第17話 さよならの口づけ
夏休みなのだから、日の出は早い。
だから、大野の部下は俺たちを降ろすとすぐに飛び去っていった。
ライラは開錠して、診療室の奥にある院長室へ歩いていく。
そして俺は漸く血が止まった美夜を抱えて、彼女の後ろを歩く。
どうしようもない不安を抱えたまま、俺は——
「睦君、彼女をそこのベッドに寝かせて。歯科用で面倒くさいけど、一応銀が残っていないか調べておくわ。ま、アレは間違いなく純銀だし、扱いも国宝級だろうから破傷風の危険はないと思うけれど。」
口腔外科に残っていたのか、それとも別の事情があるのか、ライラは美夜の傷口を慎重に探っている。
「あ、もうバレてると思うけど、私の先祖返りは激レア。ってか、有名過ぎて逆に思いつかないかもだけど——」
「魔女……だろ。聞こえてたよ。」
「そそ。だから、安心しなさい。これを塗っておけば、彼女に痛みはないから。」
「俺は痛かったぞ。」
「あら、そう。流石は名家の生まれね。あの程度の魔女の薬だと効果はなし……ね。参考になったわ。」
魔女、ありがちだが確かに怪人の一種であり、人間に近い存在でもある。
そして歯科医師というのもあながち嘘ではないのだろう。
プラスアルファの技術も持っているようだが。
「さ、ルートも確保できたし、暫く眠ってて貰いましょう。……その方が話しやすいでしょ?」
「…………」
血圧に心電図に血中酸素濃度を示すモニターが奥の部屋に置かれていた。
この部屋には入ったことはなかったが、この部屋ならば問題ないと思わせる設備が揃っている。
だから睦は美夜を部屋に残して、ライラの後ろをついていく。
そして、彼は心を支配する不安をぶちまける。
「俺は……、何なんだ。モーンストルムってのは……分かったけど」
すると、ライラは加熱式たばこを咥えて肩を竦めた。
「睦君、君のモーンストルムの
「ノスフェラトゥ……。血を吸う……吸血鬼。……嘘、だろ」
「嘘じゃないわ。だから、君の拳を受けた者は次々に倒れていた。君が
睦は愕然とした。
怪人の先祖返りの一人、その種族名は確かに聞いたことがなかったのだが。
いや、それは仕方のないことだ。
だって、つい先ほどモーンストルムだと気が付いたのだ。
その時も
だが、ライラは愕然とする青年を無視して話し続ける。
「太陽を天敵とする最強のモーンストルムの一種、それが君。しかも君の先祖返りはその辺のモーンストルムとは桁が違うらしい。……忘れたの?君がここに入っただけで、特殊課がここに乗り込んできたことを。どこかで監視されていたのか、それともIDカードに細工がされてあったのか。最強のモーンストルムの血が混じった家は指で数えられるのよ。勿論、ファミリーネームだけでは判断できない。私ももしかしたら程度にしか知らなかったのだけれど。」
ライラの話は半分だけ頭に入り、半分だけそのまま零れ落ちていた。
睦は目を泳がせて、狼狽えていた。
「そ、そんな。どうして……、どうして最初から教えてくれなかったんだ。俺の歯の治療の時、一億円のルーネリアセメントを使ったって説明した時、それからここで働いていた時、話すタイミングはいくらでもあった筈だ。」
知ったところでどうにかなる話ではない。
だが、聞かずにはいられなかった。
そして、想像だにしていない現実を知らされる。
「うーん、歯の治療の時は難しいわね。……だって、私も美夜ちゃんに教えてもらったのだから。」
「美夜……が?だって……」
美夜は嘘をつかない。
ただ、モーンストルムという言葉を知ったのは、つい最近のことだ。
そしてその後は、ライラに止められていたからできなかった。
だがもしも——、それが本当なら今までの前提が全て変わってしまう。
それに、本当に自分がノスフェラトゥだとしたら——
「そして、そこから先なら話せたか?だったわね。……話せるわけないじゃない。あの子が泣きながら、秘密にして欲しいと頼んできたのよ。」
