を貰い受ける代わりに、金品を渡す契約だ。

 私が受け取ってしまった資料は、狩猟民族側の契約書と帳簿の写しだった。それを見るとハドソンとの取り引きの際に彼らへと支払われる金品の額が、ハドソンの帳簿に記載してある金額とはまったく異なっているのである。

 

――毛皮の対価として実際に彼らへと支払われている金額がたったのこれだけで、ハドソンの帳簿に記載があった支出の金額が改ざんされたものなのだとしたら、その差額はかなりのものよ。この大金はどこに消えたのかしら……。


 狩猟民族である彼らは、自分たちが納品した毛皮が実際どれくらいの価格で売られているかなんて知らないで、不当に搾取されていたのだろう。

 そして帳簿上彼らに金額との差額は、誰かの懐に入っている可能性が高い。


――あってはならないことだわ。


 “不当な搾取”は兄のことがあってから、私の中で最も許せない行為である。

 

――もう、こうなったら腹をくくるしかないわ。カスティル男爵家や家族のことはあとで考えよう。


 私は取り引きを健全な状態に戻すためにも、まずはスティーブンさんから説得してみることに決めた。

 


◆◆◆



 翌日。

 

 善は急げとばかりに、私はスティーブンさんに相談したいことがあるので時間をとってほしいとお願いした。

 スティーブンさんは快く受け入れ、ランチの時間を一緒に過ごしてくれた。


「そうか……。アリーゼは帳簿も読めるんだね。驚いたよ」


 私は、昨日起こったことを資料を交えながらすべて話した。最後まで黙って私の話を聞いていたスティーブンさんは、憑き物が落ちたような表情でそう言った。

 

「スティーブンさん、それで……」

「うん。わかってる。アリーゼは不正をただしたいんだろう?」

「えっと……誤解はしてほしくないのですが、決してハドソン商会を陥れたいわけではないんです。あの外套を着た人がどなたかは存じませんが、あの人が証拠を握っているという事実がある限り、こちらは不利には違いありませんので……」

「そうだね。アリーゼは本当に賢いね。僕なんかよりよっぽど倫理観も危機管理能力もしっかりしている。僕は自分が情けないよ」

「スティーブンさん……」


 私は何も言えなかった。スティーブンさんがいい人なのは知っているが、悪事に加担していたことは事実なのだ。実際に搾取されていた被害者がいるのだから、彼の人格がどうであろうと罪には違いない。


「わかったよ。僕は自分が犯した罪に向き合う」

「……!」

「僕にもアリーゼと同じ年頃の娘がいるんだ。娘に誇れる自分でありたいから」

「はい……!」


 私は心底安堵した。スティーブンさんはハドソン商会の中で、唯一私を蔑まず、対等に扱ってくれた人だ。信頼を寄せるに値する人格者である。

 これできっと問題は解決する。この事実が明るみに出れば、ハドソン商会は危ない状況に陥るかもしれない。けれど、外部の人間から摘発されるよりはいくらかマシな結果になるはずだ。


――これで心おきなく自分の家と、家族のことだけ考えていられるわ。


 私は清々しい気持ちでハドソンをあとにし、帰途についた。


 

◆◆◆



「はぁ? 今、なんと申した?」


 アリーゼが帰宅したあと、取引先に赴いていたテオドアは事務所にある自室に戻り、部下のスティーブンから信じられないセリフを突きつけられていた。


「もう、不正な取り引きを続けるのはやめましょう。今まで犯してきた罪を労働省に告白して、不正をただすことを誓いましょう」

「今更なにを……」


 スティーブンはアリーゼから受け取った不正の証拠となる資料を差し示して言った。

 

「証拠を掴んでいる人間がいるのです。いつ告発されてもおかしくないかと。その前に自首したほうが……」

「くっくっくっくっ……」

「……?」


 スティーブンは、何も面白いことは言っていない。もはやすべてを失う覚悟でテオドアを説得しているのに、どうして笑われなければならないのだろうか。

 極めて真剣に話していた分、相手の笑い声が腹に据えかねた。スティーブンはいつもはしない不躾なもの言いで、思いの丈をテオドアにぶつけた。


「笑いごとではない! ハドソンと、ハドソンで働く全従業員の未来がかかっているのだぞ!」

「そんなことはわかっておる。まあ落ち着け」


 テオドアはまったく動揺した様子も見せず、緩慢な動きで机の引き出しから葉巻を取り出し、火をつけて煙を燻らせ始めた。


「おい……!」


 頭に血が上っているスティーブンがまた非難の言葉を重ねようとしたところで、テオドアは口を開いた。


「だから落ち着けと言っている。わしが何もをしておらんとでも思ったか?」

 

 テオドアはまたくっくっくっ、と笑った。

 スティーブンは顔から血の気が引き、「まさか……」と口をパクパクさせた。


「うむ。きっちりと上には金をばら撒いて押さえておる。事実が明るみに出ても揉み消されて終わりだ」

「そんなことが可能なのか……? 腐ってる……」

「ふん。それが政治の世界だろうて。特権階級が甘い蜜を吸えるようにこの国はできておるのだ。お前もいつまでも甘いことばかり言っておらんで、早く慣れろ」

「……」


 スティーブンは一世一代の覚悟を不要のものとされ、気が抜けて膝からくずおれた。


「ふむ。いいことを思いついた」


 テオドアはスティーブンが持っていた資料を眺めて何か思案していたかと思えば、急に表情を明るくして葉巻を口に咥えた。

 肺いっぱいに吸い込んだ煙を一気に吐き出し、気分良さそうに言った。

 

「せっかくもらった証拠だ。うまく利用させてもらって、用無しの小娘を追い出してやろう」


 スティーブンは表情をなくしていたが、泣きそうな顔をしながらテオドアの足元にひざまずき、懇願した。


「アリーゼのことは……私がうまく言い含めますから、どうか、どうか無体なことはしないでください」


 テオドアは懇願するスティーブンを鬱陶うっとおしそうに睥睨へいげいし、冷たく言い放った。

 

「わしに楯突たてつくのか? お前を道連れにすることもできるのだぞ?」


 スティーブンはぎゅっと瞳を閉じ、唇を噛み締めながらテオドアへと縋りついた手をゆっくりと離した。


「それでいい。お前のことは失うには惜しいからな。あの小娘に何が起ころうとお前は一切口を挟まないことだ」


 テオドアは機嫌よく自室の扉を開け、外へと出ていった。

 パタリと扉が閉められ、スティーブンはテオドアが吐き出した濃い煙が充満する部屋の中に一人取り残された。


「僕も……同じ穴のむじなだ……」


 スティーブンにとっては娘と同じ年頃の子の働き口がなくなることよりも、自分を含めた家族の幸せが守られるほうが大切だった。


「吐き気がする」


 もう何も見たくない。考えたくもない。

 

 スティーブンは賢くて不憫ふびんな同僚のことを、もう忘れてしまいたいと願った。

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