第13話 選ばれし鬼
「君の歯の写真を思い出して。13番の根尖が閉じることなく、モーンストルムの器官に繋がっていた。神無月家では教わっていなかったみたいだけど、君はモーンストルムの遺伝子を継いでいる。……ただ、それで家を責めることは出来ないの。」
女は加熱式たばこを咥え、うつぶせになって倒れている男を軽く蹴り上げた。
「神無月はモーンストルム?ってか、俺は本当に何も聞いていないし!」
「えぇ。言う必要がなかったから。神無月家からモーンストルムが出たという話は江戸時代、正確には元禄七年から聞いていない。とっくに無力化したと思っていたわ。」
立ち尽くしている青年に構うことなく、女はニトリル製グローブをポケットから取り出した。
「元禄……って。何年前だっけ。……いや、そうじゃなくて俺は」
「そもそもモーンストルムの血はずいぶん薄まっているの。だってそうでしょう?モーンストルム人が滅亡してどれだけ時が経っていると思っているの。——ほら見てごらんなさい。彼、この大きな犬歯の奥にもう一本犬歯があるでしょ?遺伝子に残っている以上、偶に先祖返りが生まれてくる。でも、これって物凄く低い確率なのよ。」
白眼を剥いた男は死んでいなかった。
法律の外にいるのだから、死んでも問題ないのかもしれないが、やはり生きててよかったと加害者である睦は胸を撫でおろした。
そこで安心したのか、睦は彼女の話の矛盾点に気が付いた。
「俺がモーンストルムだとして、一カ月に三人もいるから全然低い確率じゃないっすよ。」
「あら、心外ね。それでは聞くけれど、うちで働く前に似たような人間を見たことがある?」
「い、いや流石にそれは。なんかオカルトチックな世界に迷い込んだって思ってたくらいだし。」
「そういうこと。モーンストルム化を抑えるのは、限られた歯科医師の仕事だもの。そして私もその一人、多く見えて当然だわ。それに日本人はあまりモーンストルム遺伝子を受け継いでいない。……元々、モーンストルム遺伝子の発現は欧米人に多く見られるの。勿論、長い歴史の中で君のご先祖様のように日本に来た欧州人は少なくはないけれどね。」
西洋の血が入っていると聞かれたのはそのためだった……のかもしれない。
それにしても、である。
「じゃあ、俺は運が悪かったってことですか。運悪く、その遺伝子が発現してしまって——」
「運悪くじゃないわ。君は適切な予防処置を行っていたじゃない。」
そこで青年は目を剥いた。
いや、それしかありえない。
「矯正治療……がモーンストルム化の予防だった?」
「細かい説明は置いておくけれど、欧米だと子供のころから矯正治療を受けるのが一般的でしょ?今はただの習慣になっているかもしれないけれど、元々はモーンストルムにならないようにするためだった。」
「じゃあ、俺が……矯正を途中で辞めてしまったから。」
「おそらくはね。でも、ちゃんと説明したでしょ?自費治療はモーンストルムの歯を残すこと。保険治療はモーンストルムの牙を抜くことって。」
「そこまで言ってないっすよね⁉俺はただ、歯を残し——」
「ま、今から抜いても一億円は戻って来ないけどね。……さて、いつまでも喋っていないで、この男の牙を——」
地面に転がる男に向かってライラが手を伸ばしたその時。
その場の空気が明らかに冷たくなった。
そして。
「——申し訳ありません。水無月先生、私の部下を開放してはくれませんか?」
知らない男の声がした。
人影は建物の中からだ、真っ暗でもやはり柘榴色の瞳では見えてしまう。
勿論、睦は未だに瞳の色については知らないのだが。
「愚かな行為と思われるでしょうが、こう見えて鹿之助は使える奴なんですよ。」
男が建物から離れたことで、月明かりが彼を照らし始める。
整えられた髪、知性を感じさせる眼鏡。
更には、ストライプ入りのスーツ姿の二十代。
その男が黒服の部下を引き連れて、廃ビルの外で立ち止まった。
「あら、大野君。久しぶり。半年ぶりかしら。」
「ライラの姉御、ご無沙汰しております。5カ月ぶりです。お元気そうで何よりです。」
睦は無意識に筋肉が強張るのを感じていた。
この大野という男は鹿之助と呼ばれた男と何かが違う。
ただ肉体の変化よりもまず自分のことで精いっぱいである。
「君が鈍感なのはさておき、今はこっちに集中しなさい。私が彼らに横流ししているって話をしたでしょ。いつもは彼が受け取りにやってくるの。ウィナーズ、影岩区担当の大野君よ。彼に免じてその男を許してやって。」
