第10話 二人だけの時間
「長い一日、いや長い夜だったな。……美夜はちゃんと眠れただろうか。サイレンの音、うるさくなかったかな。」
借りている部屋は同じ建物の中、病院の通用口から出れば、外に出なくとも帰宅できる。
部屋の間取りは3LDKとなっており、それぞれが一つの部屋を、そしてもう一つは未だに伽藍洞である。
「睦君!大丈夫だった⁉」
彼女を起こさないように、静かにドアを開けたつもりなのに、玄関には目を真っ赤にした美夜が居た。
リビングは明るく、カーテンが少しだけ開いていた。
だから、美夜が窓から外を見ていたと推測できる。
「美夜、ゴメン。起こしちゃった?」
「謝ることないよ!私、睦君が心配で……」
そこで睦は彼女の涙の理由を知った。
「あ、そか。俺の場合、パトカーには違う意味があるんだっけ。確かに、俺が連れていかれたんじゃないか、とも思える。……大丈夫だよ。病院に強盗が入っただけで、俺の為のパトカーじゃないよ」
「強盗が?……それ、全然大丈夫じゃない。……睦君、ケガとかしてない?」
ごもっとも。
何が大丈夫なものか。強盗が入るなんて、普通じゃない。
大きな嘘を隠すための小さな嘘でさえ、このありさまだ。
「してないしてない!大したことじゃなかったんだって。いちゃもんつけてくる程度の強盗……、いやかつあげかな。……とにかく、直ぐに警察を呼んだから何もされないまま御用だったよ。んで、防犯カメラとかもろもろの説明とかしてたから時間が掛かっただけだから。」
美夜の心配は間違っていない。
「……そっか。でも、絶対に無茶はしないでね。睦君に何かがあったら私……」
そんな危ない場所で、大事な人が働いている。
逆の立場なら絶対に辞めさせるだろう。嘘の言い訳でも、普通の人間の取っては大事だろう。
「本当に大丈夫だから。……そもそも、こんな真夜中に開けている方が悪いんだし。あの女医め……」
「ライラ先生のこと、悪く言っちゃダメだよ。あの人のお蔭で、今私は幸せに暮らせているし。」
流石、最愛の彼女、あんな女にも優しい。
因みに、警察への対応の殆どはライラが行った。
睦は基本的には雑務をしていた。
診療台周りの片づけと、悪漢の血液等を拭き取ったり、自分の白衣を、——と言っても黒色のケーシーだが、それをゴシゴシと洗っていた。
血が目立たないから黒色のケーシーを選択した、なんて思いたくないが。
——ただ、その時に睦はライラに言われたことがある。
『今日の一件は美夜ちゃんには言わないこと。暴漢が現れた程度で済ませなさい。』
『俺、美夜には嘘を吐きたくないんです。美夜は俺に嘘を吐かないから。』
『確かにパートナーとの隠し事は良くないわね。でも、正直に話すことで美夜ちゃんが危険に巻き込まれるとしたら?そんな危険な仕事なら、一緒に夜の歯科医院で働くと言い出したら?先の体験を忘れたとは思えないけれど。』
そこで俺は口を閉ざしてしまった。
ライラは短い期間ではあるが、彼女は美夜という人間を把握している。
美夜があまりにも分かりやすい性格だからかもしれないが、彼女が女医の言う通りに行動をする未来は簡単に想像できた。
有難いことに、美夜は彼氏に愛想を尽かすような性格ではない。
「睦君、私も夜の——」
「大丈夫だって。偶に急患と自費診療が夜に入るってだけ。そもそも、うちの歯科医院は昼間の売り上げでやっていけているようなものだ。それにライラ先生が言っていたよ。美夜が昼シフトに入ってくれたから、売り上げが倍増したってさ。」
「私の活躍じゃないもん。私はお手伝いしてるだけだし。」
「いや、それはそうだろうと思うぞ。俺もそう思うし。……ってか、彼氏として情けないし、借金の原因を作った俺が言うことでもないんだけど、美夜にはお昼に働いてほしい。美夜の給料を上げるって話も出てるらしいし。うーん、俺ってもしかしてヒモってやつじゃないか?」
因みに、モーンストルムについての説明は後日にまわされた。
だから元々、あの出来事は睦にも説明が出来ない。
それでも、——例え稚拙な嘘の羅列でも、美夜は素直に受け取ってくれる。
「睦君はヒモじゃないもん。それに、私は睦君と一緒に住める今の環境の方が、前よりも幸せだよ。だから、私。睦君の分まで頑張って働くね!」
それをヒモと呼ぶのではないだろうか、なんて睦に言えるわけもなく、彼は彼女の好意に甘える。
「分かった。……お互い頑張ろう。」
「あ、せっかく早く起きたんだし。睦君、勉強を教えて!レイラ先生に学生なんだから勉強をしなさいって言われているの。」
「一学年下ってだけだし、美夜の方が頭がいいだろ?」
「だーめ。私は睦君に教えて欲しいの。睦君の声の方が覚えやすいんだよ。なんか、癒されるっていうか——」
そこで睦は目を剥いた。
彼女の言葉に驚いたからではない。
美夜は小学校に上がった後、GWや盆や正月にこっちに遊びに来ていた。
そしてその時にも勉強を教えている。
幼馴染が遊びに来て、そして一緒に勉強をする。
両親に美夜のお蔭で公立高校に入れたと言われていたくらいだ。
それを今の今まで忘れていたことに驚いたのだ。
「そうだったな。俺も勉強はしておいた方がいいし、教えるって結局自分の勉強にもなるんだったな。」
「でしょでしょ。じゃあ、今日は——」
2LDKの間取りで、寝室は分かれている。
けれどリビングは共用、二人の空間だ。
その甘くてとろけそうな時間が考える力を失わせてしまう。
このビルから何年も出られなくなったとしても、このままで良いと思ってしまう自分がいる。
そして、彼女のスマホからベルの音が鳴り、勉強会は終わりを迎える。
「それじゃあ、今度は私の番だね。お仕事、いってきます!」
「うん、頑張ってな。」
そして俺は彼女が出かけてから眠りに就いた。
水無月歯科クリニックは昨日の今日で騒然としているかもしれない。
その心配はないと、ライラに言われているが、暴漢が入ったことになっているのだから、警察が訪ねてくるかもしれない。
結局、美夜も巻き込まれてしまうかもしれないが、昼間の出勤は禁止されている。
「歯医者さんって女性従業員が多いイメージじゃない?でも、法律上は男も同じ仕事が出来るのよ。つまり昔からの慣習なんだけれど、やっぱりそういうイメージがついているから、色々難しいのよね。」
そんな理由と、夜の方がトラブルが多いから寝ておけという、単純な理由。
ともかく、上司であり、借金をしている手前、彼女の命令には逆らえないわけで。
睦はおとなしくベッドにもぐりこんだ。
——また、悪夢にうなされると知っているのだが。
既に歯の治療は済ませているのに、歯にまつわる夢が多い。
一般的に歯が抜ける夢は、生まれ変わり、新しい人生を暗示していると言う。
そして、彼の今回の夢は……
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