第3話 運命の日

 その日は、たまたまスティーブンさんがお休みだった。

 聞こえてきた話によると、娘さんの風邪をもらい、高熱で動けなくなってしまったのだとか。


――家族から病気もらうことって多いわよね。


 私も最近はあまり顔を合わせることもなくなってしまった家族のことを考えつつーー。

 少しでも休んでいるスティーブンさんの役に立ちたかった私は、事務所にほとんど人がいなくなる時間帯を狙って、彼のデスク上の書類を整理していた。

 私の目の前を、思案顔をした従業員が通り過ぎたのはそんなときのことだ。


「……アリーゼ? そんなところでなにをしている?」

「商会長から頼まれた仕事をしております」

「ふーん?」


 私は聞かれたときのために準備していたセリフを口にした。商会長の小間使いのような仕事をしている私なので、商会長の名を出せば大抵のことは聞き流される。


――どうせ、大したことはできないと思われているしね。


 そんなことよりも、さっきからこの人はどうして私の前から立ち去ってくれないのか。仕事が進まないではないか。私が不思議に思っていると、何かを考えていたらしいその人はまた一方的に話し始めた。

 

「うーん。まあ、急ぎではないんだが……」

 

「……どうしました?」


 なんだか聞かなくてはいけない雰囲気だったので尋ねてみたが、ほぼ雑用しか任されていない私が聞いて対応できることなどないだろう。そんなことを考えながら、目の前にいる彼の情報を頭から探り出してみる。


――彼は確か……先日新しく雇われたジョンさんだわ。スティーブンさんの下についていたわね。


「これ、まだ教えてもらってないからわからなくて……。でも、先輩たちみんな出払っちゃってて聞ける人もいなくて……」


――先輩たちは大方、“ランチミーティング”に駆り出されているのでしょうね。でも、全員出て行っちゃったの? いつもは事務所に残るスティーブンさんがお休みなこと、伝わっていないのかしら?


 毎回“経費”処理されると聞くランチミーティングだが、ちゃんとミーティングの体裁を保てているのかどうか……。参加したことのない私には実状はわからなかったけれど。


「そうなのですね。ミーティングが終われば先輩方も帰ってくるでしょうから……」


――それを待てばいいだけよね?

 

 私がそう告げてきびすを返そうとすると、突然にっこり笑ったジョンさんが数字の書かれた紙を私の眼前に掲げた。

 

「実はここの……最後の計算が合わなくて困ってるんだけど……アリーゼ、わかったりしないよな?」


 目の前に差し出されたそれは、ハドソン商会の仕訳しわけ帳だった。


――ああ! 大きなお金が動いてる! ときめくわぁ。

    

 咄嗟にときめいてしまった胸を抑えながらもざっと目を通してみると、勘定科目の仕訳が所々間違っていることに気づく。これでは最後の金額が合わないのも当然だ。美しくない帳簿に胸のときめきは鳴りをひそめた。


――わかるわけないだろう、って顔ね。


 チラリとジョンさんの表情を伺って内心ため息をつく。

 

 こんなふうに見下されるのは、もう慣れた。何より、、受け入れなければならない。

 

 雇われた経緯が特殊で立場も弱いため、私は従業員たちからやっかみを買い、足をひっぱられる可能性が高かった。悪意から身を守るため、組織の中で必要以上に目立たないことを優先した結果が今の状況を作り出したのだ。


――私のはもう貸さない。貸すのは、正式に雇用してもらえたあとだわ。


「……ごめんなさい。私には、なにがなにやら……。お力になれなくて申し訳ないです」


 私が困った表情を作ってそう告げ、仕訳帳を返した途端、ジョンさんは「ほらな」と言わんばかりに、私を馬鹿にした態度を隠さなくなった。


「まあ? 俺レベルでもわからないんだから、アリーゼは仕方ないさ。この紙に何が書かれているかもわからないだろう? 悪かったな。無駄な手間を取らせた」


 くるりと方向転換して、私に背を向けたジョンさんは、歩きながら私に捨て台詞を残した。

 

「先輩たちから聞いていた通りだ。ハドソンのお荷物であるアリーゼには聞くだけ無駄だったよ」


――自分の不出来を棚に上げて、どうして私をそんなふうに嘲笑ちょうしょうできるのかしら。


 経理に身を置くのなら、仕訳はできて当然だと思っていた。新しく入った他の従業員の能力もジョンさんと同等なのであれば、私は即戦力になれると断言できる。


――私、本当にこの商会の一員になるの……?