「——え?あ、はい。……気絶してるみたいですけど、ここに放置してたらいいってことですかね。」
「それでいいわ。今日はそれなりに月の光が強いから、勝手に回復するわ。」
「ほう。私を前にしても動じない。私のモーンストルムを感じ取っている風ではあるのに、胆力もあるらしい……か。成程、これは」
男は不敵に笑い、眼鏡を眉間に押し付けた。
だが、その眼鏡の奥の目は笑っていない。
直接話す勇気はないが、ライラが身構えていないので、ただ彼女に倣って棒立ちをする。
(ライラさんは変わらないな。……いや、そういえば強盗犯中村もライラさんを避けて俺を人質にとったんだっけ。ライラさんも巨大化とかするのかな。)
「睦君、余計なことは考えないの。——それで、そちらの用件を聞こうかしら。まさか、その男の敵討ちに付き合わせただけじゃないでしょうね。」
「……そのまさか、ですよ。中立の筈の貴女が、モーンストルムを囲ったという情報が入ってきましたのでね。」
「別に中立を宣言した覚えはないわ。単にあなた達より私の方が
確か、強盗犯が求めていたのがそれであった気がするが、そもそもルーなんとかセメントは病院内には見当たらなかった。
「それはその通りです。ですが、貴女はその
「彼が来たのは偶然よ。それに——」
「彼の旧姓は神無月。しかもルーツは瀬戸内海に浮かぶ島。……瀬戸内海の島々は上級
今まで自分の事で手一杯、ただライラの横に立っていた睦が、初めて彼に狼狽した瞬間だった。
瀬戸内海に浮かぶ島、そこには母親の先祖代々のお墓がある。
(それに確か……、えっとなんだっけ。大事な何かがあったような……。いや、もう縁を切られたんだな。俺には関係ない。……あぁ、そうか。一族からモーンストルムを出さないって契約があったんだ。ライラ先生と政府と同じように特殊な関係だったのか)
単純に一億円の負債を嫌ったのかと思っていたが、理由は全然違っていた。
今まで登場しなかったが、睦には10歳年下の妹がいる。
免疫力が弱いという理由で、ずっと病院に入院している幼子だ。
(俺がモーンストルムになったことで、弥生にも疑いの目が出てしまう。俺が矯正治療を辞めたことでみんなに迷惑がかかっていたのか。)
落ち込む青年、——ただ全部が全部彼のせいではない。
モーンストルムが生まれるのは奇跡に近い、それが常識である。
そうでなければ、睦に真実を話して矯正を続けていた筈だ。
睦の両親も、モーンストルム伝説は終わったものと思っていた。
得体の知れないものは最先端の科学が解明してくれる、そんな世の中でモーンストルムは既にただの都市伝説に成り果てていた。
——勿論、知っている人は知っている。
例えば、睦の祖母も知っていた。
けれど、彼女の周りは殆どの人間は信じていなかった。
仮に信じていたとしても、その発現メカニズムまでは分かていなかった
「ふーん。色々詳しいのね。やっぱり、お宅らも警察と繋がっているんじゃない。それで、私の行動が気に食わなくて、営業妨害を始めたの?」
「噂の真偽を確かめたかっただけですよ。牙を抜かれたとは想定外でしたが。お陰で、無用な引っ越しをしなければなりませんでした。」
「自業自得よ。あんな半端者を寄こすからよ。ちょうど良い相手が現れたら、私だってこの子の力を試したくなるわ。」
(……え、今のどういうこと?)
「貴女と同じ理由ですよ。あの男は鹿之助が用意した野良怪人ですが、鹿之助に命令したのは私です。鹿之助がそこまで貴女に不満を抱えていたとは知りませんでしたが。」
「どうだかね。……で、要は済んだのかしら?急患が来るかもしれないから早く帰りたいんだけど。」
「そうは行きません。このまま帰られたら私が本部に叱られます。我々に計り知れぬ力は、できるだけ早くに計っておくべきなのですよ。」
そう言って、如何にも悪のボスという男が右手を挙げた。
それが号令だったらしく、後ろに控えていた男たちの中から五人が肩で風を切りながら大野という男の前に整列した。
そして、一斉に二人に向かって走り出す。
いや、先の話の流れで、ただ一人を狙っていることが容易に想像できるのだが。
「睦君、あれらは
「そんなこと言われても、喧嘩なんて碌にしたことないって!」
「動物の起源は口であり、歯の分化度は心臓や脳に匹敵する。自分の歯に耳を済ませなさい。」
「そんな無茶苦茶な‼」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます