第26話 事件の後(下)

 人々が混乱する一方、渦中の人物は女医の後片付けの手伝いをしていた。


「君ねぇ。なーんで前歯を全部折っちゃうかなぁ。」


 白衣の女は、抜歯鉗子と先が弓の字になった器具・抜歯挺子へーベル高圧蒸気滅菌機オートクレーブに入れながら、ため息を吐いた。


「……知らねぇ」

「ムカついてたからか。ふーん。自分で縁を切っておいて、ずいぶん粘着質ね。」


 明日の朝の診療までに滅菌を済ませなければ、古川ゆかりに叱られる。

 六人分の抜歯処置をしたのだから、器具が不足してしまう。


「言ってねぇし。鬼っぽくなってたあいつらは大したことなかった。だから保険治療か。」

「ご家族がそんなお金は出せないって。だから単なる事故扱いで保険治療よ。それに彼らはあの記憶が欠落している。何の参考にもならないわ。ま、記憶があったところで君への罪は問えないでしょうけど。」

「チッ。二束三文にもならないのか。——残念だ。」

「うちでインプラントを勧めたんだけどね。実家の近くの歯医者さんに通いたいんだって。ほーんと残念。」


 ただ、睦自身も伊集院の縁者に関しては興味を持っていなかった。

 今回の件で、最も大きな成果は、やはり彼と考えている。


「ま、山之内君は見事自費治療を受けることになったからいいじゃない。しかも——」


 女医が手招きをしたので、睦は彼女の近くに寄った。

 するとゾッとするほどの綺麗な顔を彼女も近づけた。


「なによ。ま、いいわ。彼の両親がずいぶん積んでくれたのよ。特殊課には報告してくれるな、ですって。」

「は?そんなんダメだろ。」

「こちらが身柄を引き受けるという条件を出したの。」

「それは政府御用達として大丈夫なのか?」

「いいじゃない。面白そうなんだし。それに彼、君の影響下にある。それなら、問題ないわ。二百万円も積んでくれたんだし。」


 その言葉に睦は半眼を向けた。


「嘘をつけ。億は行くはずだ。俺を騙そうったって通じねぇぞ。」

「騙してないわよ。引き渡さないという約束だけで二百万よ。そして彼自身が同意してくれたら、更に三百万よ。」

「それでも合計して五百万だ。それで済むなら逆に俺を騙してたってことだろ。」

「騙してないわ。君は格式高いお家柄よ。安物で済むはずがない。小さな月が入っているのと変わらないわ。彼程度なら、疑似月石ぎじげっせきで十分なのよ。」

「また、それか」


 いつも、それ。

 家柄と足下を見られているとしか思えない。


「君……。彼が伊集院の人間を似非鬼化させたと思ってる?」

「あいつの臭いが一番強かった。つまりそういうことだろ。」

「それはその通り。——でも、彼自身の力ではないみたい。でも、流石に今回の件は面白い現象だった。喜ばしいことに政府から科学研究費が出ることになったの。」


 そして、知らない話ではぐらかされる。

 ただ、流石に政府という言葉が出るのはおかしい。


「大学病院?……そんな公の場で?」

「君は患者側でしか見たことないでしょ?大学病院というのは研究をするところよ。そして、当たり前かもしれないけど、秘密にしていることが多いの。勿論、知っているのはごく一部だけれど。あのねぇ、研究費ってそう簡単に国から取って来れないのよ?」

「高校生が知っているわけないだろ。」


 美女というだけで、疚しい笑みも絵になってしまう。

彼女こそ、本当のチャーム使いではないかと錯覚する。


「とにかく、科研の一部を回してくれることになったんだから喜びなさい。モーンストルム歯科学会に一石を投じる現象よ。絶対に秘密は洩らさないでしょうね。」

「一石を投じる……ねぇ」


 白髪の青年は柘榴色の瞳をすっと左に動かした。

 すると、そこに座っていた少年の肩が跳ね上がる。


「一体、何の話なんだ。俺は脅されてここに来ただけだ。早く俺をここから出せ。」

「あら。別に貴方を拘束も監禁もしていないのだけれど?」

「そいつが怖いからに決まってるだろ?……なぜ、親父は迎えに来ないんだ。」


 ただ、それは地雷ワードである。

 どれが地雷か気付いていなくとも、気絶しそうな恐怖は彼にも伝わる。


「怖くて悪かったな。それにムカつく。お前は勘当されなかっただけマシだ。——で、こいつは何なんだ。モーンストルムには違いないんだろ?」

「分かりやすく言えば、精通手前かしら。どっちともつかないわね。ただ、さっき親御さんに迎えに来られた少年たちとは違って、本物のモーンストルムが発現するのは間違いないわね。そういう意味でも、彼は良いサンプルなんだから。」


 成程、やはり性格が悪い。

 睦の目力に恐怖している少年を追い詰める言葉をサラリと口にする。


「研究のサンプル?俺は……、俺は生きたまま解剖されるんだ。……俺は、俺は——」

「——え?こいつ、そんなひどい目に遭わされるのか。」


 睦は彼に恨みがある。

 とはいえ、彼自身はただの煽り役だった。

 そこまで残酷な道を辿るとは——


 そんな青年の耳朶が彼女の失笑にくすぐられる。


「なーに、君まで青白い顔しているのよ?美夜ちゃんがあんなに怖い思いをしたのよ。私だって許せないわ。……なんてね。半分は冗談よ。彼のご両親から話を聞いたわ。山之内家は赤鬼伝説に登場する僧侶の子孫。赤鬼サンプルは珍しくないから、人体解剖なんて無駄な研究はしないわ。だーかーらー、調子に乗った少年君も、そこは安心なさいな。——五体満足かは分からないけど、ひどい扱いは受けないわ。」

「そ、そうか。それなら安心だ。」


 一つ年下の少年の言葉に、睦は肩を竦めた。

 そして、呆れ顔である意味で彼を誉めた。


「お前、あれだな。すげぇ、図太いな。全然フォローに聞こえなかったけど。」

「ふ。俺の高潔な血が必要なのだろう。なんせ俺は選ばれし人間だからな。」

「もうちょっとで人間辞めるけどな。」

「な!——つまり神……か」


 前言撤回。

 こいつはただの————。

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