忘れてしまった少女の章

第18話 二学期の始まり

「——、お月さんがきれいじゃね。」


 ほんのりと青みがかった黒髪のあどけない少女は、月を見ながらにっこりと歯を見せた。

 永久歯は一本も生えていないが、月の光を受けたのかキラキラと輝いて見えた。


「あ、あぁ。まんまる……だな。」


 それに答えたのは、少女同様に子供の歯しか揃っていない少年だった。

 彼は月を見ず、月光に照らされた幼女なりに整った顔立ちを、ただ見つめていた。


「ねぇ、次はいつ帰ってくるん?」

「分からないよ。父さんが忙しんだとさ。ここまですげぇ時間がかかるんだぜ。」


 少年の口元も月光を反射させていた。

 彼の場合は、歯科矯正装置による人工的な金属の反射だったけれども。


「——のお父ちゃんってこの町が嫌いなんかなぁ。うちはもっと——と一緒におりたいのに……」

「おれには分からないよ。あんま帰りたくないのはなんとなく分かるけど。」

「えー。ほいじゃ、次はいつ来るん?うちは……、——あ!——、ごめん……」


 少女は目を見開いて、急いで両手を自分の口へと持ちあげた。

 けれど、そばかすがやや目立つ少年は肩を竦ませて笑って見せた。


「お婆様とはあんまり話したことないから、あんまり気にしなくていいよ。俺だって美夜と一緒に学校に行きたいけど、俺の小遣いじゃここへは来れなくて。」


 少年の方が一つ年上だった。

 それにかなり前に都会に引っ越して、そこで小学校受験をしたからか、少女より考え方も精神年齢もずっと上だった。

 そして、半べそで謝る少女のことが大好きだった。


「美夜、俺は大丈夫だから泣かないで。俺が働けるようになったらいつでも——」

「うち、——のこと大好きじゃけ、待てんよぉ。」


 少女は感情に任せて、今の気持ちをはっきりと言った。

 けれど、少年はそれで顔が真っ赤になった。


「お、俺も……。美夜のことが好きだ。」


 ただ、この日ばかりは違った。

 満月が助けてくれたのか、それともこれから暫くは戻ることがないと知っていたからか。

 彼がここに帰ってくるのは、親戚の葬式の時だけ。

 そして、今回は四人の祖父母の最期の一人の葬式だった。


「ほんと?」「本当だよ。」「じゃあ、約束!」「約束って、指切り?」「指切りはもうしたもん!」「んじゃあ、何をすれば信じてくれる?」


 その夜は男児の祖母の通夜だった。

そんな時に、美夜は——と約束をした。

 それは——


「んーとね、んーとね、んーとね。……けっこんのやくそく‼」

「結婚⁉……分かった。じゃあ、結婚の約束のキスでどうだ!しかも口と口とのキスだ。」

「キキキ、キス⁉……キスはうち、は、恥ずかしいけん。」

「えー、結婚は大人がすることだろー。言っとくけど、俺は本気だ。」

「ほんと?ほいじゃあ、うち、キスする!」

「それじゃあ美夜、目を瞑れ。」


 ——そして私は


     ◇


『キーンコーン』


 古めかしい音が古めかしい教室のスピーカーから音の波を作り、藍色髪の少女の耳朶を刺激した。


「お、やっと目覚めたか。宮。もうすぐ授業始まっぞ。昨日も夜中まで勉強してたんだろー。」

「こーら、長谷部。美夜ちゃんは良い子なのよ。がんばってるんだから、茶化しちゃダメだよー」


 中学の頃からの同級生、長谷部誠は居眠りをしていたクラスメイトを茶化し、同じく中学からの同級生の海原雫が彼を諫める。


「ってか、手違いで公立高校に一学期だけ通わされたって意味分かんねぇよな。」

「全くね。……でも、あっちの先生からちやほやされてたんじゃない?」

「いやいや、先生どころじゃねぇだろ。影石高校の男子生徒全員から注目されてたろー?」


 学校に手違いがあったと聞かされたのは、夏休みの終わりだった。

 中高一貫の大志館大学付属学校から、公立高校に何故か転校していたらしい。

 ただ、ちやほやなどされていただろうかと、美夜は首を傾げていた。


「うーん、あんまり憶えていないんよねぇ。あ、授業内容とかは覚えとるんじゃけど。うち、友達おらんかったんかも。誰がおったとか、あんま記憶なくて……」

「はぁ、辻宮は人づきあい悪いからなぁ。——でも、色々と雰囲気変わったな、お前。」

「え?そうなん?」

「方言、それ誰の影響?標準語話してたっしょ?それに前は私たちのことも興味なしって感じだったじゃん?授業終わったら直帰してたしー。二学期始まってさ、美夜の方から挨拶した時はびっくりしたもん。もしかして、あっちの高校で良い出会いでもあったんじゃないかって噂になったくらいだし。——ってか、ホントのところどうなの?」

