第2話 ハドソン商会

「おはようございます!」


 私が元気よく入ったのは、“ハドソン商会”という看板を掲げた事務所兼店舗がある建物の中。一階が店舗、二階以上が事務所となっているそこは、王都で複数の店を経営するこの国でも有数の商会だ。

 偶然、商会長の目に留まり、臨時職員として雇い入れてもらえたのは本当に幸運だった。


「ああ、アリーゼおはよう」

「スティーブンさん、おはようございます!」


 スティーブンさんは、ハドソン商会の経理を務めている。いつも柔和で部下に優しく、数字に強くて責任感も強い人なので尊敬している。

 いつか私もスティーブンさんの下で経理の仕事を手伝いたいと思っているところだ。


――だって、大好きなお金の計算をしてお給料大好きなお金をもらえるなんて最高じゃない? でも、その夢が叶うのももうすぐ……


 そう考えると頬が緩むのを感じた。

 商会長からは、雇われたときに『臨時職員として二年間しっかり下積みしたら、希望の部署にて正式雇用する』という約束をしてもらっているのだ。


――あと一カ月で約束の二年がたつ。

 

「早速なんだが、ここに積んである商品の検品を頼むよ」


 顔をにまにまさせている私を気味悪いと思ったのか、スティーブンさんは表情を曇らせながら私にそう指示をくれた。


「はい! 承知しました!」


 私は表情をかちりと切り替えて仕事を受ける。

 今では掃除、洗濯、検品、品出し、接客、会計……言われたことをすべてそつなくこなせるようになった。


「アリーゼ、来たのか」


 この恰幅のいいおじさまはハドソン商会の商会長であるハリー・テオドアさん。兄とカスティル家を支えるために仕事を探していた私に手を差し伸べてくれた方である。


「テオドアさん、おはようございます!」

「うむ。あとでわしの部屋の掃除を頼む。あと、名刺の整理も任せたい。書類の分類もいつものようにしてくれ。それとお茶も」

「はい! お任せください!」


 あと一カ月と迫った下積み期間を終えるまで、私は全力でこの仕事をやりぬこうと改めて決意した。



◆◆◆



「あの小娘、せっかく見込みがあると思って雇ってやったのに……」


 アリーゼに指示を出してその場を去ったあと、テオドアは機嫌悪そうに舌打ちし、スティーブンへ愚痴を吐き出した。


「あの子……アリーゼはどんな仕事もそつなくこなしますし、磨けば光ると私は思いますが……」

「はぁ? 雑用など誰でもできるだろう? はまぐれで、あやつには思ったほど価値がないことはこの二年でよくよく思い知った」

「彼女の一言のおかげでこの商会がここまで大きく成長したことは事実です」

「それも、たかが小娘が発した一言を聞き逃さずに取り上げ、このわしが実現したからこそであろう?」


 テオドアは呆れたように言って椅子にふんぞり返り、大きな腹を揺らした。

 

 二年前にアリーゼが呟いた一言をきっかけに、ハドソン商会は大きな転換期を迎えることとなった。アリーゼが呟いたその言葉を実現させたいテオドアの一存によって、彼女はハドソン商会へ雇い入れられることになったのだ。

 

「……ですが、あの子の“審美眼”は評価に値すると思います」

「大袈裟な! あれはちょっとした特技とでもいうものだろう。それを言うならフィエルテ店主のほうが能力は上であろうしな」


 フィエルテとはハドソン商会の王都事務所ビルの一階にある店舗名で、そこの店主の審美眼が優れていることは有名である。彼の審美眼にかなった商品は必ず売れるとまで言われるほどだ。


