第30話 月を見ながら

 辻宮美夜は少し高めの窓から顔を出すお月様を眺めていた。

 そういえば、洞窟で襲われそうになった日から鮮明に彼の夢を見るようになった。

 彼の柔らかそうな鳶色の髪の毛も、あの日以来はっきりと思い出せる。

 あの時の男の子はいつも以上に輝いて見えた。


「……うん。あの子の髪は三日月のお月様だった。ちょっとだけ銀色に輝いていて、とっても綺麗だったんだ。」


 秋の夜長と言うけれど、彼女にとっては絶望的な夜長だった。

 体育館の倉庫に閉じ込められる。

 漫画や小説でよくあるシチュエーション、まさか同じ目に自分が遭うなんて。


「明日からバイトなのに、うちはここから出られないの?」


 スマホも持っていない。

 鞄も持っていない。

 堅牢な扉を開けられるものも、壁の高い位置に取り付けられた窓まで登る術もない。

 大戦以前に作られた学校が故に、元々は軍の施設だったと噂されている学校。

 ロマンあふれる大正の香りは残念ながら、牢獄のような倉庫とは無縁。

 いや、むしろこっちの方が軍施設の名残を残しているのかもしれない。


 ——それに、大きな問題がある。


「……うちのせいなのかな?またうちのせいで、みんながおかしくなってしまったの?」


 彼女は友人に連れられて、ここにやって来た。

 けれど後ろから突き飛ばされて、扉を閉められた。

 あの洞窟の時のように中に誰かいるのかと思ったが、今回は誰もいない。

 いともあっさりと美夜専用の独房が完成した。


「不文律がそんなに大事?あの桜井君は本当に大丈夫なの?」


 最後に聞こえたのは友人だった彼の声を思い出す。


「先生が悪いようにはしないって言ってた。だから、僕たちの戦いが終わるまでここにいて。僕が必ず迎えに来るから」


 先生、戦い。

 心当たりがないわけではない。

 全てはあの意味の分からない授業の後から始まったのだ。


 ——五日前。


「美夜はいいよね。あんな素敵な人に愛されていて。」


 突然、里奈がそんなことを言い始めた。

 美夜はそもそも睦の顔を覚えていない。

 それに美夜の視界に映る竜崎の顔はどこか違和感を覚える何かだった。

 他人の顔をどうこう言うつもりはない。

 ただ、違和感を覚える顔という枠組みだけで考えると、どこかで見たことがある。

 しかしそれもあやふや過ぎて殆ど覚えていない。


「んー、里奈ちゃん?うちにそういう人はおらんよ?」

「……まだ、見え見えの嘘を吐くんだ。先生と生徒、禁断の愛だもんね。でも、残念。中学からの友達に嘘を吐いてほしくなかったな。」


 そんなことを言われても、——いや、この辺りから美夜は誰のことを言っているのか気付き始めた。

 クラスの全員とまではいかないが、半分以上があの教師のカウンセリングをきっかけに変わっていく。

 それが生徒だけでなく、教師にも当てはまるのだから、あの男に対する不信感ばかりが募っていた。

 友人の場合は、異常なまでの恋愛脳。

 女子の大半はそういう変化を見せている。

 では男子はどうか、——半数近くの男子生徒が自分に妙な視線を向け始めた。

 伊集院と山之内のような視線もあるが、全く別の意志が含まれている視線もあった。


「辻宮さん。……一応、言っておくけど。危ないから一人にならない方がいいよ。」

「危ないん?うち、また何かやらかしたん?」

「やらかした……ことになってるんだ。先生が危惧してたことが現実になり始めているみたいなんだ。」


 そして、その感情は女子生徒にも含まれているという。


「まあねぇ。美夜の態度を見て、ムカつく女子も多いんじゃないかしら。私も賛成。大人しくしておいた方がいいわよ。」


 ——三日前


 流石にこの段になると、美夜の耳にもとある公立高校の噂話が届いていた。

 ただ、そうなるとおかしなことがある。


「あれじゃろ?うちと付き合っていたって言いふらしとった高校生。その人と関係があるん?じゃったら——」

「——馬鹿ね。それはその高校生の妄言よ。きっと、フラれたことを疎ましく思ったんでしょ。自分で髪の毛を真っ白にして、あの先生の真似をしているって話よ。」


 確かにそっちの話もあちらこちらで伝わっている。

 もはや、噂話の域を越えていた。

 誰もが自分に聞こえるように話をしている。

 そんな中。


「その件だけど、僕なりに調べてみたんだ。ま、簡単な話、公立高校の長谷部って人に電話してみただけだけど——」

「あ、あの人!うちのことを知ってたんだっけ!」


 桜井新次郎、彼の言葉が救いになると思った。

 記憶にはないけれど、一学期にその高校に通っていたのは疑いようのない事実だった。

 そして、あの人は悪い人には見えない。

 ただ、ものは言い様というやつだろう。


「うん。……その人、ほとんど学校に来ていないんだって。そこで僕は信じられないことを知ったんだ。辻宮さんとの繋がりは分からないけど、彼に三億円の借金があるのは本当なんだって。」

「それって……。美夜がその人に三億円貢がせたって意味⁉はぁ。そりゃ、あんな噂も立てられるわね。」

「三億円の借金って?」


 ジワリと脳から汗がしたたり落ちる感覚がした。


 ——頭が痛い。

 

