第10話:風邪を引きました。

 ――ピピピピ、ピピピピ。


 軽快な電子音が部屋に響く。

 少し経って音を止めたそれを脇から取り出し、画面を見る。


「三十八度三分かー……。久々にやっちゃったな、こりゃ」


 はぁー……と溜息をつきつつ体温計をケースにしまい、サイドテーブルへ置いた。

 そのまま枕の横に転がっていたスマホを手に取り、職場へと電話をかける。


「――……はい……はい……。申し訳ありません、ご迷惑おかけします。……それでは。――……ふー……とりあえずこれでよし、と」


 電話を切ったらどっと疲れた。

 やり切ったとばかりに力を抜いて、そのまま横になる。

 頭が痛いし、身体も重い。喉もイガイガする。鼻が詰まって呼吸もしづらい。

 完全無欠に風邪だ。


 もぞもぞと毛布と布団をずり上げて中にすっぽりと納まると、ほんの少し落ち着けたような気がした。

 そのままうつらうつらとしていると、コンコンコン、と控えめなノックの音が聞こえてきた。

 半ば思考を放棄したまま「はーい……」と応えると、予想するまでもなく朱莉が入ってきた。

 ゆっくりと身を起こす。


「小枝ー? そろそろ起きないと……――って、どしたの?」

「風邪引いたみたい……。仕事休むって連絡した……」

「うわ、マジか。大丈夫なの?」

「大丈夫……。寝てたら治る……と思う……」

「そっか……。うーん、何か私に出来ることある?」

「風邪薬切らしてるから仕事帰りに買って来てくれたら嬉しいかな……」

「ん、わかった。それより食欲ある? 何か消化の良さそうなものでも用意しようか?」

「……いいよ、朱莉は今日仕事でしょ? ほら、時間なくなるよ」

「……了解。じゃあ何かあったらいつでも連絡入れてね。早退してくるから」

「……バカ。でも、ありがと。いってらっしゃい」

「うん、いってきます」


 パタン、と閉じられた戸を見送って、再びベッドへと戻った。

 ぐにゃぐにゃと揺らぐ意識に身を委ねると、脳がどんどん眠りへと落ちていく。

 私は流れに身を任せるように、夢の世界へ旅立った。




 数時間ほど眠っていたらしい。

 カーテンを通して薄っすら見える外の光が先ほどよりも強くなっている。

 ぐっすりと眠った分、朝起きた直後よりも幾分か身体が楽になっていた。

 と言っても、さすがにいつも通り動けるほどには回復していない。

 傍らのスマホを手に取り、電源ボタンを一度押す。


「昼の十二時か……。何か食べよ……」


 朝は結局何も食べていない。

 食欲はないが、そろそろ空腹も限界だ。

 おかゆでも作って食べよう……。


 ずりずりと這い出るようにベッドから足を下ろした。

 ゆっくりと立ち上がって一歩踏み出すと、少しくらっとしてたたらを踏んだ。

 おっと、危ない。

 どうやら感覚ほどには回復していないらしい。

 改めて気を引き締めて、いつもの半分くらいの歩調を心掛けて歩き、部屋を出た。


「――あ、起きた?」

「え?」


 なぜか朱莉がいた。

 思わず目を瞬かせるが、やはり見間違えではない。

 仕事に行ったはずじゃ……。


「お腹空いたでしょ。何か食べられそう?」

「あ……うん」

「そっか。じゃあちょっと待っててね。今うどん作ってあげる。小枝、好きだったよね?」


 疑問を晴らすこともなく訊かれるがままに答え、そして我に返る。


「――――じゃなくて……なんでいるの? 仕事は?」


 返事を聞きつつキッチンへと向かった朱莉に問う。

 すると調理をしながら返事を返してきた。


「んー、休んだ」

「え……なんで?」

「だってどうせ身が入らないし。いいのよ、今日は人員にも余裕あるみたいだし」

「でも……」

「いいの、病人はそんなこと気にしないで。それにあまりに余ってる有給も、いい加減使わないとだしね。ほら、いつまでもぼさっと立ってないでさっさと座る」

「うん……」


 本当にいいのかな? そう思いつつも、ぼーっとするし、これ以上考えるのが億劫だ。

 まあ本人がそう言ってるんだし、大丈夫なんだろう、きっと。


 トン、トン、トン、と包丁がまな板を叩く軽快なリズムが聞こえてくる。

 なんとなく「何切ってるのー?」と訊いてみると「ネギ」と返ってきた。

 好物だ。嬉しい。「ついでに卵も落としておいて」と要求を増やしてみると「了解!」と元気のいい返事が聞こえた。

 うん、やっぱり好意は素直に受け取るべきだな。


 しばらくソファに座ってぼうっとしていると、そのうちにだしのいい香りがふわりと鼻腔をくすぐった。

 思わず、ぐぅとお腹が鳴った。

 頭が働いてない分、欲望に忠実になっているのかもしれない。

 さっきまでそれほど食欲がなかったのに、今は早く食べたいという考えでいっぱいになってしまう。


「お待たせ」


 湯気の上がる、シンプルなかきたまうどん。

 ぼけっと眺めている間に、朱莉はテキパキと箸と木のスプーンを用意してくれた。


「さ、食べなよ」

「ありがと。いただきます」


 汁を口に含ませると、ふわりと幸せの味が広がる。

 風邪で荒れた喉は少しピリッとするが、あまり気にならない。


「美味しい……」

「そう? よかった」


 朱莉はニッと笑う。

 私も曖昧に笑い返し、そしてまた目の前のうどんに集中する。

 美味しいな。こういうとき他人に作ってもらう料理ってなんでこんなに美味しいんだろう。

 適度に柔らかくなった麺をちゅるちゅる啜る。

 噛むたびに満ちる優しい甘さにほっとする。


 そのまま私としては頑張って食べているつもりだったのだが、半分ほど食べたところで満腹となった。

 どれだけ美味しく食べているつもりでも、弱った身体には負担らしい。


「ごめん、美味しかったんだけど、もう……」

「あー、いいよいいよ。そんなの。風邪引いてるんだから仕方ない。ほら、食べたらさっさと休んで。治らないよ」

「……ありがと」


 その後も氷枕を用意してくれたり、汗で濡れた身体を拭いてくれたりと、朱莉は甲斐甲斐しく世話をしてくれた。

 私もそれを抵抗することなく素直に受け入れた。

 すると翌日にはだいぶよくなっており、大事をとってもう一日休んだものの、その次の日には仕事に復帰できた。


 やっぱり誰かと暮らすっていいな。

 もし朱莉が風邪を引くことがあったら、同じことをしてあげよう。


 そんな感謝を込めつつ、快復して最初の食事を作るときには、いつもよりも気持ち豪華なメニューを用意したのだった。



 そして余談だが――


「小枝、しっかり痩せたね? もうすっかり元通りじゃん」

「嬉しいけど……こんな痩せ方は望んでなかった!」

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