 いつも自問自答を繰り返している。

 雑用しか私を見下し、職場の仲間をお荷物だと吹聴している人たちがいる場所で働くのかと――。


――ううん。一員に。この国有数のハドソン商会に正式雇用されたら家族のためになるわ。


 疑問に思うたび、私はいつも同じ結論に達する。正式雇用されれば永続的に安定した収入を手にできる。この権利は、家族を養っていくなら何を犠牲にしても手に入れるべきものだ。


――やはり世の中お金よ……!


 私はこぶしを握りしめ、大量のお金を手にする自分を思い浮かべた。お金を稼ぐことを考えると心が落ち着く。お金は私の精神安定剤とでもいえるものだった。


 

◆◆◆


 

 その後、軽くランチを済ませて事務所での仕事を終わらせ、一階の店舗“フィエルテ”に降りたところで、一人のお客様が現れた。重たそうな外套をまとい、顔は深く被ったフードによって半分くらい隠れている。背の高さと足の大きさから男性だろうと判断できた。

 この店舗では織物を取り扱っており、世界各国から珍しい織物を集めていることでも有名な店だった。そのため、こういった旅行者ふうの商人が商品の買い取りを求めて訪れることも珍しくなかった。


――買い取り希望のお客様かしら?


「いらっしゃいませ……と。あぁ」


 フィエルテの店主を務める男が裏から出てきてお客様を出迎えたが、私と同じ考えに至ったのだろう。店内を見まわし、私の姿を見つけると安堵した顔をして言った。


「アリーゼ、お客様の対応を頼む」

「承知しました」


 私は当然のように頷く。

 私が他の人よりも商品の価値を見抜く能力に長けていることは自覚しているからだ。それはこの上だ。彼が黙って手柄を横取りしているから、対外的にはそうは思われていないのも知っているけれど。


――手柄を横取りされるくらいなら許容範囲内ね。私もフィエルテで仕事させてもらってるおかげで、様々な商品を目にできて勉強になっているから。


 その上、私にとっては店主がいい隠れ蓑になっているし、お互いの利害が一致したいい関係を築けているといえる。

 

 私はそんなことを考えながらお客様様へと近づき、声をかけた。


「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」


「これ……」


 私が話しかけると、そう一言だけ発して、お客様は紙を差し出した。

 私は咄嗟にそれを手にして、内容に目を通した。ほぼ反射のようなものだった。


――なに? え……⁉︎


 これは危険な代物しろものだ。そう気づいて確かめるためにお客様へと視線を向けたときには、その人は既に店の外へと出るため扉に手をかけていた。


「お待ちください! お客様、これ……」


 そう言って駆け寄ろうとしたが、もう間に合わないだろうことはわかっていた。


「きみに、それを託すよ……どう扱ってくれても構わない」


 その一言だけ残し、お客様は去っていった。

 私は渡された紙を持ったまま、その場に立ちすくむ。

 

「どうしろって言うのよ……!」


 心臓がバクバクせわしなく動いている。その音が頭へと大きく響いて思考を邪魔する。頭の中はぐちゃぐちゃだ。


 私の手に託されたものは、この商会の未来。


 その紙は、私の記憶が正しければハドソン商会が労働力を不正に搾取している証拠となる資料だった。

 なぜこんな危険なものを私に託すのか、外套男の襟元を掴んで問いただしたい気分だった。


――あと一ヵ月。平穏無事に過ごせればこの先ずっと安泰なはずだったのに……!


「アリーゼ? なんだった?」

「あ……。なんの店かわからないから少し覗いてみただけだったようです」

「へぇ。うちの店を知らない人間もいるんだなぁ」


 遠い国から来た旅人か? そんな呟きを残しながらまた店の奥へと戻っていく店主を見送りながら、私は後ろ手に隠した紙をくしゃりと握った。


――どうして気づいてしまったの……!


 私はこの資料を見て気づいてしまったのだ。

 先ほどジョンさんに見せられた仕訳帳に記載のあった金額と、この資料の金額は乖離している。


――ハドソンは、犯罪に手を染めている……!


 私の未来もこの手に託されたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る