「それだけじゃなく、他にも噂があるの?」

「不文律を乱すからじゃないの?……美夜からあの二人を誘ったんじゃないかって噂が立ってるの。勿論、私は信じてないわよ!」

「そうだよ。僕だって信じてない。……でも、だからこそ用心しなきゃ。」


 それどころか、頭そのものが爆弾のようになってしまう感覚。

 頭の真ん中に火薬があって、頭ごと爆破しそうな感じがする。

 目撃者がいないということは、その場で何が起きたのか、誰にも分からない。

 山之内は何かの責任を取って退学した。

 伊集院は不慮の事故で重傷を負った。

 そして辻宮は赤鬼が出たと妄言を吐いた。


 この中で、おかしい奴は誰だろうか


 ——そして昨日


「あの、お昼休み中にすみません。辻宮ですけど、レイラ先生いらっしゃいますか?」


 美夜は堪らず助け船を出していた。

 両親に相談しても、聞いたことのある言葉しか返ってこなかった。

 学校に行かないという選択は、絶対にとりたくない。

 彼女が欲しいのは、あの先生がおそらく広めているだろう、悪い噂を打ち砕く方法。

 

「あら、美夜ちゃん。待っててね、丁度空いていると思う。」


 懐かしい気持ちになる古川ゆかりの声。

 そして病院の電話の保留音が流れる。

 その音楽を楽しむ余裕はない。

 美夜はどう説明すれば良いか迷っていた。

 あの技工士さんに会わせてくれたら、大逆転できるに決まっている。

 小遣いを全部使って、学校に来てもらっても良い。

 白髪で赤い目のカッコよい男性が他にもいる、二人の証言が全てじゃないと分かってもらえる。

 あとは、どうやって説明するのかだが……


「美夜ちゃん、話があるみたいだけど、それって明後日の出勤と関係がある話?」


 スマホからレイラの冷淡な声が聞こえた。

 いつもの喋り方ではないけれど、電話ではこんな感じなのかもしれない。

 その違和感を抱きながらも、美夜は勇気を出して単刀直入にお願いをした。


「あの!出勤とは関係ないんですけど、大切な話なんです。白い髪の——」

「関係ない話ね、悪いんだけど切らせてもらうわ——」


 そして通話終了を知らせる通知がスマホに表示された。


「……切られた。うち、やっぱり変なのかな。確かに病院に関係ないことだもん。電話を切られて当然かも」


 ——そして、閉じ込められた今日


 絶対に逃げたくないという気持ちがあった。

 あの事件の真相を知っているのが竜崎で、アレが自分の元カレであるという話で纏まっている。

 本当に、頭が本当に爆発しそうだった。


「辻宮さん‼学校に来ないんじゃないかって思ってた。先生も心配していたよ。カウンセリングを一度も受けていないのは違う理由があるからじゃないかって。」

「だって、うちは悪くないもん。それよりうち、思いついたの。つまりあの事件がうちのせいってこと、うちが悪者ってことになっているんだよね。——でも、その当事者だった伊集院君が、うちは茶色い髪の男の子と付き合っているって言ってた。」


 昨日の夜に考えていた美夜のとっておき、——いや、それくらいしか思いつかなかった。

 先生とは付き合っていない、その目撃者がいるのだ。

 だから、その話でどうにか話を逸らそうと考えた。

 しかも、この情報をくれたのは自分を襲おうとした奴だ。


「美夜、滅多なことを言うものじゃないわ。今は美夜があいつをたぶらかしたって話になってるんだから。——それに先生は普段、茶色いウィッグを被っているの。元カノなんだから本当は知っているくせに。」


 だが、既に回り込まれていた。

 絶対に使いたくなかったのに、それさえも愚策、既に対策されていた。

 それどころか、桜井はこんなことを言う。


「教師と生徒が関係を持っていた。さぞやご両親もご立腹だろうね。もしかしたら進路に響くかもしれないし。だから、辻宮さんはカウンセリングを受けられないんだよね。だって勘当寸前なんでしょ。来てくれて良かったよ。」

「先生は児相に連絡しているみたい。学校に来なくなったら、家に乗り込んででも美夜を助けるって。洞窟の時と同じね。ほんと、羨ましい。」


 ついに家族の話を始めたらしい。

 児童相談所に連絡と言われただけで、ソワソワしてしまう。

 教師は既に公平な存在ではない。

 絶対に家族に不利な発言をするだろう。


——いや、そんなことよりも


「……もう、頭に来た。本当に腹が立つ!うちは悪くない!なんであんな先生のことを信じとるんよ!顔もよく分からないし、授業も意味が分からないもん!」


二人がちぐはぐなことを言っていることが不気味で堪らなかった。

 里奈はあの教師のゾッコン。

 そして、この少年は盲信。

 そのせいか、出鱈目な話を鵜呑みにしている。

 それが気持ち悪い。

 あと、親のことを言われたからキレた。

 でも、それが引き金だった。

 

「美夜!あんた、どれだけ薄情者なのよ!」

「辻宮さん!駄目だよ。みんなピリピリしてるんだから!やばいかも、今すぐここから逃げよう。そうだ、竜崎先生のところなら!」


 クラス全員が白い眼で睨んでいる。

 勿論、逃げたくはない。

 ただ、桜井の案には賛成だった。

 敬遠していたからここまでの無茶苦茶をされたのだ。

 だから、あの男に直接言うべきなのだ。


 ——お前の目的は何なのか、と


「うん。先生はどこ?」

「分かった、案内するよ。先生はね——」


 その時間、体育館は静かだった。

 疑問に思ってはいたが、こんな事態になるなんて想像だにしていない。


「何かあったらここにって言われてたんだ。先生はこの先にいるよ。だから、しばらく大人しくしてて。大丈夫、きっと先生が一番良い結末を選んでくれる。そして僕が美夜を迎え肉るんだ。」


 そして、私は閉じ込められた。

 英雄になりたい少年の妄言を閉じ込められた先で聞きながら。

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