Ⅰ
*
やばい、やばい、やばい、やばい。
「遅れる……!」
自転車のペダルを殴るように踏み続ける。今日は脚の調子がいいから良く回転しているけれど、もう、実は手遅れなのではないかと寒慄していたりもする。
暖色統一でオシャレした街路樹が、その服をパラパラと足下に脱ぎ捨て、人間どもに片づけさせ始めている季節。脱ぎ捨てた服なのだから、踏みつけられて当然であろう! 昼過ぎの閑散としたアーケードを、黄色い落ち葉を踏んで蹴散らして自転車をかっ飛ばす。
冬の到来を感じさせる冷気に切り込むようにして、私は自動車教習所への道程を爆走していた。
本当にやるべきこと又はやりたいことがあるのに、それを差し置いてどうでもいいことに時間を費やしてしまったという経験は読者諸君にも思い当たる節があるだろう。人間である以上避け難い衝動にまんまと敗北し、気づいたときには「時すでに(たぶん)遅し」だったのだ。
ふとした瞬間に時計を見ると、教習所への無料バスには間に合わない時間になっていた。家を飛び出し、自転車にまたがり、ロケットの如く飛び出した。背負ったミッションはなんとも私的なものだったがそこはご愛敬。
大学一年生の暮れの秋。
人生の夏休みの夏休み中に通い始めたのに、なんだかんだ仮免にすら辿り着いていない体たらくである。別にやる気がないわけではないのだが、想像以上に進みが悪い。自らの未熟さを嘆いても仕方がないのだが、その不毛な時間が私のタイムスケジュールから消え失せることはなかった。
こういう時に限って信号は味方してくれないのである。道中の全ての信号に引っかかった。なんてことだ。
やっとこさ教習所に駆け込むと、配車手続きカウンターの前に一人の女性が立っているのが見えた。
恐らくあれは配車手続き待ちの教習生だろうと、私は思った。爆走が功を奏して間に合ったのだ、と。
髪の毛を手櫛で整えつつ、私は先ほどの女性の後ろに並んだ。
そして私は、肉体的疲労からくるものとは違った種類の鼓動の高まりを、その身に覚えたのである。
教習生と思わしき女性は、貧相な我が経験から判断するに大学生であった。目を引いたのは、少し茶色がかった背中まで伸びた柳髪。艶やかなさらさら髪は、女性経験も当然貧相な私を釘づけるのに十分である。
「もしかして、○○さんですか」
だから私は、受付の教官からの呼びかけに必要以上に驚いてしまった。
ぎょっとして、顔を上げると、教官は少し気まずそうな表情で私を見ている。
「あー、たった今、キャンセル待ちの方に来てもらったとこなんですよね」
私は瞬時に理解した。
この教習所には「キャンセル待ち」というシステムがある。教習予約に欠員が出た際に、キャンセル待ちをしていた教習生が抽選をして、その空き時間を埋めて無駄にしないという画期的なシステムだった。
状況を鑑みるに、今回の欠員は私である。
つまり、間に合わなかったのだ。受付の横に置いてある時計に目をやると、普通に二分過ぎていた。
「……あ、は、…………すみません」
最も確率が高かった予想外の展開に、私は口籠り、取り敢えず謝罪を口にした。
教官は変わらず気まずそうな顔をして、私の前の女性へと視線を移した。
「……どうしましょうか。私はどちらでも大丈夫ですけど」
女性は戸惑ったように、私と教官を交互に見渡した。この場面でルッキズム的な視座に立つことを許してもらえるならば、彼女は私の想定を超えた美人であった、と評さねばならぬ。
「今回遅れてしまったのは○○さんなんでね、選択権はあなたにありますよ」
教官は特に私を非難するような口調でもなく、淡々と彼女にそう続けた。
瞬間「困るだろう」私はそう思った。急に一任されてもねぇ、と。ただ、まもなく彼女に余計な選択を迫らせてしまっている諸悪の根源が私であると自覚して、みるみる体温が上昇した。
困るだろう、じゃないのだ。彼女が困っているとしたらそれは私のせいであり、非があるのは完全に私なのだから、彼女は本来困る必要すらないのである。私は傍観者ではないし、対等な天秤にかけられるべき存在でもないのだ。恥を知れ、しかる後判決を待て。
「いいですよ、私は、また次回で」
しかし私の世迷独り言を断ち切るように、彼女は即答した。
「え、いいの?」教官も私と同様、彼女が乗るべきだと考えていたようだ。
「はい、全然!」
まさかの展開に私の思考はウユニ塩湖の如く真っ白になった。
「あ、りがとうございます」
そんな中でも、お礼の言葉が口から漏れた。このときほど、幼少期の親の教育に感謝したことはない。
「じゃ、○○さん乗っちゃいましょう。でも、遅刻しないようにしてくださいね。どうしても遅れるときは、一本連絡を入れてください」
「すみません、……ありがとうございます」
教官から配車カードを受け取り、横の女性に向き直る。
「その、ありがとうございます」
彼女は、朝陽に咲く花のようにぱっと笑った。
「いえいえ」
続いた言葉の、なんたるや。彼女に差すのは朝陽でなく後光である。
「教習、頑張ってくださいね!」
その笑顔が脳裏に張り付いて、折角譲ってもらった教習で私はいつも以上にへまをやらかした。無事故で終われたのが奇跡である。
でも、気分は全く悪くない。
サドルにまたがり、ペダルに足を掛ける。足裏を通じて、私の多幸感が自転車のフレームに注入されていくようだった。今なら何でも許してしまえる。赤信号もどんとこいだ。
私はもう片方の足で地面を蹴って、帰路につい
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