「——秘密⁉」
頭が真っ白になった。
美夜は従順である。
でも、それは睦の前での話、彼女が両親を振り回したのは記憶に古くない。
「そう。彼女は知っていた。そして君が知らないことも知っていた。」
「……教えてくれ。俺はそもそも先祖がえりをしていたのか?治療をしたから、目覚めたんじゃないのか?」
そうであって欲しい。
だが、紫の髪の女は両肩を竦めてこんなことを言う。
「分からないわ。普通は智歯、つまり親知らずが生えるときにモーンストルム遺伝子は発現するの。……まぁでも、最近はその法則もよく分からなくてね。それに君の血筋はずっと監視されていたみたいじゃない。……それほど厄介ということよ。そもそも、モーンストルムに法が適用されなくなったのは、ノスフェラトゥのせいって話よ。人間を簡単に操れるのだから、ノスフェラトゥという言葉を出されたら、人間のの法律が破綻する。君の力はそれほどの脅威なの。だから、どんな可能性も否定はできないわ。例えばそう、乳犬歯が今の犬歯に近い働きをしていたのかもしれない。」
夢で何度も見る暖かくも恥ずかしい思い出が、突然黒いベールに覆われていく。
どす黒い血のベールで汚されていく。
隣の部屋で今は眠っている少女は、ずっと自分を愛してくれていたわけではなく、愛を強制されていたのだ。
本当の彼女が歩むべき青春を、一人の男がチート技で無理やり捻じ曲げていたのだ。
——そして、それはおそらく正しい。
だから、睦は膝から崩れ落ちた。
そんな青年を女は半眼で睨みつける。
「他の誰かだったら気にせずに話したわ。でも、
「俺の権限?……解放……できる……のか。教えてくれ。もしも、チャームを解いたら美夜は。美夜の記憶はどうなる?」
笑えてくる。
何が、リア充プロローグだ。
何が、彼女がいるから他には何も要らないだ。
何が、幸せだ。
馬鹿を言え、全部、俺が奇妙奇天烈な力で無理やり作り出したんだ。
「……。先も話した通り、ノスフェラトゥは有名な怪人よ。いくつもケースがあり、研究もされている。だから、はっきりと言えるわ。君が彼女を魅了した後の記憶から、君と関わった記憶のみが抹消される。記憶に矛盾があっても、自分の都合で勝手に再構築していくの。子供の頃の記憶って曖昧でしょ?それと同じようなものかしら。自我を保つ為、多少の無理を許容する。元来、人間とは利己的な生き物、そんな風に出来ているのよ。」
その言葉を聞き、青年は弾ける様に身を起こした。
そして、愛する少女が眠っている部屋を見やる。
その様子を見た女医は、やはり呆れ顔でため息を吐いた。
「本気?君は彼女しかいないと言ったじゃない。あの子の為に戦ったんでしょう?私たちの声も無視して。」
「——あぁ。でも、全部俺の我がままだった。そこに美夜の意志はない。」
「今の彼女が、今のままでいいと言っているのよ?君がしようとしていることは、少なくとも今の彼女が望んでいることではないわ。」
それはそうだ。
そう思わせているのだから、当たり前の話だ。
でも、それでは……
「分かってる!だけど、それさえも俺が作り出した美夜だ。何度も、何度も何度も何度も何度も思ってたんだよ‼どうして、あんなに純粋に。ひたむきに一途に……。俺に……。なぁ、俺がそうすれば、美夜は自分の意志で普通の人生を歩めるんだろ?」
今日、彼女は死にかけた。
そしてこれからもそれは続いていくだろう。
あの警察官は自分が死んだと思ってくれただろうか、それとも時間切れだから退散したのだろうか。
どのみち、今のままでは彼女は危険地帯のど真ん中だ。
「あの子はまだ人間なんだろ⁉」
こんな自分の為に命を投げ出すことはない。
社会と隔絶した世界で生きる必要はない。
「——そうね、まだ人間ね。君という主人に付き従う人間よ。そして、それを幸せに思ってもいる人間よ?」