 

 睦とは違い、美夜の両親は娘を拒絶していたわけではなかった。

 神無月家の権威と政府の意向に従わざるを得なかっただけ。

 政府関係者から美夜に関する話、特にあの男に関する記憶を失った話は、両親にとって歓喜以外の何物でもなかった。

 あの神無月と縁切りを果たせたのだ、だから両親は喜んで娘を迎え入れた。


「——なんかね。うち、怪我したみたいで記憶があいまいなんよ。」

「何それ?記憶喪失ってこと?私たちのことも忘れちゃった?」

「つーか、俺たちも記憶に残るほどの付き合いしてねぇからな。」


 少女は首を傾げて、何度か頷いた。


「え、そんなことないよ。うちはエリートコースを進むために、受験勉強を頑張ったんじゃもん。それはちゃんと覚えとる。……中学の時は授業についていけんくて、家でコソ勉しとったし。って、長谷部君、うしろ!」


 そこでタイミングよく、授業担任が彼を小突いてくれた。

 先ほどの予鈴からとっくに五分は過ぎている。


「長谷部さん、海原さん。辻宮さんへの質問はやめなさい。記憶の話もあまり……。学期初めに軽く説明したと思うが、……いや、あんまり適切ではないか。とにかく授業を始めますよ。」


 授業という救いの手により、少女は周囲の視線からも解放された。

 昔の話をされると頭が痛くなる。

 先生にはあまり考えすぎないように言われているが、考えようとしても考えられないが正しい。


(でも、またあの夢……。なんであの夢なん。——いや、あの夢であっとるんか。うちが勉強を頑張ろうって思ったのは、消えてしまったあの子を探す為でもあったもん。)


 実はソレだけは覚えている。

 いや、覚えていると彼女は思っている。

 学校の手違いと記憶障害を同時に伝えられた彼女の最初の質問は、


 ——神無月のお兄ちゃんはどこ?


 だった。


(でも、そんな人はおらんって。うちの年下の子はおるけど、お兄ちゃんはおらんって言われた。あんなにはっきりくっきり覚えとるのに。これはやっぱ陰謀!うちが偉くなって、真相を解明する!って、勉強頑張ったんじゃけど……)


「——辻宮さん?起きてますか?問13ですよ?」

「あ、すみません。そこは——」


 一度クラスがどよめいて、再び静寂が戻ってくる。

 少女に分かる術はないが、彼女は教科書を丸暗記していた。

 まだ幼いノスフェラトゥの力ではあるが、それにより少女の能力は全て向上していた。

 そして、美夜は違う意味でそれを捉えている。


(うち、何かに巻き込まれたんかな。陰謀に近づきすぎたんかな。でも、——痛っ。なんで、あの子の名前が思い出せんのん!神無月家め、あの子をどこにやった⁉)


「ふぅ。授業終わった。ほいじゃ、バイトいこっかなー。」

「美夜、その前にその紙袋に詰まったラブレターをどうにかしなさい。全くもー、男子め。美夜は恋愛に興味ないって言ってるのに。」

「ほんまよー。しずくちゃんの方がずっと綺麗なのになー。」


 そこで雫は美夜の額を指ではじいた


「痛っ!なにするんよー」

「それよ、それ。美夜はクール系キャラだったのに、突然の方言っ娘!そりゃ、男子も発情するわ。普通ならあざとすぎるーってなるんだけど、美夜の場合は何故かしっくり来るのよねぇ。」

「なーん、それ。うち、ずっとこのままじゃもん。ほいじゃー、また明日ねー!」


 小さなリュックを背負った芋っぽい少女は走り出し、廊下で教員に注意を受け、ペコペコと頭を下げながら、あっという間に姿を消した。


「私の憧れのクール系美女が……。絶対に芋男につかまってるわね。」

「あぁ。僕も偶然だが、同じ推理に至ったよ。」

「俺も。」

「あたしも。」


 大志館大学付属学校の男子のみならず女子は、実は彼女の変化を嘆き悲しんでいた。

 同学年のみならず、先輩も後輩も。

 それくらい、過去の彼女は崇高な存在だった。


 ——が、少女はそれには気付かず、心の拠り所へ向かう。

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