第3話 灯籠の道
瞼を開くと、市松人形と目が合った。
僕の肩を揺する手が止まる。
「あ、おきた。おにいちゃん、だいじょうぶ?」
市松人形が喋った。
いや、なんだ男の子か。僕を呼んでいた声だ。
「おちたの?」
男の子に訊ねられて、石段から転落したことを思い出した。
背中がごつごつすると思ったら、僕は歩道に倒れていた。
慌てて上半身を起こす。
「いたいとこない?」
「あ、うん。大丈夫」
頭や背中に打撲の痛みはあったが、すぐに治まりそうだった。よほど落ち方が良かったのだろう。
「よかったあ。もうっ、ちゃんと足元みてなきゃだめだよ」
「ごめん」僕は首の後ろをこすりながら謝る。
まだうまく力の入らない足で立ち上がると、男の子は僕の学生ズボンについた砂埃を小さな手で払ってくれた。
礼を言いながら、僕はまじまじとその姿を眺めた。
七五三のような羽織袴。髪の毛は顎の長さで切り揃えられている。
「これ、おにいちゃんの?」
そう言って男の子がよこしたのは、僕の学生鞄だった。
「ありがとう。どこにあったの?」
「そこにおちてたよ」
男の子は石段下を指さし、丸い顔で微笑んだ。
「きをつけてね」
ばいばい、と手を振り、男の子は黒下駄で公園沿いの歩道をまっすぐ歩いて行った。
僕はその背中を見送りながら、九月の着物姿に首をひねる。この時期に、行事などあっただろうか。
男の子は十字路を、蕎麦畑のある左へ曲がって見えなくなった。
空を覆っていた雨雲は、いつの間にか綺麗に払われていた。夕日は炎のような激しさで、住宅街はその影となって沈んでいる。
アスファルトがもう乾いていた。僕は一体どれくらい気を失っていたのだろう。
時間を確認しようと、学ランの内ポケットからスマホを取り出した。
画面を点灯すると、文字がテトリスのような化け方をしている。電波は圏外。転落の衝撃で壊れたらしい。もういいや、どうせ滅多に鳴らない電話だし。
今日は三日ぶりに父が出張から帰ってくることを思い出し、僕は家路を歩き出した。
十字路に差しかかり、何気なく男の子が曲がった左へ目を向けると、踏切の向こうに蕎麦畑が広がっている。
畑を切り開いてできた農道の両脇には、紙灯篭が置かれていた。
「灯篭?」
僕は思わず足を止めた。
先ほど石段から蕎麦畑を見渡した時には、灯篭など無かった。
ほおずき色に揺れるあかりは、蕎麦畑の向こうの山まで長く続いている。この町で一番大きな霊園のある山だ。
何か行事でもあるのだろうかと、僕は蕎麦畑の道へ進んだ。
踏切を越えようとしたところで、警報音が鳴り出した。
警報灯が赤く点滅し、遮断機が下りてくる。
「あらぁ、歩君じゃないの」
停止線で立ち止まっていると、線路沿いの遊歩道から現れたおばちゃんに声をかけられた。
白い割烹着姿で、買い物袋を持っている。父か母の知り合いだろうか。
「どうしたの? こんなところで」
お多福顔のおばちゃんが親しげに訊ねてきたので、
「あそこの灯り」
僕は灯篭の道を指さした。
等間隔に並ぶ灯篭はよく見ると、一つ一つに人の名前が書かれている。
「何のイベントです?」
おばちゃんは灯篭の方へ目をやると、「今日はシガン祭りの日だねえ」と独り言のように声をひそめた。
「シガン祭り?」
生まれた時からこの町に住んでいるが、初めて聞く名前だった。興味が湧いてくる。
そんな僕の思いを見透かしたのか、おばちゃんが釘を刺してきた。
「駄目だよ、寄り道なんかしちゃあ」
おばちゃんの細い目が、じろりと一瞬僕を睨んだ。
しかしすぐ元の笑顔に戻り、
「どうせ同じ方向なんだし、一緒に帰ろうか。ねえ、ほら、お母さんも心配してるよ」
踏切に電車が進入し、背中からどっと突風が吹いてきた。
母が精神病院に入院していることを、この人は知らない。
「いえ」僕は逃げる準備をしていた。
「大丈夫です。ありがとうございました」
「そんなこと言わないで。もう日も暮れるんだし、さあ、一緒に帰ろうねえ」
おばちゃんは顔いっぱいに笑みを広げて、「ほら」と僕の方へ青白い手を伸ばしてきた。
「本当に、大丈夫ですから」
僕は一歩後ずさった。
踏切は電車が通過したばかりで、まだ遮断機が下りている。
おばちゃんがおもむろに手をつないできた。
冷たい針のようにささくれた皮膚にぎょっとする。
「ちょっと、離してください」
掴まれた手を力いっぱい振りほどくと、おばちゃんの顔がぐんっと僕に近づいてきて、突然別人のように野太い声を張り上げた。
「歩君!」
警報音が止んだ。
遮断機が上がった。
僕は灯篭の道へ駆けだした。
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