「分かっている!……でも、それじゃダメだ。一億円があろうとなかろうと、俺は普通には生きられない、そうなんだろ?」
「……そうね。結局、私も美夜ちゃんを利用した。あの子がいれば、君は大人しく従ってくれる。それにあの子もそれを望んでいたもの。win-win-winと思ったのだけれど、君にとっては違うわけね。」
青年の両肩が跳ねる。
「一億円は美夜を縛るものではなく、美夜と俺が一緒にいる為に使われた。でも、ノスフェラトゥの権限で俺のチャームを解けば、美夜は契約したことさえ忘れる。ほら、ノスフェラトゥが操っただけなんだよ、あれは。」
「そうね。君に関わる記憶はなくなるものね。確かに、ノスフェラトゥに操られてサインをしてしまった。こういう話があるから、モーンストルムは法に保護されない。彼女はそこに片足を突っ込んでしまったわけだけれど、私だって良心は持ち合わせている。——君が望むなら、契約書から彼女の名前を削除するわ。ただし——」
「そっか。なら、……安心だ。」
話はまだ途中なのに、睦は考え事をしながら歩き始めた。
(最初から全部おかしかったんだ。俺と美夜じゃ、全然釣り合っていない。そもそも、美夜は金で釣られるような女じゃない。俺よりもずっと頭が良くて、ずっとみんなから愛されて。本当の美夜なら、たくさん友達がいて、もしかしたら——)
全てが自分の都合よくねじ曲がってしまった。
それなら——
「全く。仕方のない奴ね。記憶はどうにかなったとしても、環境を変えなければ精神が崩壊するわよ。」
「あんたはそういうの、得意だろ?それに俺にだって考えはある。」
「……はぁ。妙なところは信頼されているのね。なんにせよ、彼女を説得……、いやそういう問題ではないのね。」
そう。
それこそが、俺の罪の証明。
「——私に掛かっている誘惑を解くの?うん、いいよ。睦君がそう言うなら、私もそうしたい。」
分かっていたのに、俺は愕然とした。
「美夜はそれでいいのか?」
「睦君が嫌なら、私も嫌だけど。……睦君は、そうしたいんでしょ?」
いつもと同じ、俺を甘やかしてくれる彼女。
でも、それは彼女が俺を愛していて、俺の全てを許してくれるからではなかった。
「俺は美夜が好きだ。」
「私も睦君が好き。」
「……美夜、いつから方言を辞めた?」
「ん-、いつからだっけ。ずっとこうじゃなかったっけ?」
祖母の葬式が終わって、美夜が会いに来るようになった。
そういえば、その時から彼女は方言を使わなくなっていた。
「美夜、あの日の約束は覚えているか?」
「うん。覚えているよ。いつか結婚してくれるって言ってくれた。」
「そっか。その約束は……、絶対に守る……つもりだ。」
「ほんと⁉嬉しい‼」
一瞬だけ、心が揺れ動く。
このままでいいんじゃないかと、俺の心が訴える。
「でも……、今じゃない。」
「そっか。」
今のままでは彼女は都合の良い女のままだ。
俺は贅沢なのか?
それとも外道なのか?
でも、思ってしまうのだ。
——今のままでは彼女を愛せないと。
「睦君、辛いの?痛いの?泣いてるよ?」
「辛いよ。痛いよ。……でも、ダメなんだ。だから美夜のチャームを解く。」
「うん。分かった。」
「それじゃあ、美夜。目を閉じて……」
俺の言うことはなんでも頷いてくれる、それが更に俺の首を絞める。
だから、卑怯な俺は彼女に口づけをするのだ。
チャームを解除する方法は、ノスフェラトゥと気付かされた今なら分かる。
そして、こんな方法を取らなくても解除は出来るが、せめてあの日と同じ場面を味わいたかった。
「
「——睦君、大好きだよ。絶対に…………」
彼女は最後に何かを言って、目を閉じたまま眠りについた。
彼女の頬は涙に濡れていたが、それが彼女の流した涙か、俺が流させた涙か分からない。
「美夜、さようなら……」
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