「くっくっくっ。もうすぐ約束の二年だと、一生懸命に頑張っている姿は哀れそのもの。期限までせいぜい雑用でこき使ってやるしかあるまいな」


 くっくっくっくっ、と楽しくてしょうがないというようにテオドアは笑い続けている。それを見ていたスティーブンは表情を消して顔を俯けた。


「そんなことより……。万事抜かりはないな?」


 突然真顔に戻って声のトーンを落としたテオドアに尋ねられたスティーブンは、肩をぴくりと揺らして一層頭を下げた。

 

「はい……お申し付けの通りに……」

「うむ」


 テオドアはスティーブンの様子など露ほども気にせず、自分のことで頭がいっぱいだった。


「業績はうなぎ上り。金は唸るほど懐に入ってくる。いいことづくしだ。己の才能が怖いわ!」


 くっくっくっくっ。部屋にはテオドアの笑い声が響き渡る。

 スティーブンはその声を聞きながら何を思っているのか、終始顔を俯けたままであった。



◆◆◆

 


「……やばっ! 寝過ごしちゃった! 遅刻しちゃう!」


 いつも目覚ましがなくともきっかり同じ時間に目覚める私なのだが、その日はなぜだかいつもの時間に起きられなかった。


――昨日、遅くまで残業していたのが原因かな……。仕事を早く終わらせるのだけは二年かけても難しいんだよね……。


 残業はよくあることなのだが、昨日はいつもより遅くなってしまった。

 テオドアさんの大切な書類がなくなってしまったとかで、手が空いている私が探すしかなかったのだ。


――結局鍵のかかった引き出しにあったのよね……。テオドアさん、忙しすぎて忘れちゃったのね。


 昨日は取引先の接待を兼ねた飲み会があったようで、十二時過ぎて事務所に帰ってきたテオドアさんに「書類を探すために鍵が必要な理由」を理解してもらうのが大変だった。


――見つからないと帰れないし、私が勝手に探せない場所はそこしかなかったし……。探せっていうなら最初から引き出しの鍵を渡してくれたってよかったのに。そうしたらもっと早く家に帰れていたのに……。

 

 家に帰るのが夜中の一時を過ぎてしまっていたので、家のことをするのもすっかり遅れてしまい、睡眠時間があまり確保できなかった。


――はぁ。やめやめ。ネガティブは捨てるのよ、アリーゼ!


 いつだってそうやって生きてきたのだから。

 これからもそれは変わらない。

 

 いつもの支度を素早くすませ、時間を気にしながら二階にある自室から出て急いで一階にかけ降りた。


「あ、アリーゼ! まだいたの? いつも早いからてっきりもう出かけたものと思って……」


 食堂に顔を出すと、母親が兄と弟妹とともに朝食をとっていた。

 私の分はもちろんないだろう。

 

 当家、カスティル男爵家は非常に貧乏なので、使用人を雇う金などない。だから、屋敷内の仕事は私がほとんど担っている。

 

 兄は当主としての仕事があるし、弟妹はまだ幼いし、母は弟妹の世話をするのに手一杯。自動的に屋敷内の掃除、洗濯、食事作りは私の仕事となったわけだ。

 

 いつも通り、今日の分の朝食と夕食も昨日の夜きちんと準備した。

 

 私は毎朝、家族の誰よりも早く仕事をしに出かけるので、この時間に家族と会ったのは久しぶりだった。

 毎日仕事が終わって家に帰ると、全てカラになった鍋や食器が流し台に残されているから、寝坊してしまった今日、私の分の朝食が残っているはずがないことはわかっていた。

 

「みんなおはよう。今日はちょっと寝坊しちゃったから。食べなくて大丈夫。いってきます」


 私は母とだけ言葉を交わし、そのまま食堂をあとにした。

 

――ああ、やってしまった。朝食お腹にいれないと元気出ないのに……。


 お金ほどではないが、食べることも大好きなのだ。

 毎日の楽しみである朝食をとり損ねてしまったことで気分が落ち込み、とぼとぼと職場への道を歩くことになった。


 このあと、私の運命を変えてしまう出来事に遭遇するとは知らずに……。

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